「ドキュメンタリー・環境と生命」2003年度受講生の記録

 ここには、記念すべき第6回から第10回までを掲載しています(2004年1月13日)
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# 初講で鑑賞した「こども輝けいのち第三回 涙と笑いのハッピークラス〜4年1組 いのちの授業」が、
 第30回日本賞(教育番組のコンテスト。約200カ国が参加)で、グランプリに輝きました(祝・受賞!)。
 また、内容を加筆したものが『4年1組 いのちの授業』という名前で出版されています。

【授業のその後(2003.11.15)】

 今期のML登録者(=履修登録者)は結局60人でしたが、登録後に事情で取り消した人が5人出て、現在は55人です。授業への欠席者はごくわずかで、去年と同じく出席率は上々です。他に学外からの参加者(いわゆるモグリ)や昨年度の既習生が時々参加しています。
 
 開講後の様子はHPで大体わかるかと思いますが、4回目の授業では受講生からアンケートを取りましたので、その結果を紹介しておきます。
 
1.メーリングリストをプリントして読んでいる人はわずか1/4でした。そこで、次回からは必ずプリントして読み、授業でのディスカッションにも必ずプリントを持ってくるように指示しました。その結果、私がパソコンで一々メーリングリストを検索して映写する手間も省け、ディスカッションの時間が効率的になりましたし、みんなが画面を見るのではなく話してる人を見るようになりました。

2.メーリングリストはさすがにほとんどの人が読んでるようでしたが、「半分くらい」という人が6人、「あまり読んでない」人が3人もいたのには驚きました。アンケートの結果をMLに流して注意しましたので、もう読んでない人はほとんどいないと思いますが。

3.<何か言いたいことがあればどうぞ>という欄にちょっと気になる記述もありました。私の返事と一緒に紹介します。反論のある人はどうぞと呼びかけましたが、一件もありませんでした。

* ディスカッションの時間が苦痛です。もっとちゃんとした討論会なのかと思っていました。「先生あのね」みたいですね。
→ 「ちゃんとした討論会」ってどんなのを言ってるのかな? 結論を出すまでやってほしいという意味かな? でも、それをやるのはあなたなんですよ。
 「先生あのね」みたいっていうのもどういう意味かな? 先生、ちょっと私の意見聞いてっていう感じという意味なら、何か勘違いしてないかな? 発言してる人はみんなに向かって言ってるんだよ。
 「ディスカッションの時間が苦痛」ってのは、あなたが自分を蚊帳の外に置いてるからではないかな? ディスカッションというのは聞くだけの側で座ってるとすれば確かに苦痛かもしれませんが、一度参加(発言)すれば楽しくなると思いますよ。

* ディスカッションの時間の長さが中途半端であると感じました。
→ 短いと言いたいのか長いと言いたいのかどちらかわかりませんが、ドキュメンタリーの時間が決まってるので時間制限があるのは理解してください。
 ディスカッションの時間は最初に断っていますから、あとはあなた方がその時間を有効に使って下さい。ディスカッションの時間は自分達で作る貴重な時間なのだということを自覚してください。

* もっと感動モノが見たい。
→ 何か勘違いしてないかな。この授業では感動モノの鑑賞が目的ではなく、「ドキュメンタリーから問題を読み取る」ことが目的です。たとえ感動モノでも、感動するだけで終らず、その背景にある問題を読み取り、考えることが必要です。
 それに君はメーリングリストを半分くらいしか読んでないそうですが、これまでのドキュメンタリーでも感動した人はたくさんいますよ。

