『続・水俣まんだら』の部屋

(2025年4月18日更新)


『続・水俣まんだら―チッソ水俣病関西訴訟の患者たち』(木野茂・山中由紀共著、緑風出版、2025年1月15日刊)は
最高裁判決後も最後までチッソ・熊本県・国の加害責任と賠償を求め続けた水俣病関西訴訟の患者たちの受難と苦界の記録です。
水俣病のために、貧しくとも豊かだった故郷を離れ、関西に移住してきた患者たちが1982年に提訴したチッソ水俣病関西訴訟では、
1994年の地裁判決では行政責任が認められなかっただけでなく、他団体が政治和解に応じる中、唯一控訴審を続けることになりました。
ここまでをまとめたのが最初の『水俣まんだら』(るな書房、1996年)です。

その控訴審では、2001年に高裁判決としては初めて水俣病の行政認定が認められました。同年に出した『新・水俣まんだら』
(緑風出版、2001年)では、ここまでの患者たちの苦難の記録を聞き書きで綴りました。しかし、実は
この高裁判決の陰で逆転棄却されたり、地裁判決より賠償金を減額され、返還を命じられた原告が多かったことで、
原告患者たちにとっては万歳とはならなかったのです。

2004年の最高裁判決では行政責任が確定したと言われましたが、その陰で行政認定された人は6人に過ぎず、
その人たちに対してもチッソは裁判で終わってるとして補償協定に応じなかったのです。このチッソの横暴と
それを黙認する国・熊本県に対し、一人で立ち向かった患者・坂本美代子さんと付き添った故一審団長の長女・小笹恵さんの
闘いを中心に最後まで綴ったのが『続・水俣まんだら』です。



・目 次


・まえがき


・あとがき



・読者から寄せられた感想


New ☆吉田小恵子さん「プラスチック汚染問題が、水俣病と繋がっていたとは・・・」

New ☆坂口誠也さん「本を読んで、「そうやそうや」と言いたくなった。聞き書きは貴重な記録」

New ☆大川智恵子さん「私たちが組織再編で大変だった頃、関西訴訟でも分裂が起こっていたとは・・・」

向井美香さん「坂本美代子さんを想いながら─続・水俣まんだらを読んで」

M.R.さん「美代子さんや恵さんの受難と闘いは、主人公を変えて、別の場所で今も繰り返されている」

藤田三奈子さん「どんなに振り回されて苦しんだのか、腹の底からズンと感じさせることができる本」

大江宏さん「認定されてもチッソが補償を拒否していることを知っていた熊本県職員が、坂本さんに一言伝えていれば」

黒田光太郎さん「『水俣・京都展』の案内は水俣フォーラムから受け取っていましたが、御著を読んで参加しなかったことを悔やんでいます」

小出裕章さん「『なかったことにはさせたくない』という思いは、今のフクシマ事故被害者の思いに・・・」

斎藤恒さん「水俣病は言うまでもなく食中毒ですよね。新潟では、本書に出ているような患者個人による交渉は考えられぬことでした」

岡本達明さん「無念さ、ことの理不尽さを誰か書いてくれないかと前から思ってました。御本を手にしたとき、よかったと」



・新聞記事


〇朝日新聞(大阪府内版、2025年3月21日)「『勝訴』内幕 原告らの苦難追う~補償協定拒否・行政の『見て見ぬふり』記録」

〇熊本日日新聞(2025年2月23日)「水俣病患者、苦難の闘いつづる 関西訴訟原告の坂本さん没後3年 支援者が『続・水俣まんだら』出版」












・読者から寄せられた感想

吉田小恵子さん(奈良女子大学の学生時代に伊方原発問題に取り組んだ。元中学校教諭)
本日、朝日新聞(2025.4.13阪神版)で「続・水俣まんだら」の記事を読みました。懐かしくお写真も拝見させていただきました。
正直、私も裁判で勝って、良かったと思っていた1人です。読み進むうち、勝訴はむしろ原告の方々を苦しめるものであったこと、水俣は終わってはいないこと、を思い知らされました。
 今、世界はどこへ向かうのか、本当に分からない時代になっています。さまざまな苦悩の歴史が『なかったこと』にならないように、と願わずにはいられません。
 最近、マイクロプラスチック・ナノプラスチック汚染の問題を少しずつ学んでいます。朝日新聞でも時々関連記事を読むようになってきました。その中で、チッソが放出したメチル水銀がプラスチック可塑剤の中間原料であるアセトアルデヒドの製造過程で出来ていたことを知りました。
本当はどこかで聞いていたのかもしれません。温暖化と並ぶ環境汚染と称せられるプラスチック汚染問題が、水俣病と繋がっていた。記事の中で、「水俣フォーラム」代表の実川悠太さんの「かつてはメチル水銀を流す恐ろしさや罪深さは感じても、プラスチック自体に危険性を抱くことは、まったくなかった」という言葉が紹介されていました。
 私にできることは何か分かりませんが、それでも今は学ぶことはできると思っています。取り止めのない文になってしまいましたが、ささやかな感想を述べました。(2025.4.13)

→ 水俣病とプラスチックの問題がつながっていることが注目されるようになったのは最近のことですが、同じような事例は他にも多々あると思います。来年で公式確認70年にもなる水俣病ですらいまだに救済が終わっていないことを考えると、次々と明らかになる新たな公害や環境問題の行く末には暗澹たる気持ちにならざるを得ませんが、人間はおっしゃるように学ぶことができるはずですよね。






