『新・水俣まんだら』の部屋

本書は、チッソ水俣病関西訴訟の患者たちの笑いと涙の記録であります。
06年5月27日更新

水俣病のために、貧しくとも豊かな故郷を離れざるを得なかった人たちが、
第二の人生を目指した途端、水俣病を発病する。見知らぬ地で病魔と差別に
耐えた末、せめて一矢を報いたいと裁判に立ち上がったのが
「チッソ水俣病関西訴訟」。熊本県の外で起きた初の県外訴訟である。
水俣病患者と認定されないままに放置された一万人余の患者たちが、
生命あるうちにと、政府解決案による和解に応じるなか、
関西訴訟の原告58人は、裁判を続ける道を選んだ。



このページは、木野茂山中由紀『新・水俣まんだら~チッソ水俣病関西訴訟の患者たち』(緑風出版
2001年,全375頁,46版上製,本体価格2800円)
専用に作成しました。本に収録しきれなかったこと、
関連情報、刊行後のこと、書評などを随時掲載していきます。読者と筆者の間をつなぐ「ひろば」
のような存在になれればと思います。21世紀末には、本とHPのタイアップが一般的になるのかな。
不精者ですが、どうぞよろしくお願いいたします。【作成:2001.12.20】



bk1に書評を投稿してみませんか!  筆者へのメールは、こちらから!  出版記念の集いの報告



2004年10月、最高裁判決で原告は勝訴しましたが、国と熊本県は原告らを水俣病患者として認定していません。
ほかにも問題は、イロイロ…。

そして、新しいグループが発足。患者としての認定を求める活動を続けています。

関西水俣友の会





◆水俣病関西訴訟 「ノーモア」を次世代に  大阪市立大学助教授(環境問題) 木野 茂

 56年の水俣病の「公式発見」からほぼ半世紀。10月に出た水俣病関西訴訟の最高裁判決で、国と熊本県の責任が一部確定した。一歩前進といえるが、裁判で「患者」と認められる人たちが、国・県には患者と認定されないといった問題は解決しないまま、熊本県と鹿児島県では水俣病の認定申請をする患者が急増している。今後、同じ過ちを繰り返さないために、被害の全体像と責任の所在を明らかにし、「ノーモア・ミナマタ」を次世代に伝えることが何よりも重要と考える。

 83年、私は大学で公害の自主講座を始めた。94年からは正規のカリキュラムで公害をテーマにした科目を担当してきた。水俣病は第一に取り上げるテーマだ。

 しかし、若い学生たちにわかってもらうのは容易ではない。知識の羅列ではなく、できるだけ当事者の話を聞く必要があると考え、関西の水俣病患者や薬害エイズ患者らにゲストとして教室に来ていただいた。

 また、企業人、行政担当者、研究者など学生が将来、なるかもしれない立場を想定し、自分の問題として考えさせるように努めてきた。学生は自分の頭で考えることがいかに重要かを実感するようだ。半期の授業の最後には「被害者の苦痛を知り、他人のためにできることをやろうと思った」「講義で受けた衝撃を風化させたくない」「理系だけでなく、文系の専門家にも責任がある」などの感想が寄せられた。

 私は元々、物理学が専門だったが、70年ごろ、学生から科学者の責任を問われ、水俣病、瀬戸内海汚染調査などの公害問題にかかわるようになった。71年、一緒に公害問題に取り組んでいた応用化学専攻の大学院生が、博士論文に科学者の責任を吐露した付記を書き、不合格になった。学内外で抗議の声が起こり、翌年、教授会が非を認めて論文はパスしたが、彼は心労のため自らの命を絶った。

 自主講座を始めたのは、82年に彼の没後10年の追悼集会が開かれて遺志を受け継ごうと思ったのと、同年、生活のために熊本から関西に移り住んだ水俣病患者が訴訟を起こしたのがきっかけである。

 戦後、各国で深刻な公害事件が頻発した。中でも日本は高度経済成長とともに熊本・新潟の水俣病、富山のイタイイタイ病、四日市ぜんそくの4大公害事件や光化学スモッグなどが起こり、世界に類を見ない「公害王国」といわれた。

 被害の規模だけでなく、行政の弱腰、マスコミ・一般の無理解、裁判の長期化と原告患者の分断などの問題が露出した水俣病は「公害の原点」だった。そこには私たちがどうすべきかを考える多くの教訓がある。

 最高裁の判決は、発見から4年近くたった時点で排水規制を怠った行政責任を認めたが、もっと早期に可能であった漁獲規制を怠った責任は問わなかった。さらに、早く現地を離れたという理由で、高裁が認めた患者に対してまで行政責任を取り消した。また、これに先立って最高裁は、地裁が認めた賠償金をゼロにしたり減額したりした高裁判決を追認した。

 問題は認定基準が司法と国・県でくい違うだけではない。水俣病の「発見」直後になぜ有効な拡大防止策がとれなかったのか、有機水銀説が出てから公害認定までなぜ9年もかかったのか、今も救済されていない潜在患者はいったいどれだけいるのか。水俣病はまだ終わっていないのである。
朝日新聞「私の視点」2004.12.28(火)全国版に掲載




 
 新・水俣まんだら を読んで     吉井正澄

 水俣病事件は、その悲劇の深刻さは、広がり、深さ、時間的長さなど、計り知れなく巨大であり、その立場によって見解や議論は多種多様である。それらを余す所なく歴史に残すのは、極めて厳しいと考えられる。
 幸い、資料の一元化など、その努力が始まりつつあることは喜ばしい。また、水俣病問題に関わった医学、社会学、法律学などの専門家、ジャーナリスト、患者支援者などによる多くの報告や著書が見られるようになってきた。だが、残念なことに水俣病事件の主体である被害者による実態の報告、証言は皆無に等しい。それは、被害者の多くは文筆に不慣れであること、身体の状況が悪いこと、それにプライバシーを公にしたがらないことにある。水俣病資料館で、聞き取りで文書化に努力しているが、思うような成果をあげるにいたっていないようである。
 「新・水俣まんだら」は、私どもの、その願いに応える極めて有意義な著書であり、感謝しながら読ませていただいた。患者さんの方言による生々しいお話にだけに止まらず、その背景や時代の推移など詳細に解説されており、その理解を助けていただいた。水俣病の歴史の貴重な資料である。
 関西訴訟は、水俣に住む者にとって、決して身近なものとは言い難い。最後に残された訴訟の判決には関心を抱きつつも、原告の皆さんのおかれている状況や苦しみについては、ほとんど知らないのが実情である。私も、岩本さん、川上さんたちの生涯を、この本を通して知ることになった。小さい無力の生命が、巨大な経済社会の流れの中で翻弄されながら、懸命に竿ささなければならないのは悲惨というほかはない。人間の尊厳とは、改めて問いかけてくる内容である。多くの市民に一読を勧めたい。
 偏見差別の渦巻く中で、恵さんと結婚し義父の意志を継いで患者さんを支えて行く決意をされている恵三さんに本当の人間性が見出され、心を和ませてくれた。
 裁判は上告され、原告のお気持ちを思うとやり切れないものがあるが、一方、数多くの水俣病裁判の中で、最後に残された裁判である。国の責任などについて司法の最終判断を求め決着を図ることは、すっきりした水俣病事件の歴史を残す上から大事なことであろうという思いもある。それも関西訴訟の大きな責務ではなかろうか。
 今しばらく耐え忍んでいただき、皆さんの努力が報われることをひたすらお祈りするものである。
    『ごんずい』72号(水俣病センター相思社 2002年9月25日発行)に掲載


大阪市立大学全学共通科目「公害と科学」(2002年度前期)受講生の読書ノートより  

 本書は、水俣病のため、故郷を離れ、大阪に出てきた患者たちの聞き書きをまとめたものである。チッソ水俣病関西訴訟・前原告団長の岩本夏義さんと、彼の亡き後、後を継いだ川上敏行さんの一生を中心に綴られている。私としては、この本を、関西に住む水俣病患者たちの闘いの記録であると同時に、自らの病気をしっかりと受け止め生き抜いた人々の尊い人生と、彼らの友情の物語として受け止めている。