 第5回はサリドマイド被害者の増山ゆかりさんをゲストに招く予定でしたが、増山さんの具合が悪くなり、順番を入れ換えると同時にドキュメンタリーも一本入れ換えました。


 受講生以外で、このHPをお読みいただいた方は、ご感想やご意見を<私>までお寄せいただければ幸いです。




第6回(2003.11.13)NHKスペシャル「農薬は減らせるか〜嬬恋・大キャベツ産地の挑戦」

 産地の生き残りをかけて、安全で美味しいキャベツへの取り組みが、群馬県の嬬恋村600軒の農家で始まった。減農薬で見栄えも良いキャベツは可能か?
 「減農薬」と名乗るには、使用する農薬を従来の半分にしなくてはならないらしい。嬬恋村の場合は39回使っていたので、19回以下にするのが条件。長年、大量に栽培し続けてきたことで土が弱っている上に、気温や雨の量、病気の蔓延、虫食い対策まで考えないといけないから、減農薬するにはプロとしての勘が重要になる。これじゃ、消費者にも、それなりの覚悟が求められますね〜。プロの技に感謝しながらお買い物しなくちゃ申し訳ない!と思いました。
(NHK総合,03.10.18,50分)

<当日資料>
番組紹介、「嬬恋キャベツは、日本一!」「嬬恋キャベツの歴史」(いずれもJA嬬恋村HPより)

<参考文献>
『モンシロチョウ〜キャベツ畑の動物行動学』『キャベツの絵本 そだててあそぼう』『新・ぐうたら農法のすすめ〜省エネ有機農業実践論』

<受講生による内容要約>
# 去年8月、違法農薬の使用が発覚した。全国の農家は「食の安全」への信頼を取り戻すために、減農薬野菜への取り組みを始める。嬬恋村は地域で減農薬に取り組むことを全国に先駆けて開始した。
 政府のガイドラインにより、5割以下の農薬使用でないと減農薬野菜とは認められない。嬬恋村の調査で明らかになったのは、予想を上回る農薬使用回数の多さであった。平均39回使用を19回に減らす取り組みが始まった。嬬恋村が減農薬に取り組んだ理由に土の問題、連作障害がある。今までは農薬の力で病原菌を一つずつ抑えてきた。栄養指導員の倉田さんは言う。「このままだと、今はいいけど将来困る」。自然との闘い−長引く梅雨、冷夏に苦しめられながらも農家と倉田さんたちは奮闘する。使用回数に数えない微生物農薬や、有機肥料、栄養剤などを使って減農薬にこだわる。
 今年、減農薬農家は全国で収穫が2割落ち込んだが、倉田さんは10ha(450ha中)に抑えた。来年度も嬬恋村は減農薬に取り組む決定を出している。
(法学部・1回生 黒田裕美子)


♪受講生が選んだベスト意見♪ 経済学部・4回生・山下慎介 [kino-doc:311]

 私はキャベツが好きだ。今回の減農薬キャベツは純粋に食べてみたいと思った。早速近所のスーパーで買ってみた。今回のビデオを見たことも後押しし、非常においしいと感じた。しかし、減農薬野菜はやはり価格も高かった。1回食べることは出来たが、現在の価格では我が家の食卓に日常的に減農薬キャベツが並ぶことは恐らくないであろう。
 農家やJA嬬恋の人は、他の生産者との差別化をはかるために「減農薬」という付加価値をつけたと言っていた。「安心」「安全」の提供という、立派な理念の下に努力されたことではあるが、いわば経営努力のひとつである。高価格な「減農薬キャベツ」の生産者に拍手喝さいを送り、低価格で一般大衆により好まれる「農薬使用の大量生産キャベツ」の生産者を批判するのは、あまりに軽率である。農薬を使用する生産者も形は違っても立派な理念の下に生産を行っている。
 現在は昔の農薬と違い、人体への影響が限りなくゼロに近いようなものも開発されているということも事実である。現在、人体への影響が懸念されている清涼飲料水やスナック菓子などを好んで食べながら、野菜を生産していく上で、やむ得なく必要となる農薬使用の有害性を訴えることは、少し自分勝手なのではないかと感じる。
 農薬使用の批判をする前に、日本人の食生活や見た目重視の思考を改善することのほうが大切である。