坂口誠也さん(大阪告発の初期のメンバー。自らの生き方を「ちゃらんぽらん運動」と名付けておられる。)
私は71年の秋、大学そばの繁華街・堺東をうろついていた時、偶然に映画「水俣」上映会のステッカーを見て、それに参加したことから水俣告発に関わり始めました。市大の井関さんと顔を合わせていると思うのですが、言葉をかけあうことはありませんでした。水俣病第一次裁判判決その後の東京での直接交渉にビル前に座り込む告発の一人として参加しました。その後も関西在住の患者の掘り起こし、水俣出身者の検診のことなどで当時の黒田府政とのたたかいがあったのち、告発から離れました。わずか4年ほど水俣告発の隅っこでうろうろしていただけです。
 本を読んで、支える会とのことが頭に残りました。運動の中で、いろんなもめごとはつきものかもしれませんが、それは表には出ない、出さないようにしていると思います。でも、この本では違います。「友の会」の成り立ち、坂本美代子さんや小笹恵さんのことを語るとき、どうしても「支える会」とのことを書かなければならなかったと思います。
 二審判決後の「カンパ」要請のことが紛糾の発端のように見えますが、そうではないのではと思いました。弁護団・支える会と患者との「思いの違い」がやはり二審判決後に表面化しています。一審二審で棄却となった人たち、逆転棄却となった人たち、賠償金額が下がった人たちの声は、弁護団、支援者らの「行政責任を認めさせた」「勝った勝った」の声にかき消されていきました。さらには報告集会で「行政責任を確定させることが先決。そのためには国県の上告を阻止するべきだがこちらから先に上告はしないということになった」。そこには棄却され、減額された患者への思いは見られない。まず「行政責任」を確定させる、自分たちの運動がそれを認めさせたという「成果」が欲しかったんだと思います。なんのための支援なのかと思います。
 恵さんに弁護士の一人は「お父さんもゼニカネの問題やないと言ってたやないか」と言ったといいます。僕は何にも分かってないんやなあと思います。患者から病気に苦しみどんな思いをして生きてきたのか聞いて知ってるだろうに。恵さんの想いは本の始まりp18に「何もお金が欲しいというだけで裁判してきたわけやないけど、みんな苦しい想いをして提訴から19年間もがんばってきたんやから・・」とありました。治療費や薬代、生活費、苦労かけてきた家族への想いのためにはどうしても金はいる。そんなことも弁護士はわからないのかと思います。
 二審後のカンパのことで紛糾したときの支える会の立場・発言が理解できません。原告団規則にある相互扶助のカンパを二審勝訴患者が拒否したこと、それを弁護団・支える会が支持したことや、支える会への謝礼について「汚い金」と発言した理由がよくわかりませんでした。なぜ、そういう言葉になったのか。結局は患者の会から別れ「友の会」が成立していくことに。支える会が友の会メンバーに「そっちに行ったらもう弁護士はつかない」と言ったとか。弁護士が友の会のひとりひとりに電話で患者の会に戻るように説得したりしたとありました。会社が組合つぶしでやるようなそんなことまでした。もう患者と支援としての関係はつぶれているのだと思いました。
 支える会・支援のことばかりになりましたが、50年前、認定制度こそが問題だと知りました。チッソ、国県、裁判所、医師らは結託して認定の枠を狭め、認定患者を少なくする。患者救済の名で補償を値切り、行政認定されても補償協定拒否など手を変え品を変えて償いから逃げる。今も何も変わらずにあるということを思いました。
 「聞き書き」は貴重な記録になるし、その場の人の息遣いが感じられました。
 人は変わっていくものと思います。夏義さん、美代子さんに教えられ鍛えられて恵さんはたくましくなっていきました。そして、美代子さん。水俣病で殺された家族、お姉さんのことがあってそのことが美代子さんを強くしたのだと思います。最後にある年表を見ていると美代子さん、恵さん文字通り東奔西走だったことが判ります。裁判所での美代子さんのつぶやく「バカタレが!」「うそつきが!」「聞いてられんわ!」のところを読んで、思わず喝さいを送りました。そうやそうやと。チッソや国県側の証人に発したのでしょうが裁判官に言っているとも思いました。
 僕は今、水俣のことから離れてしまっていますが、本を読みながらいろんなこと思いました。
 美代子さん、恵さん、友の会の患者さんらにとって、木野さん、山中さんのやってこられたことは本当の支えになったと思います。

→ 大阪告発の初期のメンバーだったのですね。でも意に添わなくてすぐに抜けられたそうで、もし続けられていればご一緒できたかもと残念です。
 運動の中で起こったもめごとを表に出すのは余程のこととは全くその通りで、どこまで書くかは恵さんも交えて思案しました。しかし、内容はオブラートに包んだものの「無かったことにはできない」との思いを大切にしました。これも最高裁から20年という年月が経っていたから出来たことだと思います。






大川 智恵子さん(水俣の物産の共同購入を通じて患者さんたちと知り合った)
私は関西訴訟が提訴された頃は実際に患者さんたちともお会いしていましたが、高裁の頃からは忙しくなり、山中さんがその頃からいつも配信されていたメール通信を楽しく?読ませていただいていました。熊本県や環境省 チッソとの交渉などに同行された山中さんの記事や、坂本さんらとカラオケに行ったことなども書かれていましたね。
 私は当時、よつ葉牛乳関西共同購入会で活動していましたが、20年ほど前に設立されたコープ自然派に移りました。その間、組織運営に多忙を極め、水俣との関わりが少し途切れていましたが、今はまた新しく設立された生協の若い組合員さんたちと一緒に頑張っています。ご本によれば、そちらの関西訴訟の会の方も、分裂など大変なことがあったのですね。
 私自身の水俣との出会いは、現地で杉本栄子さんや浜本二徳さんのお話しをお聞きして衝撃(患者さんか𠮟咤激励されたような…)を受けたことからです。お二人からは、水俣を訪れた人や少しでも関心を持った人は、「一人も逃がさない!」といった気迫を感じました。語り部たる所以でしょうね。
 このお二人に象徴される水俣の患者さんたちや、美代子さんをはじめ関西の患者さんたちからは、“苦しみぬいたからこそ備わった「力強さ」と突き抜けた明るさ”が感じられ、逆にこちらが励まされるような思いでした。
 こういった水俣病のことを、一人でも多くの方へ伝えていくことが同時代に生きた者の使命だと感じています。私も微力ながら、若い方々へ伝えて行きたいと、あらためて気を引き締めています。貴重な知る機会をいただいたことに感謝しています。

→ どんな組織でも考え方の違いによる変遷は付きものでしょうが、何のための組織だったのかという原点は大切にすべきでしょうね。そういえば、お互いに同じ頃に大変な時期だったようですね。最近は相思社の永野三智さんの講演会などもやられたそうで、若い人たちにつなぐ活動にも精を出しておられます。







向井美香さん(大阪市民、木野先生の授業のモグリ学生のひとり)
 「いのちのたらいまわし」「空手形(補償協定のなされない認定のこと)なら、いらなかった!」。生前、坂本美代子さんが、怒りとともに何度も口にされていた言葉だ。その都度、意味が分かったような分からないような中途半端な理解のままだった。『続・水俣まんだら』著者のお二人からもそれがどういうことなのか聞いてはいたが、当事者の美代子さんや小笹恵さんすら翻弄され苦しめられた行政やチッソの不可解な動きは、たまたま木野茂さんの授業にもぐりこんで関心を持った程度で、関わりも知識も浅い私には、スルスルと理解するには複雑すぎた。
 今回、この著作に詳細に報告されている水俣病関西訴訟勝訴とその後に捻じ曲げられたチッソ補償協定との関係性から、やっと、美代子さんの悔しさと情けなさを確かな手触りとして感じ取ることができたように思う。第6章「補償金訴訟を起こした人は敗訴」以降の美代子さんと恵さんのチッソ、県、環境省との自主交渉の記録からは、ギャラリーとして同席させてもらった最後の交渉時の、美代子さんの全身から絞り出すような声が聞こえてくるようだ。読み進める読者は誰もが、交渉の痛みを美代子さんや恵さんと共に感じずにはいられないだろう。
 