 水俣病問題に暗い影を落とす部分もここには多く書かれている。最後の水俣病裁判となった、チッソ水俣病関西訴訟の判決は、行政責任を認めた裁判として画期的であったといえる。しかし、原告患者たちにとっては、決して満足できる判決ではなかったという。また、日々の暮しの中で、常に水俣病と向き合って生きていきていかねばならない苦しみや、チッソや国に対する怒りとやりきれなさは、痛いほどこちらに伝わってきた。しかし、私がこの本を読み進めていくうちに、読み終わるのが惜しいと感じる小説を読んでいるような気分になったのも確かである。

 例えば、夏義さんが妻・愛子さんと出会って間もない頃のエピソード。思わず笑みがこぼれた。二人力を合せて、不知火海へ漁に出ていた頃のことを想像すると、とても幸せな日々だったことが思い起こされる。獅子島から水俣へ、水俣から大阪へ出て来たとき、いつも家族を第一に思い、自分の健康を省みずに懸命に働く夏義さんには胸を打たれた。愛子さんが亡くなった時かいま見た夏義さんの変わらぬ愛には、涙が出た。このようなドラマチックな話がたくさん出てくるのである。

 思えば、この本には愛情と友情、他者への思いやりが溢れていた。そして登場する人たちそれぞれが、しっかりとした“絆”で結ばれている。夏義さんと愛子さん。恵さんと恵三さん。夏義さんと川上さん。他にもここには書けないくらいたくさんの“絆”が人々の間をつないでいる。人はみな様々な側面を持っているものだ。水俣病と闘い、裁判を続けてきた患者であっても、決して彼らが人より強靭な精神の持ち主というわけではない。必ず弱く脆い部分を持っている。しかし、その弱さは、皆で支え合い、共有し合うことによって補うことができる。一人の人が、他の人々を思いやることの大切さを言葉ではなく、行動で示してもらえたという感じである。

 水俣病を考えるとき、忘れてはならないのは、病気の苦しみや周囲からの差別に耐えて生き抜いた多くの尊い人々がいることだ。そして彼らを支える人が必ずいるということも。私は本書を読み終えた後、不思議にも、とても穏やかで、すがすがしい気持ちだった。最終章の恵さんと恵三さんの思いを通して、人間が持つ“あたたかさ”というものを改めて確認できたような気がするからである。文学部2回生 川崎那恵。かわさきともえさん)


「水俣病は終わっていない。」  沖縄大学教授  宇井 純

 長い水俣病の歴史のうちで、何回かこれで水俣病は終わった、として幕引きの努力がされた。1959年末に見舞金補償、70年の補償処理そして96年の政治的和解がそれであった。そしてその度にそれまで無視されていた部分、あるいは主流ではな いと見逃されていた部分から新しい問題提起が始まり、終わったはずの水俣病問題を最初から調べ直す必要が生じたのであった。水俣病に関しては、十数件の裁判が進行したが、政治的和解を拒否した関西訴訟において、それまで定説とされていた末梢神経の障害がどうやら間違っていて、中枢に当る大脳皮質の障害が主であると考える方が、症状の変化などを考える時に合理的であるらしいこともわかって来た。水俣病が 発見されて40数年、その最初の頃にいわば緊急避難の一種として症状の記録、その相互の関わり方から判断される障害の原因というような一番基礎のところが十分突き止められずに来てしまったところに、水俣病の研究がいかにその時その時の政治に引き回されて来てしまったが象徴される。

 認定患者の補償金額が争点となった一次訴訟、認定制度から棄却された患者の認定を要求した第二次訴訟に続いて、国と県の行政責任を問うた第三次訴訟が、80年代に入って熊本、関西、東京、京都と提訴される。これは70年代末から始まった一連の裁判において、環境庁の認定基準が不当であり、決定をやり直すいわば司法決定に相当する結果が次々に出てきたこともあった。しかし国や県に不利な判決が出ても次々と上告して引き延ばす作戦をとり、原告の高齢化もあって和解を求める方向に動いて行った。関西訴訟でも裁判所から和解の勧告があったが、国、県の責任には触れないものだったのでこれを拒否した。94年7月に出た判決は、国や県には水俣病を起こした責任はなく、原告が水俣病であるか否かを確率的因果関係で判断するという奇妙な論法と、20年以上前に不知火海を離れた患者には時効によって請求権がないなど、この時期の判決としては最悪のものであり、和解の誘いに乗らないためのみせしめ的な判決ではないかと評されたものである。

 この一審から再出発して、高裁判決で国と県の責任が認められたこと、疫学的な判断と中枢障害が認められたことなど、大逆転というべきであって、この裁判を背後で支えた弁護団や支援の人々の努力には頭が下がる思いがするが、その一端をうかがわせる本がここにまとめられた。この本は、原告団長だった岩本夏義さん、その後を引き継いだ川上敏行さんを初めとする、50年代、60年代の高度成長期にいろいろな事情で水俣を離れ、関西地方で働いていた人々の生活の聞き書きを中心にまとめられた。よく公害患者にも生活があるといわれる。生活の中心であった漁業が、汚染や濫獲によって先細りになり、陸へ上がっても適当な仕事が無くて、大阪周辺に出てきた人々は、この時期ずいぶん沢山あった。水俣という出身地を口にして不利な扱いを受けることもあり、身体の異変に気づいても認定申請を先延ばしにしていたことが、症状を悪化させる一因にもなった。統計で表される無機的な数字一つ一つに、一口で表現できない事情があることを、大阪地裁の一審は目もくれずに切り捨てたのであった。 これに対して、一審の立証計画でも国と県の行政責任について努力を集中したが、その成果はむしろ二審の判決に反映されたと言えるであろう。弁護団と支援の人々の地味な努力は、二審になってようやく正当に評価されたといえる。少人数ながら熱心な、そして決して表に出ようとしない支援グループの存在は、本書でも背景に退いているが、その努力がなかったら二審の判決もなかったであろう。たしかに水俣病患者は一矢を報いたといえよう。これに対し国の政治屋と官僚たちが、政府はその時に出来る限りの努力をしてきたという言い分がいかに空々しいものであるか、役人が作文したその言葉を上告の根拠に使った白々しさに、暗然とした感じを持つ。そういう相手である日本の官僚に、たとえ強いられた戦いであろうとも上告を受けて立つ原告の人々の存在に人間の尊厳を見る思いがする。

 水俣病関西訴訟についてはあまり広く知られていないが、この本はその争点もよく整理してまとめられていて、長期にわたる裁判の進行を理解するにもわかりやすい本となっている。国と県の行政責任を問う水俣第三次訴訟がすべて和解してしまった現在、法廷で明らかにされた行政責任を調べる点でも貴重な資料になる。水俣病において、日本国がいかにその時々において責任逃れの努力をしてきて、その結果として被害者を苦しめて来たかを一冊において見る上で、わかりやすい本になっている。ここまでこの問題を整理してくれた木野、山中両氏の努力と、支える会の人々に感謝するものである。   (『月刊むすぶ』2002年7月号掲載)




水俣病の被害の拡大を防ぐために、国と熊本県は何をしたのかな? 

チッソ水俣工場の工場廃水に対して、何もしなかった国と熊本県の判断を、貴方は支持できますか
水俣湾産の魚や貝の漁獲と販売を禁止しなかった国と熊本県の判断を、貴方は支持できますか


 水俣病患者の救済漏れがないように、国と熊本県は手を尽くしたのかな?

不知火海沿岸で、水俣病と認定され、一応の救済を受けたのは2千数百人。同じ地域に「水俣病ではないが手足の先に原因不明の感覚障害を有する」と公認された人が1万人余。
この1万人余が水俣病でないのなら、感覚障害の原因は何なのか。
当時の漁村は、魚と貝が主食で、冷蔵庫のない時代。その日に獲れた魚と貝を村全員で分け合って食べていたのだから、食事のメニューはどの家も同じ。誰が水俣病になっても不思議はない状況であったと言えましょう。


2001年4月28日に出された大阪高等裁判所の判決では、国と熊本県が逆転敗訴。原告の勝訴となりましたが、国と熊本県は判決を不服として、最高裁判所に上告しました。死人がバタバタと出たあの水俣病で国や県に責任がないのなら、どんな公害・環境問題が起きても国と県は無罪になるでしょう。そんなもん、冗談じゃないと思われる方、おられませんか?