               (↓↓木野:票数の同じ人が他に2人いましたが、私の選んだベストと重複していますので、そちらをご覧下さい。)
(次点)法学部・1回生・吉田友希子 [kino-doc:324]
 私は今一人暮らしです。毎日の食事をつくるため(うん?毎日はつくってないやろって?)スーパーで買い物をします。もちろん野菜も買います。キャベツだって。一つの商品を買い物かごに入れる基準は、寂しいながらやはり価格が一番にきます。どんなに食べたいと思っていたとしても、高かったらあきらめます。シャッキっとしてて、青々してて、栄養満点でおいしそうだったとしても、財布と相談してからじゃなければ、そのキャベツが私の買い物かごに入ることはありません。
 我が家の母は減農薬、有機農、国産…、そういう健康によさそうなことにこだわる人でした。椎茸もネギもブロッコリーもバナナでさえも国産のものしか我が家の食卓にはあがりませんでした。けど、(お母さんごめんなさい)今私のお皿の中に盛りつけられるお野菜たちは、ことごとく外国産です。椎茸は輸入物なら国産の半値以下で買えます。バナナに至っては3分の1です。常に寂しい私のお財布を使ってお皿の中を豊かにしようと思ったらついそうなってしまいます。
 買うと決めたキャベツが目の前の棚に山積みにされていたとして、私がその中のたくさんのキャベツから、たったひとつ買い物かごに入れる基準は「いかにおいしそうか」です。シャッキとしてるか、痛んだところはないか、黄色く変色してはないか…。たとえそれが農薬によって守られた「おいしそう」な見栄えだとしても、ついつい私はそんなキャベツを選んでしまいます。それに、ひとりで調理するとき、キャベツをむいていたら青虫がうじゃうじゃいた・・なんてことには耐えられません。
 減農薬野菜が体にいいことは十二分に理解しているつもりですが、現実問題になると、なかなか実行できない・・それが私の現状です。



<私(木野)の選んだベスト2>

理学部・1回生 藤原慈子 [kino-doc:309]
 私が気になったのは、嬬恋村の取り組みのきっかけとなった、無登録農薬事件のことです。農家というのは本当に大変で、自分の作る作物に誇りと愛情を持っていなければ続けられない仕事だと思います。そんな人達が、自分達の一年間の苦労の結晶を廃棄するはめになるようなことを知っててする筈が無い、と思ったからです。そこで調べてみると、次のようなことがわかりました。
 売られていた無登録農薬は、殺菌剤「ダイホルタン」と、殺虫剤「プリクトラン」の二種類で、これらはそれぞれ発がん性、催奇形性の危険があるとされている。販売していたのは、業者もあるが、農協からも売られていた。この農協や農家は、「知らなかった」「行政の責任」と言っているところもあるが、農家の方から「ダイホルタンを探して欲しい」、また、「プリクトランを売ってくれないなら肥料を買わない」などと農協に働きかけた(農協談)ところもあるらしい。
 作物に誇りを持っている筈の人達がそこまでするのは一体何故か。答えは簡単です。キレイな作物への大きな需要。いくら安全に作っても売れなければやっていけません。なんだか悲しくなってしまいます。
 「変な虫が入っていたらおいしくない」という言葉がありましたが、私は『虫も食わないような』野菜は食べたくない、と思います。このように消費者が、「多少虫に食われていても、表面に傷がついていても、安全な野菜が食べたい!!」と言い切り、商品価値としてそちらが優先されれば、消費者、農家両方にとってより良い状況が生まれると思います。
<参照>

http://food.kenji.ne.jp/food18/food1823.html
http://chubu.yomiuri.co.jp/toukai/gomi020817_2.html