 環境省との交渉にギャラリー参加させてもらった私は「美代子さんの交渉が、まるで新人官僚の教育の一環として使われてるかのようだ」「弁のたつ、かつ、めげない坂本さんの洗礼を受けていっちょまえ」とでも考えているのかしらと感じたほどに、こちらがどのように筋を通そうとしても、のれんに腕押し糠に釘。対応する職員は真摯でソフトだが組織として厚い壁の存在があった。環境省って、確か水俣病をキッカケにできた省庁だったはず。それは、患者さんを助けるどころか加害企業を守る防波堤としてのものだったの?との疑問もわいてきて、あきらめずに交渉を続けてきた美代子さんの気力と怒り、悲しみの深さに胸をつかれ、法の前に被害者が報われないという理解しがたい事実…などなど、混乱した頭をかかえて帰途についた。
 この交渉中、突然バタンとドアを開けて「時間ですから」と言いに来た職員がいた。私はすっかり忘れていたが本著を読んで思い出した。環境省の同様な態度はつい最近、2024年の水俣病患者と環境省との交渉中に、予定時間をオーバーしたとして、訴える患者の音声を切ってしまう「マイク切り事件」として再演されている。あまりに酷い!この時美代子さんが存命でなかったのは、無念の上塗りがされずかえってよかったのかもしれない。

 感想文をと言われて書き出したが、少しズレてきたかしらん。外れついでに、東日本大震災に伴って発生した原発事故後、今こそ水俣病と患者の闘いを友人たちと共有したいと山中由紀さんに相談し、2014年4月5日、みつや交流亭(大阪市淀川区)という小さな会場で美代子さんに話をしてもらった。15名の参加者の中には福島からの避難者やその支援者もいた。お話後、会場との質疑応答から垣間見える美代子さんの姿を紹介したい。

Q:家族が崩壊してバラバラになって口も利かないという、大変なご苦労をされたと思いますが、それでも生き抜いてこられた強さは何ですか?
A:なんでしょう…。私自身は、姉に対してとんないもないことをしでかした。その姉が先に逝ってしまうとは思ってなかったし。それと父が強い人で、「おまえは間違った事はしてない。姉の分まで頑張って生きよ」。その言葉があったから強くもなれた。
 それにやっぱし、長生きしていつまで姉に手を合わしていけるか。私自身、ここまで強い人間とは。確かに環境省とかそういうとこへ行ったら、私の名前は知れまくって、大変なことになってるんですけど。私より家族かな。私がここで亡くなったら、悲しむのは子どもたちですやんか。だから両親にはホントに、寝たきりでもいいから生きてほしい。私はそういう思いで生きて来たから。子どもたちのために、怒られながらでも生きられるっていうのは、その強さだと思う。
 子どもたちに家族に対して自分が強くならないと、家族を引っ張って行くことはできないです。それに水俣病っていうとんでもない病気を背負わされても、それに対しても強くならないと。福島のことも、そうだと思います。どんな立場に置かされても、それを跳ね返す力を、自分自身に向けておかないと。他人さんに任せるということはできないですよ。自分が跳ねのけてやらないと。水俣にしても福島にしても怖いことやけれども、自分が強くならないと。立ち向かっていかないけない。子どもに残すというのは残酷すぎますやん。それがあるから、いま私は頑張ってます。
 恵さんのお話は、2022年、急逝した美代子さんの代わりに務めた京都での講演会で初めて聞く機会を得た。本にもあるが、泣かせる坂本さんの語りに対して、恵さんは時に笑いを取る!という快活な運び。そうした中でも病気と病気に原因する貧困への世間の風当たりがいかに辛いものであったか、その後の裁判で加害者であるチッソと国からどのように理不尽な扱いを受けたかがひしひしと伝わってきた。美代子さんを姉のように慕い、共に行動し支えた恵さんの、「私が伝えていかなあかん」との頼もしい決意表明で本文が閉じられているのは、美代子さんはじめ、病に加え「空手形」に苦しんで亡くなった人たちへの何よりの手向けに違いない。

→ 恵さんは笑いをとれる語り部で貴重です。でもね、両親の失効問題やチッソによる補償協定の拒否問題のことは、今もまだ、質問されない限り話さないのが実情。なんでや~! いちばん言いたいことのはずなのに!! 悔しすぎて、逆に話せないのかなぁ。






MRさん(匿名希望で失礼します)
水俣病事件史の中で初めて行政責任を認めさせた
最大の功労者である関西訴訟の原告たちが
何の補償も得られず、このような苦難の道を辿っていた
ということを、恥ずかしながら、この本で初めて知りました。

そして、今現在、医学的に間違いなく水俣病患者である人たちが、
「救済」の名の下に、三度目の和解に持ち込まれようとしています。
(二度の和解が失敗であったと言わざるを得ないのに。)

和解でいつも利益を得ているのは、いったい誰なのか。
当事者である患者でないのは明らかです。

水俣病の病苦と企業と行政による加害に苦しんだ上、
運動と支援の在り方によっては苦しみが増幅するという矛盾。
そして、そのことに薄々気づきながらも
仕方のないこととして目をつぶって「救済」を
有難がらざるを得ない患者さんたち。

そういう意味で美代子さんや恵さんたちの受難と闘いは
主人公を変えて、別の場所で今も繰り返されています。

本を読みながら、企業の傲慢さに怒り、
行政の無能ぶりに呆れ、司法に対して失望し、
そして、運動や支援による抑圧に腹が立ちましたが、
描かれた患者さんたちは人間力が強く、とても魅力的でした。

「当時は書くことができなかった」という筆者らが、
それでも、水俣病業界で礼賛される関西訴訟の真実について
勇気をもって書き残してくれたこと、
一読者として、感謝と敬意を表します。