現在、原告勝訴の高裁判決を確定させるため、国と熊本県に上告の取り下げを求める「101万人署名運動」が展開されています。賛同いただける方は、下記HPをご参照くださいませ。メールで署名できます。HPから署名用紙を印刷することも可能です。年齢・国籍を問いません。

水俣病上告取下げ全国ネットワーク   水俣病関西訴訟の控訴審判決に思う(by 木野 茂)


【本書の目次】
まえがき
聞書 水俣病関西訴訟の患者たち
 序 章 最後の水俣病裁判
 第1章 獅子島の稚児
 第2章 梅戸の漁師
 第3章 水俣から大阪へ
 第4章 なにわの水俣病患者たち
 第5章 せめて一矢を…
 第6章 秋風とともに去りぬ
 第7章 肩の荷が半分下りたけど…
 水俣病事件略史と聞き書き年表
解説「水俣病関西訴訟と高裁判決」:チッソ水俣病関西訴訟弁護団(田中泰雄 小野田学 大野康平 西口徹 永嶋里枝 金子利夫)
資料「水俣病関西訴訟・大阪高裁判決文の抜粋」
資料「水俣病関西訴訟の経過」:チッソ水俣病関西訴訟を支える会監修
あとがき

【紹介記事一覧本書がどのように紹介されたかを研究する目的で下記に引用しています。 掲載写真

南日本新聞(2002年3月24日)
日本消費経済新聞(2002年3月4日)
読売新聞(2002年2月11日)
熊本日日新聞(2002年2月10日)
毎日新聞(2002年2月5日)
朝日新聞(2002年1月13日)
朝日新聞(2002年1月7日)
熊本日日新聞(2001年12月30日)
新潟日報(2001年12月25日)

【筆者による本の紹介】
週刊金曜日(2002年2月22日 №400)の「きんようぶんか 自薦」のコーナーに山中が書いた原稿
消費者法ニュース(2002年1月31日 第50号)の「役に立つ文献紹介」のコーナーに木野が書いた原稿


2002年1月31日(木)に行われた「出版記念の集い新年隠し芸大会)」の報告  記念アルバム

 故郷から関西へ移住後に水俣病を発症、手足のしびれと闘いながら地元以外で
初めて国や熊本県の責任を追及する裁判を起こした故岩本夏義さんらの軌跡を描
いた「新・水俣まんだら」(緑風出版)出版記念パーティーが1月31日、大阪市大
で開かれた。同書は聞き書き主体の旧版に、昨年4月27日の大阪高裁の逆転勝訴
判決までの関係資料を追加したもの。この夜は、原告や支援者をはじめ約60人が
集まって著者の木野茂さんと山中由紀さんを囲み、裁判支援や執筆への労をねぎら
った。

 木野さんには、同書について「恐れていた質問」があった。
 その問いが、大分県中津市在住の作家、松下竜一さんから寄せられた。「なぜ関西
訴訟だけが続いたのか。327頁の説明だけでは納得がいかないのです。同じような
思いを持ちながら、涙をのんで『政治決着』に服した他の原告団もあったと思うので
す……」
 松下さんは、著書「砦に拠る」で下筌ダム建設に最後まで抵抗した室原知幸を主人
公とし、「久さん伝」では、虐殺された大杉栄の仇を単身討とうとした和田久太郎の
生涯を追った。強大な権力に単身で挑んだ人々の生き様が、これまでの一貫したテーマ
だった。96年の「政治決着」に唯一従わず裁判を続けた理由を、同頁は、①国と県
の法的責任を不問に付したままでは、幕引きできない。②政治決着は原告を水俣病と認
めない屈辱的なもので、受け入れようもなかった、と説明している。しかし、これは
「なぜ関西だけが」という疑問を解消するものではなかった。松下さんは熊本日日新聞に
書評を書くにあたり、「命あるまでにせめて一矢を」と徹底抗戦を選んだ人たちの真情を、
手紙で問い合わせてきたのだった。

 木野さんは「私もこの項を執筆した弁護団には、同じことを言いましたが……」と
前置きしたうえで分析した。大きな団体ほど、患者の思いを通すことは難しい。少しでも
有利な解決を願い、大所高所から政治的判断をするリーダーがいるからだ。関西は小さな
団体なので、そんな政治力は毛頭ない。だからこそ、かえって患者の思いを貫けたの
ではないか。さらに、「なんでこれが水俣病ではないのか」と、医療面から患者を全
面的に支え続けた阪南中央病院の存在が、病像論をめぐって裁判闘争を続ける上では
大きかったのではないか……。山中さんは「関西の患者たちは、小学校を回って水俣病
の話をしてました。なぜ自分が水俣病になったのか20年間も子供たちに話しておいて、
後になって『苦渋の判断』で訴訟を降りた、『健康不安者』で我慢した、なんて言っても、分
かってもらえないでしょうから」と、付け加えた。

 弁護団の永嶋里枝弁護士は「松下さんの問いに、頭をパーンとたたかれた気がした」と
話す。原告計59人のうち、控訴審に加わらなかった女性が1人だけいた。永嶋さんが
担当だった。提訴が遅すぎて責任を問う資格がないとする「除斥期間」にかかって認定が
得られず、国や県の行政責任を認めなかった大阪地裁判決を、その女性だけが受け入れた。
遺族から電話がかかってきたが、「絶対ひっくり返すから、やろうよ」とは、言えなかった。負けた
場合を考えると、どうしてもためらわれた。それが今でも心の傷になっている。「勝ち負けが
分からないというのは、それほど原告団にとって重いことなのです」と、18年間の弁護士活動と
共に歩んできた大型裁判を振り返った。

 阪南中央病院で原告団の診療を担当した村田三郎医師は「高裁判決は、水俣病の
医学を大幅に変えた。この判決を定着させる役割を、この本が担ってくれるのだと思
う」と話した。認定業務という「政治」に絡め取られた結果、国内の神経内科医学はメチ
ル水銀中毒についての基礎的な知見を充実させることはできず、国際レベルから大きく
遅れてしまっている現実がある。そんななか、同病院は神経内科についても独自に実
力を蓄えた。村田医師は「ある意味、神経内科の医師よりも水俣病についてよく知って
いるようになった。感謝しています」と締めくくった。

 弁護団にとってすら、裁判所の壁は厚く感じられた。それを突き破って勝訴を引き出し
たのは、最後まで国や県の責任を問い続けるという原告団の覚悟だった。それを支え
た医師たちによって、臨床や研究面でメチル水銀中毒に対する新しい知見が引き出され
た。その経過を同書は記録し、語り継ぐ役割を受け持った。「チッソ水俣病関西訴訟を支え
る会」の古閑さんは「水俣病事件は、一貫して加害者の側が真実にフタしようとしてきた。
それが許せなかった。最高裁の判断が残されているが、高裁判決にこのようなものが
あったということを、この本を通じて広めたい」とあいさつした。

 原告団の湯元姉弟がそれぞれ歌を披露した。木野さんと山中さんが担当する市大の
講座「公害と科学」の受講生らが、マンドリン演奏や合気道による「護身術」等で場を盛り
上げた。緑風出版の高須次郎社長は「自分自身、村山内閣の政治決着で終わった問題
だと思っていた。一度世に出た本を別の出版社から出すことは異例だが、水俣病問題
が『まだあるんだ』ということを訴えることに意義があると思った」と、同書が出るまでの
経緯を話した。

 高裁判決は賠償金を減額された事例が多く、原告にとっては決して「勝訴」とは言えない
ことを山中さんは痛感している。今春大学を去る山中さんにとって、この本が大学生活の
総まとめとなったが、春以降もいろんな形で原告団を支援していきたいと思っている。
(大阪市大総合教育科目「公害と科学」モグリ受講生・永井靖二)

追記:わたくし山中由紀は、この4月よりメールマガジンの購読料で生計を立てていきます。
 生命・環境系のドキュメンタリー番組の放映予定のお知らせサービスをどうぞ宜しく。

☆国の上告取り下げを求める署名は2002年3月22日にその第二次分240,110筆が提出されました。
上告取下げを求める全国ネットワークは、これに合わせて環境大臣への要請を呼びかけました。
以下は私たちが送った要請メールです。


