「ドキュメンタリー・環境と生命」2003年度受講生の記録

 ここには、記念すべき第11回から第12回までを掲載しています(2004年10月3日)
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# 初講で鑑賞した「こども輝けいのち第三回 涙と笑いのハッピークラス〜4年1組 いのちの授業」が、
 第30回日本賞(教育番組のコンテスト。約200カ国が参加)で、グランプリに輝きました(祝・受賞!)。
 また、内容を加筆したものが『4年1組 いのちの授業』という名前で出版されています。


第11回(2003.12.18)こころの時代〜宗教・人生「長き戦いの地で〜医師・中村哲」

 18年前、内戦のさなかのアフガニスタンやパキスタンのハンセン病治療に出かける。以来、内戦や旱魃で困窮した人が難民になって行き倒れて凍死か餓死する前に救うべく、村に井戸を掘ったり、診療所を建てたり、巡回診療をしたり、小麦や食用油を運んだりしている。誰もが納得できるアクションならば、宗教や政治の違いを越えて協力できるというのが彼の信条。現地スタッフを雇用する、撤退しないことで、地元に溶け込み、その信頼関係はとてもとても強固。活動資金は日本からの会費やカンパで調達している。
(NHK教育,01.11.25,60分)
 
<中村哲さんの著書>
『ペシャワールからの報告―現地医療現場で考える』河合ブックレット,1990年 ←505円で読めるよ!
『ペシャワールにて―癩(らい)そしてアフガン難民 』[増補版]石風社,1992年
『ダラエ・ヌールへの道―アフガン難民とともに 』石風社,1993年
『アフガニスタンの診療所から』筑摩書房,1993年
『医は国境を越えて』石風社,1999.12.
『医者井戸を掘る―アフガン旱魃との闘い 』石風社,2001.10.
『ほんとうのアフガニスタン』光文社,2002.3.
『辺境で診る辺境から見る』石風社,2003.6
『医者よ、信念はいらない まず命を救え!』羊土社,2003.10.


<当日資料>
「氷河の流れのように」(中村哲,「ペシャワール会」のHPより)
「戦争への加担は難民を作り出す」(中村哲,「ザ・インタビュー 毎日の視点」,毎日新聞,2001.10.2.)
「アフガン復興 軍とセットの援助に反発」(中村哲,朝日新聞,2003.11.22)


<受講生による内容要約>
 このドキュメンタリーはアフガンで内戦時代の1984年から活動してきた中村哲医師とNGO「ペルシャワール会」の話である。飢餓に苦しむアフガンの人々を井戸掘り事業や小麦粉輸送や診療所創設による医療活動によって救う事を目的としている。1991年にはアフガンで初の診療所を作り、今も続いている。
 ペルシャワール会の井戸掘り事業によって30万人が村を捨てずに済んだ。医療より先ずは井戸を掘る。「病気は後で治せるからとりあえず生きなさい」。活動の目標は「難民を出さない」事である。100〜150万人が冬を越せない、難民にすらなれない現状を「涙無しには話せません」と語った中村医師。地元の慣習を学び、一度行くと逃げないという評価・信頼を得て、地元に溶け込み、地元民を巻き込んで活動を続けている。「地元スタッフを育てて長く根付かせたい」と願っている。
 皆殺しになっても打つな、復讐するなと、人々に命を大切にするような仕事をさせて、そこから希望を持たせる様にしている。村を捨てた人々が自発的に難民キャンプから元いた村へ帰ってきた事もあった。「人間は複雑」だという事を感じながらも、自分の身の危険を顧みず、たくさんの人が助かると信じる事がメンバーに勇気を与えている。
(文学部・4回生 山田恭子)


♪受講生が選んだベスト意見♪ 文学部・1回生 金納未来 [kino-doc:545]