→ 熊本水俣病では、第一次訴訟の時にも裁判が進むにつれ原告患者と弁護団の齟齬が深まり、最後は患者とチッソの直接交渉で補償協定を勝ち取りました。
 関西訴訟では最高裁で行政責任を確定させたと言われますが、同じように弁護団と患者たちの齟齬は深まり、最高裁後は行政認定もチッソからの補償も本人任せでした。しかも、第一次訴訟の時は告発する会の大きな支援がありましたが、今回はその支援すら瓦解したので、患者たちはまさに受難と苦界の中へ放り出されたのです。
 今も続いている未認定患者の方々を苦しませている原因は、まさに最高裁判決が残した問題から発していると思います。








藤田三奈子さん(現在は大学・高校で非常勤講師、以前は甲南女子高校教諭)
一気に読んでしまいました! 自分が甲南女子を離れてからも、こんなにたくさんの出来事があったのだ…と、読み終えてしばらく放心していました。
 第三章あたりまで、複雑な人間関係や裁判の話で、登場人物の顔を浮かべることでゆっくり理解しながら読んでいましたが、第四章あたりから美代子さん、恵さんの生の言葉が増えて、木野先生やゆきどんも登場する場面がどんどん出て来ると、後半はあっという間に読み進めてしまいました。
 思いがけず自分の名前も出ていて驚きました。甲南女子に来ていただいたのは、こういう事があった時期だったんだ…と、ゆきどんに頼って貴重な機会を生徒にも味わってもらえたことを、改めて感謝しています。
 裁判の事実の記録を残した書物は他にもあるかもしれませんが、人物を中心に、その心の動きを丁寧に記して、チッソ、国、県を相手にたたかうことが如何に大変か、どんなに振り回されて苦しんだのか、こんな風に腹の底からズンと感じさせることができる本は、やっぱりこの『まんだら』ですね。
 美代子さん、恵さんのお2人の20年余りを辿らせていただいた気持ちになり、ご本人を知っている人なら、これを読んで、胸に大きくこみあげるものがあると思います。
 このように水俣のことをまたじっくり考える機会をいただき、ありがとうございます。

→ 甲南女子高にお招き頂いた時は、くまもと県民テレビの取材クルーが来て、バーベキューの串での痛覚体験(生徒は一瞬で手を引くが、美代子さんは『分からない』と何度も繰り返す)が深夜に全国放映されました。それを見た政治評論家で「水俣病問題に係る懇談会委員」の屋山太郎さんが「あの女性は、認定されないのか?」と発言したという記録をネットで見たことがあります。結局、美代子さんは認定されましたが、あの串の影響力は大きかったと思うのです。ホントにありがとうございます!






大江宏さん(大阪市大自主講座実行委員1期生、元・倉敷市役所職員)
遅くなりましたが読み終えました。
 木野先生と山中さんが、岩本夏義さんや恵さん、坂本美代子さんたちと深い人間関係を作られたからこそまとめることができた本だと思います。
 坂本美代子さんが湯堂で雨戸も開けられないほど酷い差別を受けていたことはこの本を読んで初めて知りました。大学時代の記憶ではよく話す明るいおばさんという印象でしたが、本当に辛い体験を抱えて生きてこられたんですね。
 地裁と高裁の判決で翻弄される患者さんたちの状況、カンパや運動方針を巡る患者の会の混乱について書かれていることは同じような事例の教訓になると思いますし、友の会が患者の会から分裂してできたことに関する宮澤信雄さんの達観した言葉が印象的でした。
 Iさんの行政認定からチッソの補償協定拒否、提訴までの間に「Iさんないしは相談を受けた弁護士の方からすぐに公表して世論に訴えなかったのだろうか。」という疑問は読んでいて当然だと思いました。認定されてもチッソが補償を拒否していることを知っていた熊本県職員が坂本さんに一言伝えていれば苦しい自主交渉をしなくて済んだかもしれません。行政認定から補償協定という流れを進めていこうという坂本美代子さんの意志を県職員は知っていただろうし、公式な場でなくてもIさんの事例があることを伝える機会があったのではないかと残念に思います。
 チッソ水俣病関西訴訟に関する資料として歴史に残る本を作られた木野先生と山中さんに敬意を表します。お疲れ様でした。    2025年3月10日

→ 熊本県職員は、美代子さんの認定に尽力してくれたと思いますが、手遅れでした。補償協定に?ランプが点いたことを教えてくれていれば、、、 裁判したら補償協定が拒否される可能性があることを教えてくれていれば、、、 悔やまれます。






黒田光太郎さん(九大ドロ研、瀬戸内海汚染総合調査団、名大名誉教授、著書『誇り高い技術者になろう~工学倫理ノススメ』)
早速に目を通させていただきました。
 2000年代になってからも木野さんと山中さんが関西訴訟をたたかわれた美代子さん、恵さんに寄りそわれて活動されてきたことがよく分かりました。敬意を表します。
 昨年は相思社50年で、来年は水俣病公式認定70年になります。御著は水俣病問題が未だ終わっていないことを伝えるオーラルヒストリーによる貴重な記録で読み続けられることを願います。
 昨年12月に開催された「水俣・京都展」の案内は水俣フォーラムから受け取っていましたが、御著を読んで参加しなかったことを悔やんでいます。
 まえがきでもあとがきでも触れられている井関進さんのことを思い出しました。まだ学部学生だった1970年に福岡水俣病を告発する会の設立に関わり、チッソ一株運動、総会出席(大阪)、1971年の瀬戸内海汚染総合調査団に参加などの中で、井関さんと出会いました。1972年11月に初めての学会発表(物理学会九州支部講演会)で鹿児島大学に行っていた際に、亡くなられたことを橋爪健郎さん(鹿大助手)から知らされました。
 3年前まで大阪市大で授業を続けられたのはすばらしいですね。
私は2020年に70歳で名古屋大学の基礎セミナー「現代社会を1968から考える」の非常勤講師(70歳定年は私が教務委員長の時につくったルール)を終えました。

→ 小笹恵さんの講演は、またご縁があるかと思います。長寿の家系ではないので、次回はぜひとも!