環境大臣 大木 浩 様

前略
 私たちは関西におられる水俣病患者のことを昨年末に『水俣まんだら―チッソ水俣病関西訴訟の患者たち』(緑風出版)という本にまとめました。大臣をはじめ、環境省の方々にはぜひご一読をお願いしたいと思います。その本にありますように、関西訴訟の患者たちが国と熊本県を訴えたのは自分たちの問題というよりも同じ過ちを二度とくり返して欲しくないとの願いからです。

 大阪高裁判決は排水規制の不作為を認めましたが、本当は当時の熊本県が検討していたように食品衛生法を活用してもっと早く被害の拡大を防ぐべきでした。患者たちにとっては決して満足の行く判決ではありませんでしたが、それでも国や熊本県が今後襟を正すことを願って、国は早く高裁判決を確定してほしいと言われています。

 水俣病の歴史をひも解けば国・熊本県の不作為は明らかですが、当時の行政内部資料が明らかにされていないため、裁判での立証には長期間を要し、実に関西訴訟は提訴以来20年目を迎えています。その間、提訴時の患者59人中22人はすでに他界されておられます。現在の患者さんたちも病苦の上に高齢な方がほとんどであることを考えただけでも、道義的にこれ以上争いを続けることは許されません。
 ところで、これまで国は当時の行政内部資料の提出要請に対し、そういう資料は現存しないと言い続けてきましたが、去る3月5日の内閣府情報公開審議会の答申によれば、不存在とされた資料の一部が見つかっただけでなく、メモ類のファイル2冊が情報公開法の施行直前に廃棄された事実が指摘されています。これこそ、情報隠し、証拠隠滅と言うほかありません。同様のことが薬害エイズ事件でもあったことも記憶に新しいはずです。もし、これらの資料が提出されていれば、行政の不作為に関する裁判所の判断はもっと早く出されていたはずです。この責任を考えただけでも、これ以上、国の不作為について争うことは許されません。

 さらに、薬害エイズ訴訟や、つい最近のヤコブ病訴訟でも、国は患者に謝罪し、再発防止を誓いました。それに対し、公害の原点と言われる水俣病事件で
は、国はいまだに謝罪すらしていません。先日(3月23日)は、坂口厚生労働大臣が谷たか子さんの墓参りをされました。大木大臣も、せめて関西訴訟の一審原告団長であった岩本夏義さんのお墓に線香の一本でもあげてほしいと思います。

 以上のことから、水俣病関西訴訟の上告をすみやかに取り下げるよう要請いたします。
                              早々

            2002年3月27日

     大阪市立大学大学院理学研究科・理学部 教員 木野 茂
     大阪市立大学大学院経済学研究科後期博士課程 山中由紀

 





南日本新聞 2002年3月24日書評面

新・水俣まんだら チッソ水俣病関西訴訟の患者たち  この国の変わらぬ本質

 二〇〇一年四月二十七日は忘れられない一日だ。最後の水俣病裁判となった
関西訴訟の控訴審判決。政府解決策を拒否し、原告がこだわった行政責任を認め
た。提訴から十九年だった。「真実」とは何か―。原告や弁護団、支援者らの固
い意志と粘り強い取り組みに、多くを学ばせてもらった。
 「私が学んだことは(中略)正義の実現には数年ではなく数十年、もしかしたら
数百年単位の年月がかかるのだから、焦らず、諦めず、出来るだけのことを、後
世に恥じることがないように、とにかく静かに続けていくことの大切さ、仲間の
大切さである」。著者があとがきに記した言葉には、まさしく同感だ。
 著書は、前原告団長の故岩本夏義さん(東町獅子島出身)ら原告の聞き書きから
成る。「昼間も雨戸を閉め切ったまま、電気さえもお金がないからつけられな
い。雨戸一枚開けたら、そこから石が飛んできます」「どこの出身かを聞かれた
ときに、水俣です言うたら、もう明日まで待ってください言われて、それっきり
や」…。故郷を逃げるようにして離れ、第二の人生を目指した関西で病気だけで
なく、就職や子供の結婚、診察拒否などで差別に苦しんだ原告の証言は胸にズシ
リ響く。
 聞き書きに加え、資料として関西訴訟の高裁判決文と解説、水俣病事件史の年
表も収録。一九五六年の公式確認から長い年月がたつにもかかわらず、いまだに
決着しない病像など、公害の原点といわれる水俣病がなぜ終わりを見ないかが読
みとれる。
 折しも雪印乳業食中毒事件をはじめ、BSE(牛海綿状脳症、狂牛病)や偽装表
示など食をめぐる問題が相次ぐ。権力のない消費者や農家を軽視し、利潤追求に
走る企業や危機意識に乏しい行政…。「ゼニカネの問題やない。私らを長い間
放ったらかしにした国、県、チッソの責任を問うてるんや」。こう言い続けて亡
くなった岩本さんを思うと、この国が半世紀前から本質の部分で何ら変わってい
ないようで、むなしさを覚える。
 関西訴訟は国と熊本県が上告、裁判はまだ続いている。 (社会部・神野卓也)






日本消費経済新聞 2002年3月4日(月)図書紹介

チッソ水俣病関西訴訟の患者たち 新刊「新・水俣まんだら」 木野茂、山中由紀共著

 公害の原点と言われる水俣病の公式確認は1956年5月1日とされている。水俣病
の発生はもちろんそれ以前からあるが、公式確認から数えてもすでに45年を超え
ている。本来なら、原因究明も被害者の救済も終わり、2度と同じような公害を
出さない対策が取られていなければならない。
 しかし、水俣病はいまだに終わっていない。その最たるものは、何をもって水
俣病とするのかがいまだに決着を見ず、それゆえに1万人にも及ぶ人たちがつい
最近まで未認定のまま放置されてきたことである。さらに大きな問題は、水俣病
の発生と被害の拡大を防止すべき立揚にあった国・熊本県が不作為の責任を一切
認めず、長期にわたって裁判で争い続けてきたことである。
 そこで木野茂、山中由紀共著による「新・水俣病まんだら~チッソ水俣病関西
訴訟の患者たち」が緑風出版から出版された。
 本書では、水俣・不知火海沿岸から関西に移住してきた人たちが水俣病を発病
し、自分たちが水俣病であることと国・県の責任を求めて裁判を続けることに
なった経過を、第一審原告団長を務めた故岩本夏義さんと現団長の川上敏行さん
を主人公に聞き書きで綴っている。
 水俣病のために貧しくとも豊かな故郷を離れざるを得なかった人たちが、第二
の人生を目指した途端に自らも水俣病を発病し、見知らぬ地で病気と差別に耐え
た末に、せめて一矢をと裁判に立ち上がったのが初の県外訴訟となったチッソ水
俣病関西訴訟(1982年捷訴)である。岩本夏義さんはこの裁判を「ゼニカネの問題
やない。私らを長い間放ったらかしにした国・県・チッソの責任を問うてるん
や」と言い続けて亡くなった。
 後を受けた川上敏行さんらは、1万人余の患者たちがせめて命あるうちにと政
府解決案による和解(1996年)に応じる中、わずか58人(うち21人はすでに死亡)で
裁判を続ける道を選んだ。昨春の大阪高裁判決はやっと国・県の責任の一部を認
め、ようやくこの患者たちの願いが届いたかのように思われたが、国・県の上告
により、判決はいまだに確定を見ていない。、
 さらに本書では、国・県の上告がいかに理不尽かを示すため、「弁護団」に水
俣病関西訴訟と高裁判決の解説を手がけ、資料として大阪高裁判決を収録すると
ともに、「支える会」が訴訟の経過をまとめている。 2800円税別、374頁。
(写真)「新・水俣まんだら」の表紙
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「読売新聞」大阪本社版2002年2月11日(月)地域社会面