 正直、私はボランティアが好きではなかった。する側にたってみても無償で自分の働きを人に施すことも嫌だったし、される側にしても快くその施しを得られるとは思えなかった。しかし、このドキュメンタリーで中村哲氏は自ら率先してペシャワール会というものを作り、現地〜アフガニスタンやパキスタンへ赴いている。もともとテロや戦争の絶えない地である中東地域で自らの安全も省みず人々の為に出来ることを精一杯することの凄さ、中村氏の意地が垣間見れた。
 現在、イラク戦争の悪影響がもろに表れている中東地域で医師でありながら井戸を掘り、現地スタッフを起用し、自ら何時間もかけ山道を越えて診療にやって来る。もうこれはボランティアの域を脱しているとしか思えなかった。基本は同じ人間として協力し合って生きていくということ。今の世界情勢には見られにくいものだと思った。自らの安全を守るための武器、しかし一般の人々からしてみればただの人を傷つけるものでしかないのだ。日の丸やJAPANの文字を消さなければ人々に不信がられてしまうような日本で良いのだろうか。一国民であっても日本と言う国を背負って生きていかなければならないことに、私は何が出来るだろうかと悩んでしまった。


(次点)文学部・1回生 金城未希 [kino-doc:550]
 例えば疲れて家に帰ったとき、自分の部屋が物凄く散らかっていたとしよう。試験も近く、重要なプリントもそうでないプリントも混ざったままなので、早く片付けた方が良いのは分かっている。しかし今日は早く眠りたい。こんな時、皆さんはどうするだろうか。
 私は「簡単に出来そうな事だけする」タイプである。机の上に散乱しているプリントを(中身は区別もしないで)とりあえず一箇所にまとめ、洗濯物を引き出しにしまう。そして、机と床の表面が見え、一応人間の部屋らしくなったところで、「残りは明日にしよう。今日はこれで良いや。しんどいし」と思って眠ってしまうのだ。
 今回のドキュメンタリーを見ていて考えさせられたのは、「しなくても済むけどした方が良い事」に対する自分の行動について、だった。今まで私は、人はそれぞれ自分の出来る範囲で援助をすれば良いと思っていたけれど、本当にそれで良いのだろうか。私が今まで自分の出来る限界だと思っていた事は本当に限界だったのだろうか。
 中村さんのお話の中に、「自分が死んでも他に助かる人が沢山いる、そういうふうに覚悟を決めている人は案外多いんですよ。そこまでやってボランティアですからね」という箇所があった。最初は、死ぬ覚悟までは無くても懸命に働いている人もいるのだから、それは言い過ぎなんじゃ……と思ったが、ビデオを見ていくうちに、途中で辞めるのと初めから何もしないのとが同じになってしまう事というのはあるのだと思わされた。特に現在のアフガンのように、今失われようとしている命を助けたいと思うなら、「とりあえず出来る事」では間に合わない。必要な事を必要なだけしてあげないと意味がないのだ。
 誰かを助けるというのは簡単な事ではない。自分の余った力や財産をお裾分けすれば良いというものではないのだと痛感した。本当に「自分に出来る事」は何なのかを考え直さなければならないと思う。



<私(木野)の選んだベスト2>
法学部・2回生馬越涼子 [kino-doc:538]
 以前から若干ではあるが、NGOの活動に興味があり、ペシャワール会、中村哲氏も存じ上げていたが、映像と共に語られる氏の言葉は非常にリアルで、NGOに対する関心とともに不安を私に抱かせた。また、正直「うらやましい」という思いも捨て切れなかった。
 自分が今学んでいることは、所詮ある程度文明の進んだ地でしか役にたたないのだ。イラクへの自衛隊派遣が話題となっている昨今、「現地は自衛隊を歓迎」と報じられることもあるようだが、現地の住民に、自衛隊を企業だと勘違いしている者は少なくないそうだ。企業がきて、道路、水道、医療、電気を整備してくれるのだと考えているらしい。実際、戦地で常に戦火におびえ、生命の危険を感じてきた人々が願うものは、一番単純で重要な行政サービスだろう。生きるか死ぬかの瀬戸際にある人や、これから生きていく人々を現実に救えるのは、残念ながら法学ではない。医療の知識だけでなく、井戸を掘る腕力、現地で生活していける肉体が単純にうらやましかった。
 アフガニスタンだけでなく、カンボジアでも近年NGOの活動が目覚ましいが、外国のNGOに対する活動にはやはりデメリットもついてまわる。あるカンボジアNGOスタッフによれば、NGOの救援物資や救援活動が活発でありすぎると、現地民の「自国復興」意識が低下してしまうらしい。「外国人は余裕があるからボランティアをする」という認識から、外国人旅行者をボるケースが多発する、モラルの低下も問題となるようだ。
 今は本当に無力だが、戦火が止み、これから平和を目指していく国々で、いつか自分の能力が国内の整備や、モラルの向上に役立つ日がくれば、と思う。