生活科学部・2回生 渡邊充佳 [kino-doc:313]
 普段スーパーなどで野菜を品定めする際など、「この野菜には農薬がふりかけられているのだ」ということを意識することは少ないように思う。キャベツに農薬がシャワーのように浴びせかけられているのを見たとき、正直「食べたくない」という忌避感が一瞬脳裏をかすめた。
 しかし実際には、私自身、映像に映っているものよりはるかに多くのシャワーを浴びた野菜たちですら、大して気にすることなく食している。とりあえず野菜をとっておけば安心、という感覚が私の意識を支配している。
 印象的なのは、農家に要求されるものとして、「見た目」「虫の有無」が挙げられていたことだ。裏を返せば、消費者の多くが、今だに何やかんやといいつつ「見た目」「虫の有無」を野菜選別の価値基準にすえていることを示している。しかし考えてみれば、野菜は観賞するためのものではないし、虫も調理の際によく確認して取り除き、しっかりすすげば何の問題もないはずのものである。
 「安全」「味」というような、「食」の根幹に関わる価値が、なおざりにされてきているのではないか。同時に、食事という行為そのものに関わる「他者との場・空間の共有」という価値もまた、重要とされなくなってきているのではないか。栄養さえとれればいいのだというサプリメントの流行は言うに及ばず、やむを得ない「孤食」ではなく、むしろ自分から「個食」を希望する子どもたちの姿、家族はそろっていても食べているものがまったく違う「バラバラ食」の傾向が見られると、私の学部のある研究者は、調査研究の結果から述べていた。
 一方、このような流れへの対抗文化として、「本当に食べたいものを食べよう、食事という行為をゆっくり楽しもう」というスローフード運動が脚光を浴びてきている。
 「食」をめぐる2つのダブルスタンダード。自ら行動を起こさなければ、「食べたいものが食べられない」時代であることだけは確かなようだ。日々「文明食」を口にする私は、疑問を抱きながらも、当分行動を起こせそうにない。





第7回(2003.11.20)「あなたはいま幸せですか 地球家族2001」

 「申し訳ありませんが、お宅の家財道具を全て家の前に出して写真を撮らせていただけませんか」と30カ国を回った写真家のピーター・メンツェルさん。対象は各国の平均的な家族。1994年に写真集として出版したが、2000年からもう一度、家族のその後を追った。番組では主にブータン、キューバ、ボスニア、日本、モンゴルの家族、そしてトルコとアメリカの家族を少し、以前と比較しながら紹介。(NHK総合,01.8.21,60分)

<参考文献>
『写真集 地球家族〜世界30か国のふつうの暮らし』
 マテリアルワールド・プロジェクト(代表ピーター・メンツェル)著 ; 近藤真理, 杉山良男訳, TOTO出版.(英文タイトル;Material World),1994.11.
『続・地球家族―世界20か国の女性の暮らし』,TOTO出版,1997.12.もあります)


<当日資料>
『写真集 地球家族』から、日本、ドイツ、マリ、ブータン、キューバ、ボスニア、モンゴルの写真紹介と、「30か国の統計一覧」抜粋

<受講生による内容要約>
# 今回の番組は写真家のピーター・メンツェルさんが世界の30カ国を回り、その国の象徴となる平均的な家族を選び、家財道具を家の外に出してもらって写真を撮影していくものであった。そして撮影した家族にピーターさんが「あなたの一番大事なものは何ですか?」、「あなたが一番いま欲しい物は何ですか?」「あなたは今幸せですか?」といくつかの同じ質問をしていくという番組であった。
 アメリカや日本という経済的に豊かな国から内戦のサラエボやモンゴルといった経済的に豊かとはいえない国までの様々な国をピーターさんは訪れた。家財道具の数はやはり平均的家族を取り上げたと言っても、国ごとの経済力が表れていた。しかし、面白いことに、ピーターさんの質問に対する答えは,大事なものは何?という質問1つ取っても「家族」、「先祖代々の仏像」、「古いランプ」と様々な答えが返ってきた。やはり国ごとの文化や国の状況といったものが切実に表れていたと思う。
 しかし、世界中共通する事もあった。家財道具を家の外に出し、家族みんなで写真に写る時、国連軍のガードの下で撮影した内戦中のサラエボの家族も含め、どこの国の人も笑顔であった。文化や望むものなど違うものがあるのも事実で、世界共通のものもあるという事も示した番組であったと思う。
(商学部・4回生 亀岡 悟)


♪受講生が選んだベスト意見♪ 商学部・1回生・出井千佳子 [kino-doc:368]