「ゼニ、カネやない 長い間放置した責任問うんや」関西水俣病訴訟 原告らの軌跡 「新・水俣まんだら」出版
大阪市立大 講師と院生 病に耐え、闘う姿つづる


 昨年四月、大阪高裁・控訴審で、国と熊本県に行政責任を認めさせた「関西水俣病訴訟」
(最高裁で審理中)。古里を離れて移り住んだ関西で水俣病を発症、病と差別に耐えながら、
裁判を闘い続けてきた原告患者たちの軌跡を、大阪市立大学講師の木野茂さん(60)と同大
院生の山中由紀さん(32)が、単行本「新・水俣まんだら」(緑風出版)にまとめた。一審判決ま
でを取り上げた前作に加筆した。

 ”主人公”は一九九四年に七十一歳で亡くなった前原告団長の岩本夏義さんと、現団長の
川上敏行さん(77)。ともに不知火海の漁師だった二人が、職を求めてやってきた関西で、同じ境遇
の仲間たちとともに裁判に踏み切った経緯を、聞き書きでつづった。
 最終章「肩の荷が半分下りたけど・・」では、岩本さんの没後、昨年四月の控訴審判決とそれに続く
国側の上告までを、川上さんや、岩本さんの遺志を継いだ長女恵さん(48)らの言葉を織り込みながら
記録。巻末に、弁護団による訴訟の解説と水俣病の事件年表、大阪高裁の判決文などを付けた。

 「水俣病は、いまだ現在進行形。<ゼニ、カネの問題やない。長い間放置した国や県の責任を問うんや>
という原告の思いを伝えたかった」と木野さん。
 関西水俣病訴訟弁護団の永嶋里枝弁護士は「患者さんたちの生の声から、水俣病のもつさまざまな問題
が浮かび上がってくる。水俣病のことをよく知らない人にこそ、読んで考えてもらいたい一冊です」と話している。
 三百七十五㌻、二千八百円。
写真:原告たちとともに本の出版を喜ぶ木野さん(左から4人目)と山中さん(左隣)=大阪市立大学で



熊本日日新聞(2002年2月10日・日曜日)掲載の書評

松下竜一が読む  和解せず裁判続けた意思の背景

 本書によって知りたいことが一つあった。1996年5月、村山内閣による水俣病
未認定患者救済策を受け入れて、全国の未認定患者団体が国・熊本県と和解し
訴訟を取り下げた中で、なぜ関西の患者だけが和解を蹴(け)って訴訟を続けた
のかという疑問である。
 <1万人余の患者たちがせめて命あるうちにと政府解決案による和解に応じる
中、わずか58人(うち21人はすでに死亡)で裁判を続ける道を選んだ>(本書)
のは、なぜなのかを知りたかったのだ。1万人に同調せずにあえて苦難の道を選
んだ少数者の決意は、どこに発しているのか。

 本書にはその点の説明は1ヵ所しかない。巻末に添えられた「解説」の中で2つ
の理由があげられている。第一は<これ程に明確であると思われる国と熊本県の
法的責任を不問に付したままで幕引きをする>のでは、これまでの訴訟の目的が
達成されないと考えたこと。第2は<この……政治決着は、原告らにすれば「あな
たは水俣病に罹患してはいないが水俣病ではないかと心配していることは解るの
で260万円をさしあげましょう」という申し出を受け入れるに等しいものであった。
……原告らは、このような屈辱的申し出を受け入れようもなかったのである>

 その通りだろうとは思うが、これだけではなぜ関西だけがという説明にはなってい
ないのではないか。おそらく全国1万余の未認定患者の全員が右の二つの思いは
抱いたはずで、それでも涙を呑(の)んで和解を受け入れたのであり、そうしなかっ
た関西訴訟にはそれ以上の理由が複合していたと察するしかないからである。
 本書は初代原告団長をつとめた岩本夏義さんと、それを引き継いだ川上敏行さん
の聞き書きを中心にまとめられているが、異郷の都会にあって水俣病(病そのもの
と差別と)に苦しむ同郷者たちの結束の固さが、関西原告団には際立っていたよう
に見える。

 たとえば、亡くなる直前に岩本さんが川上さんに託したという紙切れに記された言葉
が紹介されている。
 秋風と ともに去りぬ。
 川上 すまん。
 川上 たのむ たのむ。
 私が知りたいと思った冒頭の疑問に、この簡潔にして万斛(ばんこく)の思いをこめ
た「遺書」が答えてくれているような気がする。
 関西訴訟を除く全国の未認定患者が訴訟を取り下げて和解に応じたのは、岩本さん
が右の遺書を託して逝った1年半後のことであり、あとを引き継いだ川上さんはその
遺言を裏切れるものではなかったろう。

 <ことばとしてはわずかでしたけども、あぁ、岩本はこの裁判に命をかけとったんだな
というのをまざまざと思い浮かべるような遺言でしたもんで、私もそれを引き継いでおる
わけです>という川上さんの言葉が、私の疑問へのストレートな答えとして聞こえる。
 「川上 すまん」の言葉は、重く苦しい任務を残して逝くことを詫(わ)びているのだろう
し、一審判決で敗けたことをも詫びているのだろう。さらにその背景には、全国で初めて
熊本県外での訴訟に踏み切ったという責任感もわだかまっているようである。そういう
強い意志(遺志)が関西訴訟を引っ張ったのであり、少数の原告団だけに全員がまとまり
やすかったことも独自な道を選ばせる一因となったのだろう。

 2001年4月27日、大阪高裁は国・熊本県の責任を初めて認める判決を出したが、
非情にも両者は上告をした。
 聞き書きは哀切な望郷の言葉で終わっている。<わたしら、もう水俣市に生まれてきた
のが一生の不覚やとしか思えんわ。……そら、すごい懐かしいという気持ちもあるけど、
湯の口にしろ、水俣にしろ、わたしらにとっては、もうすごくきれいで、天国に一番近い
ようなイメージがあるんです。あの島へ渡ってるとこ、夢に見ますもん。それも、疲れたら
必ず見るんです。丸島からまっすぐ出て、御所浦島との間を通って、小学校のある獅子島
の御所浦までグルッと回るんですけど……>


まつした・りゅういち(作家)
1937年、大分県中津市生まれ。82年、「ルイズ―父に貰いし名は」で第4回
講談社ノンフィクション賞受賞。全集「松下竜一 その仕事」(全30巻)が刊行中。

→ この書評は松下さん主宰の「草の根通信」にも掲載されました。ありがとうございました。



毎日新聞(大阪本社版)2002年2月5日(火)「論」に掲載

「論」 水俣病患者の思い 国は上告を取り下げよ――公害の原点 教訓生かせ――

 水俣病関西訴訟の控訴審・大阪高裁は昨年4月、高裁レベルで初めて国などの
行政責任を認めた画期的な判決を下した。しかし、国はハンセン病国賠訴訟では
敗訴を確定させたのに、上告を取り下げようとしない。関西の水俣病患者から聞き
取りを続け、裁判の流れと合わせて昨年末に本を著した大阪市立大理学部の木野
茂講師に、患者たちの思いなどを伝えてもらった。【大島秀利】

――82年の提訴以来、たくさんの原告が亡くなったようですね。
 ◆当初の原告59人のうち22人が亡くなりました。92年11月に亡くなった元関西
患者の会会長の下田幸雄さんが「私ら歴史に残るようなことをやってきたつもり
やけど、記録に値しますよね」と死亡直前の枕元で話しました。当時の原告団長
の故岩本夏義さんも同様の気持ちでした。そうした思いを、山中由紀さん(大阪市
立大大学院生)と聞き書きを続け、『新・水俣まんだら』(緑風出版)を出版しました。

――患者はとてもつらかったようですね。
 ◆例えば、岩本夏義さんが出身地の獅子島(鹿児島県東町)を出るころは、「水
俣病の認定申請はするな」がおきてでした。「認定されたら、ろくなことはない」
とほとんどの人が思った。その後、獅子島からも認定患者が出るが、娘さんや息
子さんは結婚差別などを恐れて認定申請を嫌がったそうです。

――なぜ提訴に?
 ◆80年ごろには申請してもほとんど認定されなくなったからです。毎月集まる
患者の会で、岩本さんや下田さんを中心に「せめて一矢を。そのためには裁判し
かない」という気持ちだったのです。