文学部・1回生 平井麻耶子 [kino-doc:563]
 ボランティアをする人たちの大多数のことを、偽善者とか自己満足だとか、おせっかいだと思っていたことがある。自分の身の回りの不幸や、小さなSOSに気づいたり、手を貸すことはしないのに、どうして「足長おじさん基金」や、「難民救済のための募金」にはお金を払うのか。それで自分はすることはしていると思っているのかと、そういう風に思っていた。人のためを思って助けを求められるまでは助けないというスタイルを尊重し、人間は自立できてこそ自由だというような考え方をしていた。
 この番組を見終えた今も、このボランティアに対しての基本的な意見は変わっていない。ただ中村さんを尊敬した。彼の行動から、普通の生活を送っていれば死なないはずの人間が、死んでいくのを食い止めたい、難民をなくしたい、という純粋な気持ちが読み取れたからだ。中村さんにとってペシャワールは自分の力を発揮できる適所なのだと思う。
 私は、中学生の時に世界の難民について知る機会を経てから、「難民の子供を救いたい」と思うようになった。私たちはそれぞれ、歌手になりたいとか、医者になりたい、警官になりたいなどの「夢」をもって、それに向かって人生を歩んでいる。しかしその一方で、自分という個人について考えたり、夢を見たりすることなく、ただ「生きる」ということが毎日の目標になっている子供たちや、親を殺した敵に「復讐する」ことが目標になっている子供がいる。その事実は体を電気が走るような衝撃だった。私は助けたいと思った。夢を見させてあげたいと思った。だから私は、中村さんのように力をつけて自ら現場へ赴く人を尊敬する。
 私は医者になるわけではないが、別の方面で力を蓄えている途中なので、はやく現地へ飛べるように一層頑張ろうと思った。




第12回(2004.1.8)ゲスト ―公害と闘い続けた科学者― 宇井 純先生

 東大工学部を卒業して日本ゼオンに3年間勤務された後、大学院に戻られたが、ちょうどその頃、水俣病の有機水銀説のことを聞き、これは他人事ではないと個人的に調べ始めたのがきっかけで水俣病に関わることになる。
 1965年に東大の助手となるが、常に被害者の側に立って公害問題に取り組んだため、1986年に沖縄大学の教授に就任するまでの21年間、助手として塩漬けにあう。その間、1970年からの15年間、東大で自主講座「公害原論」を主宰した。
 1991年、「UNEPグローバル500賞」受賞。2003年3月、沖縄大学を定年退職。


<宇井純先生の主な著書>
『公害の政治学─水俣病を追って』三省堂新書、1968年
『欧州の公害を追って−宇井純レポート−』亜紀書房、1970年
『公害原論1-3・補巻1-3』亜紀書房、1971-74年
『キミよ歩いて考えろ―ぼくの学問ができるまで』ポプラ社
  → 1979年10月に小学生向けに「のびのび人生論11」として刊行、1997年4月に中学・高校生向けにリニューアル版を出版
『公害自主講座15年』亜紀書房、1991年
『日本の水はよみがえるか―水と生命の危機』1996年、日本放送出版協会


<当日資料>
「宇井 純先生の略歴」
「宇井 純さん」(朝日新聞「ひと」欄,2003.2.24)
「自主講座公害原論 開講のことば」
「新公害原論」(朝日新聞夕刊連載,1997.5.28〜8.4まで25回)