 写真家のピーター・メンツェルさんは人々にその質問をなげかけることで人々になにかを気付いてほしかったのではないだろうか。
 生活水準の向上を追い求めて生きている人々に、物質的な豊かさが直接的に幸せに結びつくのか。また、ただ家族が平和に暮らしていくことができたらよいのだろうか。
 幸せはその人の価値観によって決まるということは誰しもがこのドキュメンタリーでわかったと思う。けれどそれは当然なことで、その個人の定義する幸せというものをそれはそれで置いておいて、焦点を当てるべきは何か違うもののような気がする。
 例えば戦争中の方が良かったというセリフ、ひっかかる。それは個人の価値観だから、といって「そーゆう考え方の人もいるんだ」で終わってしまっていいのだろうか。色々考えなくてはいけなくなくなった今は辛い?どうして辛いの?色々考えなくてはならないことって辛いの?戦争中より生きて行くことが難しいから?生きて行くことが簡単だと幸せ?
 物質的に、経済的に豊かだと生きていくのはより簡単かも。だから経済的に豊かな人々は「幸せかも」と答えるのだろうか。逆にわれわれは「不幸せ」の定義を他人に押し付けてないだろうか?(論点がずれててごめんんさい。「不幸せ」の定義の押し付けの最大の現れがイラク問題のような気がしてなりません)
 なんだか言いたいことが無茶苦茶ですが、私の答えは
「あなたの大切なものは?」→自分のしたいことができてる今の生活
「今の生活に満足していますか?」→はい
「あなたにとって成功とは?」→自分のしてきたこと、自分自身が認められること
「あなたは今しあわせですか?」→はい


(次点)今回は4人が同数の次点でしたので、うち2人を私が選ばせてもらいました。

生活科学部・3回生・泉本暁子 [kino-doc:358]
「あなたの大切なものは何ですか?」→夫と子ども
「あなたは今の生活に満足していますか?」→満足している。経済的には裕福ではないが、毎日家族が楽しく同じ時間を共有できているので。
「あなたにとって成功とは?」→自分が、年老いて人生を振り返った時に、「幸せだった」と思えること。

 「物には一人一人の人生がこめられている」という言葉は、様々な国々で生きている人々の「物」への思いを象徴していた。「大切なものは?」と聞かれて、ボスニアの老人は医学書と答え、キューバのシングルマザーは家族と答え、日本の女学生は携帯電話と答えた。人が大切に思う物はそれぞれ違っていた。私には、彼らが大切に思っている物に対して、価値判断を下すことはできない。なぜなら、その「物や人」が、彼らの生きてきた時間の中で築かれたり創り出されたものだからである。彼らの生きてきた時間は唯一のものであるし、それに代わるものは何一つない。だから、その生きている時の中で、彼らが大切と思うものは、私にはその価値が理解できなくとも、やはりとても大切なものであると思う。
 また、人は生きている中で、何かを創り出し、何らかの形で残していくことで幸せを見出せるのではないかと思えた。日本の浮田さんの言葉が、とてもよくそのことを表していた。「家。家族。」どちらにしても、浮田さんが生きてきた中で、創り出されたものだ。浮田さんがこの世にいなければ、存在しなかった「物」。浮田さんは、家や家族を守るため、毎日必死で働いていた。自分が存在していると主張するために、人は「物」を守ろうと必死に生きるのかもしれない。



文学部・4 回生・山田恭子 [kino-doc:362]
 このドキュメンタリーを見て、以前テレビでブータンの事が紹介された時に、ブータンではGNPではなくGNH(Gross National Happiness)という指標を用いて国の開発を行っているのを思い出した。つまり国の豊かさを国民が日々どれだけ幸福だと思っているかで計るというものだ。経済成長ばかりを重んじる日本とは正反対だと思ったのを覚えている。
 ブータンのナムゲさんの8年前と今が紹介されていたが、今の暮らしに満足し、成功は求めないと言っていた8年前と、今までは闇の地獄だった、これからは子供のために成功したいと言っていた現在と、GNHで計ったらどうなるのだろう。
 ドキュメンタリーを見て、今が幸せだと言っていた人達は、電気機器はほとんど持たなくとも自給自足で生活している人か、もしくはモノに囲まれて贅沢な暮らしをしている人のどちらかであった。モノという視点で見ると、何も持たないか、もしくは自分の望むもの全てを持っているかのどちらかである。何も無い時はその状態が当然でありそれに満足するが、モノを持ち始めたら欲求がどんどんでてきて望むものが手に入らなければ満たされにくい。モンゴルのバトソリさん一家の例が如実に表している。
 GNH=どれだけのモノを持っているかになってしまっては結局GNPと変わらない。自分にとっての幸せとは何かを常に考えてそれを追求したいと思う。それは必ずしもモノではないはずだ。