小出裕章さん(1974年に京大原子炉実験所の助手=現在の助教となり、2015年に助教で定年。原子力問題に取り組んだせい?)
こんにちは。「続・水俣まんだら」、ようやくに通読を終えました。
 坂本美代子さん、小笹恵さんの苦闘、重苦しく拝読しました。
 「いのちのたらいまわし」をされ、国も県も、チッソも責任を取らないまま美代子さんはお亡くなりになってしまいましたね。
 恵さんが後を継いでくださるとのことですが、苦難の道だと思います。
 「なかったことにはさせたくない」という思いは、今のフクシマ事故被害者の思いにつながっていますが、それでも、国も福島県も、東電もみながグルになってフクシマ事故をなかったものにしようとしています。
 被害者の苦悩はますます深まっています。
 もちろん水俣の被害もそうですが、フクシマ事故を「なかったことにはさせたくない」と私は思います。
 できることは少ないですが、苦闘を書き残し、歴史を引き継いでいくことはこれからも大切なことでしょう。
 木野さんと山中さんにとっても長い長い闘いだったと思います。
 お疲れさまでした。
                  2025/1/25  小出 裕章

→ 大阪は寒いのですが、雪は舞う程度で、雪合戦できません。美代子さんも恵さんも歌好きなので、追悼カラオケ大会をしたりして「冥途の土産」作りに励むつもりです。







岡本達明さん(チッソの第一労働組合委員長。水俣病と闘えなかったことを恥として『恥宣言』を組合大会で決議し、患者を支援)
最高裁判決後にやっと認定されて、それなのにチッソは補償協定の金員を支払わず、裁判所は三人の立会人の意見を聞かず、チッソの言い分を認めた。こんなことが許されてたまるか!
 小笹恵さんの話は、御本で読むとして、川上敏行さんと美代子さんも、「このままでは死んでも死にきれん」と言って死んでいかれた。この人たちの無念さ、ことの理不尽さを誰か書いてくれないかと前から思ってました。御本を手にしたとき、よかったと思いました。この問題は、公害訴訟の限界を改めて露呈しました。奥は深いですね。
 チッソが潰れるのをみてから死にたいというのが、私の最後の願いです。実態はすでに、チッソは完全なゾンビ企業になっています。
 経常利益年280億というのが、特措法の前提条件です。唯一の頼りであった液晶が時代遅れとなり、今や僅か数億円を計上するのがやっと。これに代る新技術、新商品は何もありません。特措法は完全な死法になっています。
 環境省はどうするつもりなのか。三分でマイクを切るだけなのか。認定ゼロを押し通すだけなのか。特措法の死に体を隠すだけが能なのか。
 チッソも環境省もさぞ頭が痛いことでしょう。
 世界をみても、資本主義はいよいよ潰れかけています。私は年が明けると90歳。くたばりどきですが、もう少し資本主義末路の様相を眺めたいと思っています。(2024.12.23)

 私の手紙、お役に立つならどうぞお使いください。
 私の周りでは昔からの友人がバタバタ死んでいきます。木野さんたちはお元気そうで何よりです。(掲載OKのお返事に添えて、2025.3.19)

→ タツアキさん! ご無沙汰しております。チッソはゾンビ、つまり倒産しない会社ですから、就職先としては安定していますよね。でも、社員たちからすると、美代子さんらは裁判で決着済で、補償協定の対象外。法学部の人の思考は、奥が深いです。







斎藤 恒さん(1965年より新潟水俣病患者の診察・治療・実態究明に取り組み、現在も裁判の証言台に立つ)
以前、1月の水俣病研究会でお会いしている先生方なので興味深く拝見しました。そして新潟との違いにびっくりしていました。新潟では新潟水俣病の公表当初から民主団体水俣病対策会議が結成され、初期は定期的に自治体交渉も行っていました。本書に出ているような患者個人による交渉は考えられぬことでした。
 貴書「続・水俣まんだら」でみるように、女性患者が一人で大企業や国を相手に立ち向かう姿は偉いですね。敬服します。それにしても、この時市民会議の人達や支援団体の人たちはどうしていたのでしょうか。誰も支援しなかったのでしょうか。患者の方で支援を断ったのでしょうか。理解できません。水俣は新潟と違って、東京、大阪、京都、九州各地から知識人が集まりました。市民会議も結成されていました。
 亡くなられた市民会議の責任者、日吉フミコ先生も懇意にしておりましたが、知っておれば人に言わなくとも市民会議挙げて協力されたと思います。
昔、宇井純氏から聞いたことがありました。チッソは東大工学部を出てもなかなか入れないような誇りある会社だ、ということでした。その大企業に患者が一人で立ち向かうのを黙認していた周囲の人たちが理解できないことです。
 然し乍ら、岩本恵さんと坂本美代子さんを激励しながらその努力を専門学者の目を通して立派な作品を紹介されたご努力に敬意を表します。
 水俣病は言うまでもなく食中毒ですよね。食品衛生法を適用せず、漁民に生活保障せずに、自主規制しかしなかった。その結果です。
被害を矮小化するために認定制度を作り、患者の認定を棄却し続けるしか方法はないと考えているようです。
 昨年、環境大臣が来て新潟県知事と新潟市長も来たが、何の説明もなく、意見を聞くだけだった。
 水俣病は患者認定問題であるかのように矮小化されている。食品衛生法を適用せず、最初に行ったのは漁民にたいする何らの生活保障もない自主規制に終わった。
 新潟水俣病も同様に食品衛生法が適用されなかった.そして、未曽有の拡大を招いた。この辺の社会的認識が遅れていると思います。今後とも両先生のご活躍を期待しております。
                                 斎藤 恒

→ 斎藤先生! ご無沙汰しております!!
 関西では、市民会議のような団体はありませんでした。
 実は日吉先生も松本さんも一審二審の頃は何回も来阪され、裁判の傍聴にも来られていて、大いに励まされました。
 最高裁後は本にあるように弁護団も支える会(大阪告発)も見向きもしませんでしたが、市民グループの人たちからは活動基金(チッソから補償金が取れたら返すとの約束で1人1万円の出資:結局返せませんでしたが)や励ましの声は届けられました。
 ただ、美代子さんと恵さんは組織的な支援に頼らず、自分たちで動きたいとの意志が強く、国・県・チッソとの交渉は二人の名前だけで要求し、私たちが付き添う他には、記者たちがまるで支援者のように取り囲んでいました(笑)。