<受講生による内容要約>
# 宇井純先生はまず、大阪市立大学との関わりから話を始められた。日本ゼオンに勤務していた頃、大阪の塩化ビニールの町工場で、市大の井本稔先生の名前をよく聞いたそうだ。工場のおじさんにも解る、即応用可能な最先端の講義が市大でなされていたという。
 19世紀から20世紀初めには価値中立のアカデミズム科学であったものが、二つの大戦を経て、国家、企業が推進する産業化、制度化科学になった。科学の目的が国家、企業に沿うものである現代において、市大が家政学部ではなく、生活科学部を作ったのは、民衆の生活全体を見据えた科学を作ろうとしたのではないか、と話された。また、経済学者の宮本憲一先生(現滋賀大学長)は公害の研究において「民衆の科学」を体現した人であると評された。
 「科学は公平ではない。公害被害者は体全体で公害を受け止めるが、科学者はその一部を見るに過ぎない。ならば、被害者から話を聞いてみよう。」と水俣病の研究を始められた宇井先生もまた、民衆の科学を体現されている。
 東大での学生実験助手、水俣病の研究、世界の大学教育の研究、水処理実験。この四つのテーマで研究に取り組んで来られた。ブラジルのスラムで識字教育を行ったパウロ・フレールの問題解決型学習を紹介されたが、自らも実践されていたのだ。どの分野の研究にも、自分の手でやってみる、自分の目で確認する、という「実験科学者」としての宇井先生が居る。
 市大で学べること、世界でも稀有な勉強するには恵まれた日本(思想的な面ではアメリカよりも!)で学べることをしっかり認識して欲しい、と結ばれた。
(学外 林 久子)


♪受講生が選んだベスト意見♪ 文学部・1回生 平井麻耶子 [kino-doc:616]

 日本やアメリカ、イギリス、ドイツはみんな教育に恵まれた国だ。一方、アフリカや、東南アジア、南アメリカのほとんどが恵まれていない国で、貧しさゆえに行き届いた教育を受けることができないでいる。そんな教育に恵まれない国々には学びたくても学べない人々がいる。その人たちのことを考えると、恵まれた国側に立つ私たちは「恵まれている」という事実を再認識して、怠惰な自分を恥じてそれぞれに努力をしなければならない。一般論ではそういう風になっている。
 私はわからない。なぜ恵まれているから、たまたま教育に恵まれた国に生まれたから、勉強しなければならないのか。
 では、食物に恵まれた国は恵まれない人たちのことを思いやって飽食しなければならないのか。物資に恵まれた国は恵まれない人たちのことを思いやって生産過多になってまで生産し続けなければならないのか。違うだろう。食物も物資も供給するだろう。知識もそうするのが一番いいのではないだろうか。教育を輸出すればいいのではないだろうか。学びたい意欲のある、その機会のない人々に教育の機会を与えればいいのではないか。
 宇井先生は自分がやりたいこと、知りたいことをなさった。それが公害と戦うことであり、科学することであったに違いない。私たちはそれぞれみんな勉強しなければならないのではない。やりたいことを自由に選択し、享受すればいいと思う。それが世界から戦争や飢餓をなくすこと、教育を施すこと、研究をすること、なんであれ、自分が取り組むことのできる最大のことを精一杯にやればいいんだと、私は思う。何も言わなくていいから、ただ態度で示せばすべては報われると思う。それが結局は恵まれない人たちが、自ら立ち上がっていく力になっていくと思うから。