――その後、関西訴訟は一審で敗訴し、岩本原告団長は失意の中で亡くなり、高齢
化の進む全国の原告団がやむなく国と和解。それでも、なぜ関西訴訟だけが和解
に応じなかったのでしょうか。
 ◆関西訴訟は初の県外訴訟で、故郷から都会に出てきての苦しい思いや、チッソ
に対する思いと同じくらい行政の責任を追及する思いが強い。だから、国が水俣
病患者ではなく、゛健康不安者"扱いで和解することに耐えられなかった。「ゼニ
カネの問題やない」(故岩本原告団長)という気持ちだったのです。

――高裁判決の評価は。
 ◆全国的な和解による゛政治決着"後に国の責任を認めたことは患者の訴えが報
われたと言える。漁獲規制まで踏み込まなかった点は残念だが、排水規制の責任
を認めた意義は大きいでしょう。
 また、判決は水俣病の医学的な原因で、現在の世界で主流である大脳皮質の損
傷を原因とする「中枢説」を採用しました。中枢説は患者の症状をよく説明でき
ますし、この高裁の判断は、「感覚障害だけでは水俣病として認定しない」とする
国の77年判断条件の実質的な否定を意味します。

――患者が高裁まで闘ってきた意味は。
 ◆何と言っても、96年の政治的な和解でも「水俣病は終わっていない」ことを
身をもって示したことです。水俣病は公害の原点。その水俣病で国がきちんと責
任を認めることが、水俣病の教訓を生かすための一里塚です。薬害エイズも狂牛
病(BSE、牛海綿状脳症)も、水俣病の責任をあいまいにしてきた必然の結果
です。今後、過ちを繰り返さないためには、まず高裁判決を真剣に受け止め、具体
的には、水俣病の認定方法を改め、汚染や疫学の調査をして潜在患者を救済し、原
因物質であるメチル水銀の長期微量汚染対策を実施する必要があります。

――国の上告をどう受け止めますか。
 ◆ハンセン病国賠訴訟で国が控訴を断念したのに、「なんで水俣病だけがつらい
目をみなければならないのか」「国は私たちが死ぬのを待っているのか」と原告は
言っています。高裁判決でも救済されなかった人や減額された人、さらに逆転
棄却された人もいます。せめて今の患者が生きているうちに国はきちんと責任を
果たすべきです。上告の継続は人道にもとるだけでなく、他の事件に対する国の
対応との整合性もなくなります。患者の声にどう答えるのでしょうか。国は早急に
上告を取り下げるべきです。

木野 茂 大阪市立大学理学部講師
 きの・しげる 60歳。大阪市生まれ。1966年、大阪市立大大学院理学研究科修
士修了。現在、同研究科講師(理学博士)。71年から公害調査と被害者支援に取
り組み、83年から同大学自主講座を主宰、94年から「公害と科学」などの授業を
開講。編著に「新版 環境と人間-公害に学ぶ」(東京教学社)など。

◎視点
 チッソ水俣工場が、環境を犠牲にした日本の高度成長の象徴だとすれば、都会
に仕事を求めて来た地方の人々も高度成長を下支えしてきた。その工場が垂れ流
し、国が放置した有機水銀を摂取して発病し、関西で働き、孤独に差別を恐れ生
き抜いてきたのが関西訴訟の原告患者。
 「改革」を掲げる小泉政権が、そういう功労者の高齢者たちに敬意を表するす
るどころか、いじめ抜くのならば、日本の再生などできるはずがないと思う。
 【大島】





「朝日新聞」大阪本社版2002年1月13日(日)地域社会面

水俣病関西訴訟を解説 大阪市大院生山中さん熊本の研究発表会で

 水俣病被害について、医学や社会科学など総合的な研究の発表会「第7回水俣病
事件研究会」が12日、熊本市大江2丁目の熊本学園大学で、2日間の日程で始まった。
大阪市立大大学院生の山中由紀さん(32)が「図で見る水俣病関西訴訟」と
題して発表した。
 原告の多くが、被害の広まった60年以降に不知火海沿岸を離れたことや、国や熊本県に
勝訴した昨年4月の大阪高裁判決で各原告への賠償額が一審とどのように変わったかを、
図表で解説した。一審で認められた賠償を減らされたり棄却されたりした原告が14人いることや、
利子負担を含んで最高1千万円を返さなくてはいけない人がいることなども説明し、「個別の
原告にとっては大変なことになっている」と述べた。
 大阪市大理学部の木野茂講師(60)と昨年12月、共著「新・水俣まんだら チッソ水俣病
関西訴訟の患者たち」(緑風出版)を出した。研究会は13日、医学部門での発表があり、
松原市の阪南中央病院の三浦洋院長が司会を務める。






「朝日新聞」(大阪本社版)2002年1月7日(月)夕刊社会面 カラー写真入り

「水俣病」終わっていない 「記録に残す価値」―患者らの言葉に動かされ
 大阪市大の木野講師ら 関西訴訟でテープ200本 聞き書きを出版 


 水俣病被害をめぐり、昨年4月の大阪高裁判決が国と熊本県の法的責任を認め
た「水俣病関西訴訟」を語り継ごうと、大阪市立大学講師の木野茂さん(60)ら
が、原告患者の聞き書きを出版した。「新・水俣まんだら チッソ水俣属関西訴
訟の患者たち」(緑風出版)。故郷の不知火海を汚染され、関西に移り住んだ原告
58人。亡くなった原告の言葉に突き動かされた。
 原告団長川上敏行さん(77)と前団長の故・岩本夏義さんを軸に、「物語」は展
開する。木野さんは83年から公害問題の講座を開き、学生と原告が交流する場も
設けてきた。約5年前、院生の山中由紀さん(32)と前作「水俣まんだら」を出
し、一審判決までを取り上げた。
 前年の政治決着は、責任棚上げのまま未認定患者1万人を対象にしたが、同訴
訟だけが受け入れを拒んだ。今回は高裁判決の経緯を加え、まとめ直した。判決
文や弁護団による解説も載せた。
 原告で元チッソ水俣病関西患者の会会長、故・下田幸雄さんの言葉がきっか
け。死の直前の92年11月、病床から言われた。「私たちのしてきたことは、記録
に残す価値のあることですよね」。録音機を手に患者らを回り始め、テーブが
約200本に及んだ。高裁判決後も原告1人が亡くなり、故人は21人になった。
 政治決着で「水俣病は終わった」と見られ、「関西訴訟が残り火のようだった」
と木野さん。裁判の場が最高裁に移ったが「患者さんは国側の責任を認めさ
せ、やむなく裁判を終えた人々のためにも間題が続いていることを訴えた」と評
価している。
(写真)「水侯病関西訴訟」前原告団長の故岩本夏義さんの遺言で譲られた裁判
資料や「新・水俣まんだら」を手にする木野茂さん(左)と、山中由紀さん=大阪市
住吉区杉本3丁目の大阪市立大学で






「熊本日日新聞」2001年12月30日(日)第3面(総合)カラー写真

水俣病関西訴訟 原告19年の闘争記録 「新・水俣まんだら」支援の大学講師ら出版

 水俣病関西訴訟の原告の十九年余に及ぶ裁判闘争記録を、原告の支援活動を続
けている大阪市立大講師の木野茂さん(六〇)と、同大大学院生山中由紀さん(
三二)が「新・水俣まんだら」(緑風出版)=写真=にまとめた。
 同訴訟は、水俣市など不知火海沿岸から関西に移り住んだ未認定患者五十九人
(その後五十八人)が昭和五十七年、国と県、チッソに損害賠償を求め、大阪地
裁に提訴。平成六年の判決は国と県の責任は認めなかったが、今年四月の控訴審
判決で逆転勝訴した。
 その裁判闘争を、一審原告団長だった故岩本夏義さん=鹿児島県獅子島出身=
と、二審原告団長の川上敏行さん=水俣市出身=らの聞き書きでたどっている。
 離郷を余儀なくされた発病と、移住先・大阪での病苦、認定申請棄却・・・。異郷
の地で提訴に踏み切り、平成七年の政府解決策を拒否してまで行政責任を追及す
る原告たち。国・県の上告で、さらに長い裁判を強いられることになったが、「
命あるうちにせめて一矢を」と、裁判にかけた思いを語っている。二八〇〇円(税別)。