「今の生活に満足しているか」→はい
「あなたにとって一番大切なものは何か」→健康
「あなたにとって成功とは何か」→「自分」の存在を認められる事
「あなたにとって幸せとは何か」→自分の可能性・希望を信じている状態



<私(木野)の選んだベスト2>

法学部・1回生 坂本俊輔 [kino-doc:337]
「あなたは今、幸せですか」→よく、判りません。下を見ても、上を見ても限が無いから。
「あなたが今一番欲しい物は何ですか」→わかりません。でも、これが1番大事だと言い切れるものが欲しいのかも知れません。
「あなたが、今一番大切だと思う物は何ですか」→わからない。でも、きっと自分だろう。自分が無ければ大切にも思えない。

 幸せというのは、物で量れるものではない。だから、家財道具を並べたところで、それは幸せの量を示しはしない。それらが示したのは、彼らの今おかれている状況に過ぎない。(彼の手法やアイディアそのものは非常に面白いと思うし、好きではあるのだが)
 幸せというものは、おそらく個人の認識で簡単に変わってしまうのだ。戦渦の中で至福を感じるということさえ、おそらく可能なのだ。貧しいから不幸。裕福だから幸せ。貧しくても幸せ。裕福でも不幸。独りだから不幸。家族だから幸せ。独りでも幸せ。家族だから不幸。結局それを決めるのも個人の認識なのである。
 勿論、これは極論だ。認識を変えるのはそう簡単ではない。だからこそ人は幸福になろうとする努力を行うのだろう。しかし、どこまで行けば幸せなのか。妥協というと言葉が悪いかもしれない。だが、望み過ぎないということは、ある意味で幸せへの最高の近道ではないだろうか。
 そして、少しだけ認識を変えてみる。幸せになろうとする努力は必要だ。しかし望み過ぎれば、最初に見ていた「幸せ」を「不幸」にして通り過ぎていってしまうだけなのではないだろうか。「不幸」にして通り過ぎてしまった「幸せ」は二度と幸せには戻らない。だから、僕達は、瞬間瞬間、自分に問いかけていかなければならないのではないだろうか。「あなたは今、幸せですか」と。


文学部・1回生 金城未希 [kino-doc:348]
 ドキュメンタリーに出てくる人々を見ていて、人間は精神的な安定と物質的な安定の両方を必要とするし、どちらかをより強く求めたからといって、その人の優劣が決まる訳ではないのだと強く感じた。抽象的な言い方になってしまったけれど、つまりは、一番大事な物が「家族」だろうが「豚」だろうが全然構わないし、その答えでどちらかの人が偉いということにはならない。そう思ったのだ。
 例えば、「あなたが一番欲しいものは何ですか」という問いかけに、今の私なら「才能」と答える。でもそれを聞いたのが私の友人で、しかも時期が私の誕生日前だったなら、「ピアス」と答えるかもしれない。私が死にそうなほど飢えていたら「食べ物」と答えるだろう。状況に応じてその人の求めるものは変化していくし、生きていくだけの物質の保証がなければ、どんなに精神的に満たされなくてもそれに気付く余裕すらないだろうと思う。ボスニアの女性が「戦時中、生きていくことが最大の希望だった」と語ったように。
 「あなたの一番欲しい物は何か」「一番大事な物は何か」「今の生活に満足しているか」と質問する事で、ピーターさんは「あなたにとっての幸せとは何か」を尋ねたかったのではないかと思う。物質的な豊かさが即ち幸せではないし、嬉しい時や楽しい時など精神的に満たされた時だけが幸せな時間ではないというのは、きっと皆が知っている事だ。それらを判った上で自分は何を求めるのか。そこに模範回答や優劣の基準などない。納得が行かなくても先が見えなくても、誰もが目の前に差し出された自分なりの現実に向き合って行くしかないのではないか。私はそんな気がする。