・紹介してくれた新聞記事

朝日新聞(大阪府内版、2025年3月21日)「『勝訴』内幕 原告らの苦難追う~補償協定拒否・行政の『見て見ぬふり』記録」
 
水俣病をめぐる国や熊本県の責任を2004年に最高裁で確定させた「水俣病関西訴訟」から20年以上を経て、原告らのその後を描いた書籍「続・水俣まんだら」が出版された。「勝訴」の内実、判決後も補償協定を拒否した原因企業チッソや国、県の姿勢だけでなく、分裂していった原告団の内幕もつづった。
 1983年から原告団を支援してきた大阪市立大学元助教授で立命館大学元教授の木野茂さん(83)と、大阪市立大学在学中から支援に携わる山中由紀さん(55)の共著。原告の一人で2022年に86歳で死去した坂本美代子さんと、1994年に死去した元原告団長・岩本夏義さんの長女、小笹恵さん(71)らの軌跡を追った。
 2001年の大阪高裁判決は、水俣病の被害拡大を防げなかった行政の責任を認めた。だが、内訳は、原告59人中、一審より減額された13人を含めて賠償が認められたのは51人。残る8人は訴えを棄却された。04年の最高裁判決は、さらに1959年までに関西へ移住した8人について国や県の責任を棄却した。木野さんは、「患者の救済に大きな問題を残した」と指摘する。同書は「お父さんも怒っていると思うわ」という、恵さんの言葉で始まる。
 勝訴しても、行政が水俣病と認定した原告は美代子さんを含めて計6人にとどまった。この6人に、チッソは「裁判で賠償は終わっている」として、従来は交わしていた補償協定を拒否した。国や県は「見て見ぬふり」をした。原告らは、補償協定が約した年金や医療費、葬祭料などは得られなかった。
 美代子さん以外の5人は、補償協定との差額などを求めて裁判を起こしたが、すべて敗訴した。美代子さんは恵さんに付き添われ、チッソや環境省、熊本県に、自力で交渉する道を選んだ。精魂尽き果てて美代子さんは死去し、恵さんは「私が語り続ける」と誓った。
 一方で原告団は高裁判決後、賠償金が得られなかった人へのカンパをめぐって内紛を起こし、分裂した。いさかいの過程も、同書は記録した。
 木野さんは「2人の苦難が『なかったこと』にならないよう、記録しました」と話す。
 「続・水俣まんだら-チッソ水俣病関西訴訟の患者たち」は緑風出版刊、税込み3520円。(永井靖二)
写真(略)これまでに出版した3冊の著書(右端が最新刊)を前に、水俣病関西訴訟を支援した歳月を振り返る木野茂さん(右)と山中由紀さん






熊本日日新聞(2025年2月23日)「水俣病患者、苦難の闘いつづる 関西訴訟原告の坂本さん没後3年 支援者が『続・水俣まんだら』出版」

 水俣病の被害を拡大させた国と熊本県の責任を認めさせた水俣病関西訴訟の原告で、2004年の最高裁判決で勝訴した後に患者認定された坂本美代子さんが亡くなって、28日で丸3年になる。原因企業チッソや国、県との闘いの歴史を中心に、支援者が本にまとめた。「美代子さんの思いを伝え、何も解決していない水俣病問題の現状を明らかにしたい」と訴える。
 坂本さんは1935年に新潟県で生まれ、10歳で父親の郷里の水俣市に移って漁業に従事した。水俣病公式確認前の56年1月に発症した長姉キヨ子さんをはじめ、両親と妹弟の家族5人が公害健康被害補償法(公健法)に基づく認定患者。自身は58年に大阪へ行き、美容師として働いた。
 手の震えや頭痛、めまいに苦しみ、78年に患者認定を申請した。認定審査が始まらないため、82年に国と熊本県、チッソに損害賠償を求めて提訴した関西訴訟に原告として加わった。
 本の題名は「続・水俣まんだら チッソ水俣病関西訴訟の患者たち」。初代原告団長の故岩本夏義さんを中心に据えた前著を受け、二審の大阪高裁判決後の経過を伝える。判決が国と県の責任を認めた一方、賠償額の減額や一審で認められた原告が棄却され、上告の可否も含めて揺れ動く原告・弁護団の内実や確執を包み隠さず記した。
 最高裁判決は国と県の責任を確定させながら、法律や規則に基づく工場排水規制に関する不作為責任が生じるのは60年1月以降とした。59年12月以前に水俣湾周辺地域から転居した坂本さんら8人は国や県による賠償は認められず、坂本さんが判決後に「原告にとって喜べない判決」と悔し涙を流した姿も描いた。
 2009年に公健法で患者認定を受けた後のチッソとの補償協定締結を求めた闘いでは、「裁判で決着済み」として拒否したチッソに加え、環境省や県との交渉で味わった苦難の道のりを詳しくつづっている。
 協定締結を求める坂本さんの訴えに向き合わず、同じ主張を繰り返す原因企業や行政の姿勢に「やり方が汚い」「死ぬのを待っているのか」「命のたらい回しだ」と憤る坂本さんの数々の言葉を伝え、最後の交渉となった環境省とのやり取りも記した。最高裁判決後に患者認定された原告全員が補償協定を結べなかった問題も改めて指摘した。
 共著者の木野茂・元立命館大学教授は「最後まで美代子さんは闘争を続けた。勝訴したはずの関西訴訟が新たな切り捨ての始まりとなり、今の問題につながっていることを見過ごせなかった」と執筆の意図を語る。 緑風出版刊、3200円(税別)。(鎌倉尊信)

写真(上)補償協定締結を巡って交渉する坂本美代子さん(左)。右は「続・水俣まんだら」の共著者の山中由紀さん=2014年7月、東京・霞が関の環境省 (略)
写真(下)水俣病関西訴訟原告だった故坂本美代子さんらの闘いをつづった「続・水俣まんだら」 (略)






目 次

まえがき ――「続・水俣まんだら」に込めた意味

第一章 高裁判決の陰で泣いた患者たち
「お父さんも怒ってると思うわ」(一審原告団長だった父の思いを受け継いだ小笹恵さん)

第二章 岩本夏義さんの長女・恵さんと坂本美代子さん
「忘れることのできない差別」(家族5人が水俣病認定され、大阪に出てきた坂本美代子さん)

第三章 上告審中に患者会分裂、美代子さん・恵さんら自主行動へ
「友の会」結成(患者の意思で動きたい)、(最高裁で弁論再開、美代子さんも意見陳述)

第四章 行政認定求めて熊本県・環境省へ
最高裁判決に怒ったのは美代子さんと恵さんだけ(認定を求めて、二人で自主交渉へ)

第五章 行政認定出ても、チッソは補償協定を拒否
驚きのニュース(初認定された原告にチッソが補償拒否)の後で出た美代子さんの認定

第六章 補償金訴訟を起こした人は敗訴
チッソ・国・県へ自主交渉を繰り返す美代子さん(一歩も引かぬチッソ、認定した県は傍観)

第七章 勝訴後認定者には協定補償なし
勝訴後認定患者は誰一人補償得られず(提訴した五人は全員敗訴。美代子さんは体力が限界に…)