「新潟日報」2001年12月25日(火)第9面(文化欄)カラー写真入り

患者の闘いを聞き書きで 「新・水俣まんだら」刊行


 水俣病のために故郷を離れざるを得なかった人たちが第二の人生を目指した途
端、水俣病を発病した。チッソ水俣病関西訴訟。その患者たちが苦しみ闘ってき
た人生の記録、木野茂・山中由紀著「新・水俣まんだら」=写真=が刊行された。
 見知らぬ土地で病気と差別に耐えた末、せめて一矢を-と裁判に立ち上がった
水俣病初の県外訴訟。未認定のまま放置された一万人余の患者たちの中で、和解
にも応ぜずわずか五十八人で裁判を続ける道を選んだ。その経過を第一審原告団
長の故岩本夏義さんと現団長の川上敏行さんを主人公に聞き書きでつづる。
 巻末に資料として、関西訴訟弁護団による同訴訟と大阪高裁判決の解説、同判
決文、訴訟の経過も収録する。
(緑風出版・二八〇〇円)





 

週刊金曜日(2002年2月22日 №400)の「きんようぶんか 自薦」のコーナーに山中が書いた原稿です。
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 いまさら、水俣病の本? どうして? 私、忙しいのよ。親の病院通いの送迎にPTAの役員会。近所にはゴミ焼却炉があって、ダイオキシンが基準を超えてるのだけど、役場は予算がどうのこうのってラチがあかないし、川辺川の漁業権強制収用の反対集会もあるわ。雪印食品の事件で商品についてるラベルも信用できなくなったから、買い物だって不安だわ。この世の中、いったい、どうなっていくのかしら。
 本書は、このような不安を抱えている皆様向けです。私達の政府は公害の原点・水俣病でも責任を認めてないのですから、環境問題程度で責任ある対応をとるハズがないのです。この聞き書きは、現在も最高裁で水俣病裁判を闘っている患者の声です。継続は力なりで、提訴から一九年目の昨年四月、大阪高裁で逆転勝利判決を得ました。
 正義実現への道のりは長~いものであり、悲観して諦めてしまうことこそ次世代に対して無責任なのだと、私はつくづく実感しております。(やまなか ゆき・大阪市立大学大学院生)





消費者法ニュース(2002.1.31第50号)の「役に立つ文献紹介」に木野が書いた原稿です。
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『新・水俣まんだら―チッソ水俣病関西訴訟の患者たち』
木野 茂・山中由紀 共著
発行:緑風出版 定価:2800円+税


 公害の原点と言われる水俣病の公式確認は1956年5月1日とされている。水俣病の発生はもちろんそれ以前からあるが、公式確認から数えてもすでに45年を超えている。本来なら、原因究明も被害者の救済も終わり、二度と同じような公害を出さない対策が取られていなければならない。
 しかし、水俣病はいまだに終わっていない。その最たるものは、何をもって水俣病とするのかがいまだに決着を見ず、それゆえに一万人にも及ぶ人たちがつい最近まで未認定のまま放置されてきたことである。さらに大きな問題は、水俣病の発生と被害の拡大を防止すべき立場にあった国・熊本県が不作為の責任を一切認めず、長期にわたって裁判で争い続けてきたことである。
 本書では、水俣・不知火海沿岸から関西に移住してきた人たちが水俣病を発病し、自分たちが水俣病であることと国・県の責任を求めて裁判を続けることになった経過を、第一審原告団長を務めた故岩本夏義さんと現団長の川上敏行さんを主人公に聞き書きで綴っている。
 水俣病のために貧しくとも豊かな故郷を離れざるを得なかった人たちが、第二の人生を目指した途端に自らも水俣病を発病し、見知らぬ地で病気と差別に耐えた末に、せめて一矢をと裁判に立ち上がったのが初の県外訴訟となったチッソ水俣病関西訴訟(1982年提訴)である。岩本夏義さんはこの裁判を「ゼニカネの問題やない。私らを長い間放ったらかしにした国・県・チッソの責任を問うてるんや」と言い続けて亡くなった。
 後を受けた川上敏行さんらは、一万人余の患者たちがせめて命あるうちにと政府解決案による和解(1996年)に応じる中、わずか58人(うち21人はすでに死亡)で裁判を続ける道を選んだ。昨春の大阪高裁判決はやっと国・県の責任の一部を認め、ようやくこの患者たちの願いが届いたかのように思われたが、国・県の上告により、判決はいまだに確定を見ていない。
 さらに本書では、国・県の上告がいかに理不尽かを示すため、「弁護団」に水俣病関西訴訟と高裁判決の解説を書いていただき、資料として大阪高裁判決を収録するとともに、「支える会」に訴訟の経過をまとめていただいた。





「新・水俣まんだら」あとがき

 ドイツでベルリンの壁がなくなったり、中国で天安門事件が起きたりしたのは一九八九年のことだが、私はその翌年の一九九〇年、晴れて大阪市立大学経済学部に入学した。技術論の中岡哲郎先生のもとで、環境問題や南北問題を経済構造の観点から学ぶつもりだったのだが、教室で見つけた一枚のビラのせいで、随分と予定が変わった。
 一枚のビラをきっかけに出会ったもの。それは、関西にいた水俣病患者たち。水俣病は一九七三年の裁判勝訴で終わったと思っていた私にとって、大きな衝撃だった。国と熊本県とチッソを相手に、大阪で裁判を起こしていると語るお爺さんが、下田幸雄さんだった。同じ「ユキちゃん」ということで、妙に下田さんに気に入られ、意気投合した私が水俣病の事件史に興味を持つのは、当然の成り行きだった。生来の歴史好きも手伝い、私は水俣病にはまった。
 患者、支援者、研究者、医師など、水俣病は生きた化石・歩く標本の宝庫だった。例えて言えば、源義経や弁慶が生きて歩いているようなものである。しかし、そのことに気が付いたのは、下田さんが亡くなる直前の、下田さん自身の言葉によってだった。以来、一〇年が経った。岩本夏義さんと川上敏行さんの二人の患者からの聞き取りを中心とした本書の刊行は、感無量、ひとえに、各方面のご教示、ご支援の賜物である。
 本書は、大阪に出てくる前のこと、出てくる決意をする、自分が水俣病だと自覚する、裁判に踏み切る、地裁判決で行政責任が認められなかった衝撃、岩本夏義さんの逝去、控訴審での逆転勝訴と、結果的に、なかなかスリリングな展開になっている。私が学んだことは、世間の冷たさと温かさ。そして、正義の実現には数年ではなく数十年、もしかしたら数百年単位の年月がかかるのだから、焦らず、諦めず、出来るだけのことを、後世に恥じることがないように、とにかく静かに続けていくことの大切さ、仲間の大切さである。
 現実の過酷さに圧倒され、未来に絶望し、プッツンしそうになっている人達に本書が渡れば、望外の幸せである。(山中由紀)


 私を水俣病に惹きこんだのは井関進君という後輩である。できたばかりの大阪・水俣病を告発する会のメンバーだった彼から誘われ、一九七一年のチッソ株主総会にも出かけたが、まさかこんなに長い付き合いになるとは予想だにしなかった。その彼が教授会の学位拒否に抗議する大学正門前座り込み闘争の末に服毒自殺(七二年一一月九日)するという悲劇が、私の中に水俣病のトラウマを残した。
 それから一〇年の間、私は大分県佐賀関の公害調査や地元で起こった大東マンガン中毒事件などに追われていたが、井関君の没後一〇周忌の催しを準備する中で、とんでもないことを知る羽目となる。その催し(八二年一一月二~二〇日)の直前である一〇月二八日に関西在住患者による水俣病訴訟が起こされると聞き、私は自らの不明を深く恥じ入った。
 私は井関君の取り組んでいた水俣病問題については、彼の死後、七三年三月の判決と七月の補償協定で一応終わったと思っていたのである。一〇周忌の催しの後、私は参加した学生たちに、科学者の責任という井関君の訴えに共感するとともに、いまだに終わっていない水俣病を自分の問題として受け止めようと訴えた。市大自主講座は呼びかけに応じた学生たちと一緒に始めたものであるが、活動の中心は言うまでもなく水俣病関西訴訟の支援であった。
 当初から自主講座の支援のスタンスは、単なる支援にとどまることなく、そこから何かを学び、自分自身の生き方に生かすことであったが、その意味では水俣病事件はまさに汲めども尽きぬ宝の泉であった。しかし、それ以上に大きな発見は、患者さんたちの人生そのものが私たちに未来への希望と勇気を与えてくれる「まんだら」のごとき存在であることだった。
 聞き書きを始めて五年目の途中(九六年一〇月)で、ロシナンテ社の四方哲氏の勧めでその一部を『水俣まんだら』にまとめた。しかし、未認定の水俣病患者をめぐる動きはその後も大きく動き、とくに関西訴訟の高裁判決は大方の予想を越えて、あらためて水俣病問題が終わっていないことを印象付けた。そこで、高裁判決も含めて関西訴訟の全体がわかるように資料も付け、「水俣まんだら」の完成版を出す決心をした。今回も四方氏からの強い勧めが契機で、機会を与えてくれたことに感謝したい。また、本書の出版を快く引き受けていただき、数々の注文にもかかわらず誠実に対応していただいた緑風出版の高須次郎氏には深く感謝する。
 最後に、私を水俣病に導いてくれた井関進君、私たちに聞き書きのきっかけを与えてくれた下田幸雄さん、その聞き書きに積極的に応じてくれた岩本夏義さんをはじめ、先に逝かれた水俣病関係の方々のご冥福を心からお祈りするとともに、謹んで本書を捧げたい。   (木野 茂)