(次点)法学部・2回生 馬越涼子 [kino-doc:592]
 宇井先生が、授業冒頭に、まず、市大の歴史、価値をお話下さったことに感動した。
 そして、宇井先生がおっしゃられた「公害によって収入をえることが納得いかなかった」という言葉。こういった問題に取り組めば、誰もがぶつかる壁、ジレンマなのかもしれない。それを目の当たりにして衝撃だった。公害病患者の苦しみを、直接和らげる、楽にしてあげられる医者、医療に携わる人々とは違い、公害の研究によって収入を得る、公害のおかげで収入を得ることに矛盾を感じる。また、そういった研究に世間の目は常に好意的であるとは限らない。実際に、公害の問題に取り組まないと絶対にわからないリアルな「公害問題にとりくむための問題」だと思った。
 実際に、東京大学から研究費が出なかったという事実も衝撃だった。「東大は常に日本の研究の先駆者」「東大は正しい」的な考えが自分にもどこかであったのかもしれない。だから、「個々の公害において、大学及び大学卒業生はほとんど常に公害の激化を助ける側にまわった。その典型が東京大学である」ということばも、非常にショックであったが「確かに・・・」と思わざるを得なかった。
 正直、当初は宇井先生の略歴を拝見し「すごいなあ・・・」という単純な思いであったが、本当に「すごい」と感じたのは、先ほどの「公害によって収入を得ることが納得いかなかった」の言葉のあとの、「だから重要な研究は身金を切ってでもやるべきだ」とおっしゃられた時だ。すごい、と感じること自体おかしいのかもしれない。私たちも、そうあるべきなのだ。


<私(木野)の選んだベスト2>
商学部・1回生 西野寛子 [kino-doc:614]
 宇井先生に関する知識がまったくない状態で授業に向かった私は、椅子に座っている宇井先生があまりに普通の人で驚きました。第1回目の授業で配られたプリントには今日のタイトルが「公害を告発し続けた沖縄大学名誉教授・宇井純さん」だったので、どんな人が来るのかと身構えていたからです。
 また、今日の授業開始時に木野先生が配ってくれたプリントの写真の宇井先生の表情がキラキラしているのが印象的で、やはり人は好きなことをしている時にキラキラするんだろうなと思いました。
 そして、授業が始まり、話し出した先生は、座っていた時より生き生きして見えました。先生は、一つのことにしぼらず、もう一つの選択肢を残して物事を突き進める、というようなことをおっしゃいました。一つが行き詰まった時は、そこで落ち込まず、もう一つの方に専念し、そして時間が経ってからもう一度突き進める。とても重要なことだと思いました。人それぞれタイプがあるけれど、私は先生のおっしゃったやり方に合ったタイプの人間のような気がしました。
 そして、堂々としていることの大切さを教えられたような気がします。公害がどうこうというより、やっぱり勉強したり人の話を聞くことの大切さやおもしろさという基礎の部分をあらためて宇井先生に教えられたというか、なんだか今の私にぴったりな講義だった気がしました。

商学部・1回生 出井千佳子 [kino-doc:611]
 また同じ感覚だった。また自分のいる小さな世界を感じた。それと同時にまたも"頑張ってるすごい人"の存在を知ることができた。
 最近思うのは、このドキュメンタリーの授業では、ほんとうに様々な分野で必死にact globallyな生き方をしてる人がいることを知らされる。そして同時に自分の『何もしてなさ』に愕然とするし、また結局動き出せない自分に悲しくなる。
 今回はなんだか違う方向で考えてみることにした。これは全く方向間違いかもしれない。
 宇井先生の話を聞いて、当然国の行政のあり方には疑問を多く抱いたし、先生の偉業に感嘆した。それで考えた。もっともっと同じように感じる人はこの世の中にはたくさんいるはず。そしてみんなが疑問を抱き、先生の考え出した浄化施設を評価したら・・・(みんなといういい方は漠然すぎだけれど)。それにはもっと色んな分野での賛同者がもっともっと必要で、なんというか、例えばバリバリの企業経営のコンサルタントが感動して先生の研究を支援したら(投資、もっと言うなれば共同プロジェクト、そして宣伝、広告、マーケティング)そうしてどんどんエコな社会目指したら、、、と考えて、私はどちらかというとコンサルタント側で、自分なりに動きたい、というか、実際、私ができることってそーゆう動き方かも、と思った。それ以外で動き方が、今は思いつかなない。
 いいたいことがきっと全く伝わってないような気がします。けど今の頭の中はこんな感じなんです。宇井先生の伝えたかったことが全く伝わってなかったら本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。






2003年度の記録はこちら → その1(第1〜5回)その2(第6〜10回)
木野先生の部屋はこちら → 木野研
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