終 章 美代子さん 無念の逝去 語り継ぐ恵さん
美代子さん、突然の逝去(「もう私しかいない、私が語り継ぐ」と決意した恵さん)

資料編・あとがき







『続・水俣まんだら』のまえがき

「続・水俣まんだら」に込めた意味
 本書は2001年に出した『新・水俣まんだらーチッソ水俣病関西訴訟の患者たち』の続編である。「曼陀羅」とは仏教ではありがたい仏さんのことを描いた絵のことをいうらしいが、それにちなんで、関西の水俣病患者たちの生きてきた道を綴ることで私たちの足元を照らしたいとの願いで名付けた。
 前書を読まれていない方にもわかるように書いたつもりであるが、読まれた方の中には、第一章冒頭の「お父さんは怒っていると思うわ」の見出しに驚かれた人もいるかと思う。「お父さん」とは、熊本水俣病が発生した不知火海の島から大阪に出てきた岩本夏義さんのことで、1982年に損害賠償と行政責任を問うて水俣病関西訴訟を起こした原告団の団長で。元漁師である。
 著者の木野は当時、大阪市立大学で教員をしていたが、水俣病患者の支援をしていた友人が教授からのアカハラで自死した10周忌のイベントに参加する中でその提訴を知り、学生たちと公害問題に取り組むサークル「市大自主講座」を立ち上げ、関西在住水俣病患者の支援にも取り組み始めた。その後一審終盤の1990年に入学してすぐに参加し、患者の聞き取りに熱心に取り組み始めたのが山中である。
 その頃、夏義さんは病状が悪化し、代わりに患者の会の会長を引き受けた下田幸雄さんが頑張っていたが、頑張り過ぎたのか、夏義さんより早く亡くなった。その下田さんが亡くなる直前に残した「私らのやってきたことは記録に値しますよね」という一言が、この「水俣まんだら」をまとめる発端となった。そして下田さんの死後から始めた聞き書きに全面的に協力してくれたのが夏義さんである。

 水俣病事件は日本の戦後の四大公害の二つ(熊本と新潟)に数えられる程代表的な公害事件であり、メチル水銀という毒物を海に放出して魚介類を汚染し、漁民をはじめ何十万人という人々に被害を与えたことは、よく知られている。しかし、どういう症状が出れば水俣病なのかとなると、1956年の公式確認から68年にもなる今も定まっておらず、水俣病の認定基準をめぐって論争が未だに続いている。
 その要因は、水俣病と認められた患者には原因企業から損害賠償を行わなければならないが、被害の規模が大きいほど、責任企業だけでなく、監督責任がある行政も含めて各所に与える影響も大きくなるため、それを低く抑える策動が、責任企業だけでなく、医学界や国など行政にも広がったからである。
 そこで最後の手段として患者たちがすがったのが裁判所であった。そして1973年に熊本第一次訴訟の判決で勝訴した患者たちは、チッソと自主交渉を続けていた認定患者と一緒になって直接交渉の末に得たのがチッソとの補償協定であった。そこには、判決の賠償金(慰謝料)以外に、生活保障のための終身特別調整手当や治療費・介護費・葬祭料等が定められており、さらに以後行政が認定した患者にも適用することが約されており、画期的な協定であった。この協定締結が環境庁の一室で行われ、立会人に当時環境庁長官で後に首相となった三木武夫氏が名を連ねていたことを忘れてはならない。

 しかし、この後間もなく、認定申請者が急増するや、審査会では棄却が増え、未処分が急増したため、水俣病の行政認定をめぐって混乱が始まった。認定率が急減したのは従来の認定基準に77年判断条件と通称される厳しい基準が加えられたためであるが、これは現在に至るも撤回されていない。
 これ以後、水俣病の未認定患者問題が大きな社会問題となったが、そんな最中の1982年に起こされたのが夏義さんらの関西訴訟であった。水俣病と言えば熊本や新潟で起こった公害なのに、なぜ関西で水俣病訴訟かと、当初は驚きであったが、関西へ出てきた理由を知ってすぐに納得した。私たちが最初に出した『水俣まんだら』(るな書房、1996年)に「聞書・不知火海を離れた水俣病患者」という副題を付けたのは、その患者らの思いを伝えたかったからである。
 しかし関西訴訟も一審判決(1994年)では国・県の行政責任は認められなかったが、高裁で初めて行政責任を認める判決が出た(2001年)ので、それに合わせて関西訴訟の患者たちのことを広く伝えたいとの思いで、前書の『新・水俣まんだら』(緑風出版、2001年)を出した。
 ところが、その前著の最後に書いた恵さんのひとこと(本書第一章参照)は、二審判決後の患者間の分裂という形で現実のものとなり、患者主体の行動を主張する「関西水俣友の会」が誕生する。最初の会長は夏義さんから原告団長を引き継いだ川上さんだったが、弁護団や医師団の説得でわずか三ケ月で脱会した。その後は水俣出身の坂本美代子さんが会長となり患者が自ら動くことに努めたが、最高裁判決が近づくにつれ、判決後のことは弁護団に任せるほかないとの空気が広まり、「友の会」は瓦解した。結局、裁判で勝訴して早く行政認定を取り、チッソに補償協定による補償をさせるという夏義さんの目論見は、弁護団からも支える会からも無視され、最後は原告個々人に委ねられた。

 そんな中、弁護士や支援に頼らず、患者自身が動かなければと、県や国に行政認定を直接求め、行政認定後はチッソに補償協定に基づく補償を求める直接交渉を始めたのが美代子さんで、その行動に痛く共感して同行するようになったのが夏義さんの長女・恵さんである。
 しかし、美代子さんより二年も前に行政認定されていた人がいて、チッソから補償協定を拒否されたので関西訴訟の弁護士に相談して訴訟を起こすらしいとのニュースが突然新聞に出たことから、美代子さんの患者自身による闘いは苦闘を強いられる。美代子さんは二人目の行政認定を得たが、裁判中だからとチッソ・県・国から引き延ばしに遭い続けた。
 最高裁後に行政認定された後、チッソから補償協定を拒否されて何らかの行動をした患者は六人いるが、自主交渉を続けたのは美代子さん一人で、他の五人は裁判を選んだ。その美代子さんに最後まで付き添った患者は「自分の事 できるだけ自分で」と書き残した夏義さんの長女の恵さんだけであった。
 その恵さんは関西訴訟の患者のことを忘れてほしくないと今も語り部を続けている。これら美代子さんと恵さんをはじめ、命をかけて闘った関西訴訟の患者たちの顛末を書き残すのが本書の目的である。