水俣病関西訴訟の控訴審判決に思う   木野 茂
(2001.5.28.ACTに掲載したもの。原題は「国・県は上告を取り下げ、患者の救済に全力をあげよ」)


 去る4月27日、水俣病訴訟としては現在唯一となった水俣病関西訴訟の控訴審判決があった。水俣病の発生と拡大に関する国と熊本県の行政責任を認めた画期的な判決として、マスコミでも大きく報道された。
 その後、原告患者らは国・県に上告をしないよう強く働きかけていたが、国・県は期限ぎりぎりの5月11日に上告に踏み切った。裁判はまだ続くことになった
が、この裁判を見守ってきた一人として、今回の判決をどう受けとめるべきか、小文をしたためる。

水俣病関西訴訟とは

 私が水俣病のことを知ったのは1970年のチッソ株主総会に水俣から患者さんたちが来られたときであったが、より身近になったのは大阪・水俣病を告発する会のメンバーだった後輩の大学院生の影響であった。その彼が教授会から学位論文を拒否されるという事件の後、自らの命を絶つという悲劇があり、それが私の中に水俣病のことを刻みつけた。(
 彼の死後十年目に催した追悼集会の準備中に、奇しくも関西訴訟の提訴を知り、以後、学生たちと一緒に市大自主講座を作って、裁判の傍聴とささやかな支援を続けてきた。
 82年の提訴以来、関西訴訟の目的は、(1)水俣病に対する国・熊本県の行政責任を認めることと、(2)原告を水俣病と認めて損害賠償を行うことの二つである。
 56年の公式確認から12年後の68年にやっと政府公害認定となった水俣病の認定は70年から始まったが、73年に患者とチッソの間で補償協定が交わされたことにより、認定患者はチッソから自動的に補償されることになった。しかし、直後の第一次石油危機を境に患者への追い風は止み、翌74年の第三水俣病シロ判定以後、認定率は急減した。
 関西訴訟の原告たちが認定申請をし出したのはちょうどこの頃からで、次々と棄却や保留になる人が増えていった。77年にはこれまでの認定基準よりさらに厳しい「判断条件」(症候の組み合わせ)が環境庁環境保健部長通知として出され、行政による認定は極めて難しくなっていった。
 こうした中で国・県の行政責任と水俣病の認定を求めた最初の訴訟は80年提訴の熊本第三次訴訟であるが、県外へ移住した人たちからの訴訟としては82年提訴の関西訴訟が最初であった。県外訴訟はこの後、東京、京都、福岡でも起こされた。
 最初の判決は87年に熊本第三次訴訟で出され、国・県の行政責任が認められたが、国・県は直ちに控訴した。その後、県外訴訟の判決も出始めたが、行政責任については判断が分かれた。国はそれを理由に「高裁の判断を待ちたい」として、各地の裁判所の和解勧告をも拒否し続けた。

政治的和解を拒否して控訴審へ

 関西訴訟の地裁判決は94年に出されたが、行政の責任を一切認めない最悪の判決であった。しかし、その頃、関西訴訟を除く主な患者団体は和解への動きを強め、95年末には政府による水俣病最終解決策を受諾し、翌96年には裁判や認定申請等を取り下げ、チッソ・昭和電工と和解した。
 和解による一時金は260万円にすぎなかったが、すでに亡くなった人も多く、長期にわたる闘いに疲れ、高齢化した患者たちにとっては、不満ながらも政治的和解に応じる他はなかったのであろう。
 しかし、県外患者としての辛酸をなめてきた関西訴訟の患者たちにとっては、提訴の目的の一つも達成されないまま和解に応じることは到底できなかった。一審直後に亡くなった原告団長の岩本夏義さんは裁判の間中、行政責任と水俣病の認定は自分達のためだけではないと訴え続けたが、それは原告患者に共通の思いでもあったろう。
 こうして、一万人以上の人が政府解決策に応じるなか、58人の患者たちだけが控訴審を続けることになった。故郷にいるときからの友人である川上敏行さんは、岩本さんからの遺言で「あいつはほんまにこの裁判に命をかけとったんや」と知り、控訴審の原告団長を引き受ける決心をしたという。
 当初、関西に水俣病患者がいることに驚いた私たちは、その後、多くの人に関西訴訟のことを広め、その闘いを地元で支えることに徹してきたが、政治決着後の関西訴訟はいつのまにか全患者の思いを託された最後の水俣病訴訟として注目を浴びるようになっていた。
 しかし、行政責任と水俣病の認定を棚上げにした政治決着からすでに五年という年月を経て、その政治決着の前提を覆すことは正直言って誰しも容易ではないと思っていた。もちろん控訴審では、現在の認定基準が間違っていることを立証するなど、大きな前進があったし、判決に向けては四万人以上の署名が集まるなど、支援の広がりも一審の時の比ではなかったが。

高裁判決と国・県の上告に思う

 4月27日の控訴審判決が国・県の排水規制に関する行政責任を認め、感覚障害を大脳皮質の損傷によるものとして重視したことは、私たちにとってもたしかに予想を超える内容であり、画期的であった。判決にかけつけた水俣病患者連合の佐々木清登さんが「断腸の思いで(政府解決策を)受諾した」自分達にとってもうれしい判決と喜び、上告断念を被告側に要請したことは、この判決の意義を端的に物語っていよう。
 5月8日、訴訟団らは環境省で川口順子環境相に上告断念を訴えたが、「現時点では検討中」「法務省と相談して」と紋切り型の返答に徹し、11日の期限ぎりぎりに上告に踏み切った。発足直後の小泉内閣に期待する向きもなきにしもあらずであったが、官僚の抵抗が強いとはいえ、高齢の患者たちをさらに最高裁まで引きずる愚を犯した政治家達には怒りを通り越して呆れるばかりである。
 なお、報道では判決の画期的な側面ばかりが強調されたが、中味をよくみれば問題点も無視できない。画期的とされる行政責任についても、59年以後の排水規制については認めたが、もっと早い時期に行えた魚介類の捕獲・販売に対する規制については認めなかった。
 さらに問題なのは、原告中七名を水俣病でないと棄却したことであり、さらに13名の一審認容額を減額し、チッソに返還を命じたことである。なかでも二名は一審で認容されているにもかかわらず逆転棄却となった。この二名と減額の大きい原告らはチッソを相手に上告を余儀なくされた。
 そのほかの原告らは、チッソが上告しなかったので、チッソとの間では損害賠償が確定したが、平均六百万円あまり(弁護士費用五〇万円を含む)が一九年間の闘いの結果であるとすれば、とても苦しかった患者の人生への代償などと呼べるものではなかろう。
 せめて、患者たちが命をかけて訴えた行政責任を認め、上告を取り下げ、未だに放置されている患者の実態調査と救済に全力を傾けるのが、公式発見から45年の今まで水俣病を放置してきた国・県の果たすべきことではないだろうか。
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