 あの最高裁判決から今年で二〇年が過ぎたが、未だに七七年判断条件による行政の認定基準は変わっていないし、未認定患者の全面的救済を掲げた水俣病特措法(2009年)後も裁判は続いていて救済は終っていない。なぜ未だに水俣病問題は終っていないのかを伝えるためには、行政責任を確定させた関西訴訟の患者たちがその後どうなったかを伝えるのが最もわかりやすいと思ったからでもある。
 本書の主人公の一人である美代子さんは二年前に補償協定を拒否されたまま亡くなった。その美代子さんと、第一審判決後に亡くなった初代原告団長の夏義さん、その父を尊敬し関西訴訟のことを忘れてほしくないと今も語り部を続ける恵さんの三人に謹んで本書を捧げたい。





『続・水俣まんだら』のあとがき

山中由紀
 坂本美代子さんも小笹恵さんも、強い思いを持っている人である。でも、弁護士や医者、支援者の前では、裁判でいつもお世話になっているからと遠慮して、最高裁までは少々のことには黙っていた。しかし、上告審になってから、自分の思いとは相容れないことが分かった時、遠慮することをやめた。私は、初めて出会った時は大学生で、患者さんたちからは、孫の年代。弁護士や医者、支援者とは違い気楽に話せるようで、どの患者さんとも仲良くしてもらっていた。でも、そのうち、話の内容には、だんだんと愚痴や本音が混ざり始めた。

 原田正純先生が「怒りっぽいのも、水俣病の特徴」と仰っていたが、結局、不満が爆発し、患者の会は二分、関西水俣友の会ができた。友の会ができると、私は一部の人から冷たい視線を受けるようになった。かと思えば。「『義を見てせざるは、勇なきなり』やからやんなぁ」と声を掛けてくれた人もいた。その後も変わらずにお付き合い頂いた方々には、どんなに感謝してもしきれない。

 環境省や熊本県、チッソでの自主交渉では、美代子さんは最初は水俣病の行政認定を、認定後は補償協定の締結を求めて、恵さんは両親の認定申請の失効取り消しを求めて、熱弁をふるった。どこの交渉でも30分を超えたあたりで、担当者から私に対し、どうにかして欲しげな視線を感じた。よその交渉では、患者ではない人が仕切り役なんやろなと思いつつ、無視した。交渉は、数時間にわたり、後期高齢者の美代子さんの体力が尽きるまで続いた。若い官僚の中には、涙ぐんでいる人もいた。

 美代子さんや恵さんとは、たくさんの時間を共にしたが、笑顔と笑いが絶えなかった。美代子さんは先に逝ってしまったけど、天国でゆっくり待っててね。私も恵さんも木野先生も、冥土の土産の用意が、まだまだ、できてないから。
写真(上)1999.8.13.水俣で美代子さんと一緒にカラオケで歌ったことも(略)
写真(中)2005.6.19.医療費支給手帳を県に返しに行く美代子さんと恵さん(略)
写真(下)2009年頃、大阪のお店で長―い蕎麦とはしゃぐお茶目な恵さん(略)
一番上の写真は、獅子島出身の原告のお盆の里帰りについて行った時、岩本公冬さんがやってた水俣のお店で。公冬さんはチッソとの補償協定の交渉で生活手当を拒否する嶋田社長にガラスの灰皿を持ち上げ机上に叩きつけて自ら血を流して抗議をしたことで知られているが、実はやさしい人でした。

木野 茂
 私が水俣病関西訴訟のことを知ったのはまえがきにも書いたように1982年のことで、不知火海から関西に来てから症状が進行して裁判を起こした人たちのことを知り、これは記録に残さねばと団長の岩本夏義さんを中心にした前書の聞き書きをまとめたのが2001年であった。その後、最高裁で水俣病の行政責任を確定させたということで知られるようになったが、実は原告患者にとってはそれからが苦難の始まりであった。私たちは前書の後、患者が自ら動かねばと自主交渉を始めた坂本美代子さんと美代子さんに共感した夏義さんの長女・恵さんに付き添い、二人のその後を追った。しかし二年前に美代子さんの突然の逝去を受け、遅ればせながら最高裁後の彼女たちを中心に関西訴訟の患者たちのその後をまとめておきたいと高須さんに相談し、出版界の最近の厳しい状況の中、引き受けていただいた。

 まえがきでも触れたが、私が水俣病に特に関心を持ったのは、水俣病で企業寄りの学説を出し続ける科学者を糾弾した友人の井関君が学内教授からのアカハラで自死したことからであるが、その10周忌の催しが契機となって学生たちと始めた自主講座では、水俣病だけでなく公害環境問題で原因究明や対策に関わる科学者や専門家の果たす役割をテーマにし、被害を矮小化する人たちと真実を追求する人たちがいる中で自分たちはどんな道を目指すのかを議論した。この自主講座での経験は後に始まった大学教育改革の中で私のいくつもの正規授業となり、私の定年まで続けることができたが、常にその原点には井関君の事があった。「水俣まんだら」の関西在住患者の問題は彼の死後に始まったことであるが、井関君は大阪告発の初期のメンバーでもあったから、生きていれば私よりもっと熱心に取り組んでいたはずである。

 本書が出る直前の今年11月9日(彼の命日)には工学部の当時の学生らによる52周忌の集いが開かれる予定だが、井関君を偲ぶ意味でも本書の患者らのことも伝えるつもりである。本書が明らかにしたように、関西訴訟では残念なことに患者の人たちも支援の人たちも高裁や最高裁の後は別々の道を歩むことになったが、患者の救済と加害責任の追及という点では提訴の時点では一緒であった。しかし、長い年月の中でそれぞれが大事と思うことの差が広がり、それをチッソや国や県の思惑にうまく利用されたとも言えるが、結果として最も救われなかったのは患者であることを忘れてはならない。そのことだけは伝え続けたいというのが恵さんの思いでもある。

 夏義さん亡き後、私が美代子さんに付き添うことを決めたのは「自分の事、できるだけ自分で」と書き残した夏義さんの思いを体現している患者さんだなと思ったからであるが、個人的には夭折した私の姉と同じ年頃なので勝手になついていたのかもしれない(笑)。夏義さんと美代子さんには謹んでご冥福を祈りたい。
 最後に、本書の出版を快く受けていただいた高須次郎様に感謝する。
(写真)2009.10.10.美代子さん宅(大阪市瓜破)。チッソ・国・県との闘いの陣中見舞いと言って通っていたのが懐かしい。(略)