第8回(2003.11.27) ゲスト 増山ゆかりさん(サリドマイド被害者)

 1957年に旧西ドイツで睡眠薬として販売開始されたサリドマイド剤は翌年から日本でも睡眠薬さらに胃腸薬として販売された。サリドマイド児の被害は61年にレンツ博士によって発表され、ヨーロッパでは直ちに回収が始まったが、日本での回収開始は10ヶ月遅れたばかりか、回収がすみやかに行われなかったため、増山さんのように1963年生まれの人もいる。
 増山ゆかりさんは現在、サリドマイド被害者の福祉向上と薬害再発防止に関する事業を行う(財団法人)いしずえで常務理事をつとめ、各地でサリドマイドの被害実態と薬害根絶を訴える講演活動などで活躍しておられる。
 2001年3月16日に大阪HIV薬害訴訟原告団(代表・花井十伍)らによるMERS(ネットワーク医療と人権)がNPO法人設立を記念して行ったイベントの第2部「薬害被害者が医療を問う」というシンポジウムで話された増山さんの話はMERSのHPで読むことができる。


<参考文献>
全国薬害被害者連絡協議会編『薬害が消される!教科書に載らない6つの真実』さいろ社、2000年10月
トレント・ステファン/ロック・ブリンナー著、本間徳子訳『神と悪魔の薬サリドマイド』日経BP社、2001年12月


<当日資料>
2001.3.16、シンポジウム「薬害被害者が医療を問う」での増山さんの話
2003.10.5.MERSイベント「ご存知ですか?サリドマイドのこと」に参加して(J1・三藤由佳)


<受講生による内容要約>
# 増山さんは、自らを障害者として自覚し、こう語られた。
 「健常者の人々は、他の様々な障害者の障害をしっかりと、そして確実に認識し、本当のことを分かり合った上で、そこから新しい人間関係を作り出すべきだ。」
 増山さんは、自分をいかに受け入れ、社会とどう関係づくっていくかが大切だとおっしゃった。心から事実の大切さを語られていた。障害者は全世界の人口の約10分の1程度であるのにもかかわらず、道端で余り出会わないこと、そして、福祉本についての自らの見解とを例として例えてわかりやすく語られた。それは、増山さんが、「目に見える現象ではなく、そこにある本質を捉えてほしい。」と語られたことにも表れている。
 また、いかに現代社会がサリドマイド被害者にとって住みにくいか、資本主義が及ぼす、障害者達への弊害、それは労働問題、老後の課題を例に出して、自らの当事者的見地から親身に語っていただいた。
(法学部・1回生 厚地悟)


♪受講生が選んだベスト意見♪  法学部・1回生 厚地悟 [kino-doc:405]

 増山さんは、「僕らは、障害者の障害をしっかり認識して、それから新たな人間関係を作ることが大切だ。」とおっしゃった。
 この言葉は、増山さんのサリドマイド被害者としての自覚と、今まで生きてきたという誇りからの言葉だと感じた。しかし、この言葉を増山さんから聞いて、改めてこう思った。
 僕たちは、例えば、今週の音楽チャートの一位はなにか、とか、今どんな服が最も人気があり売れているのか、といった客観的な事実に対して、何の躊躇もなく受け入れられるが、障害を持った方々の障害という同じ客観的な事実には無意識的に受け入れを少なからず拒否していることを感じた。自分にとって受け入れにくい事実をすんなりと受け入れることが、人間にとってどれだけ難しいのか。身にしみて分かったように思う。
 一方、増山さんは、其れを自らのサリドマイド被害者としての自覚と誇りとともに僕らに伝えたかったのだと思う。
 また、増山さんは、いわゆる「福祉本」に関しても、僕にはとうてい着眼し得ないような観点から、違った見方を示してくださった。そして、現代日本がかかえる、社会と障害を持った方々の関係も当事者の見地から批判されていて、自分も自らが創り上げた概念にとらわれず、多角的視野を持たなければ、と感じた。
 最後に、テレビなどの映像ではなく、ゲストとして僕らの眼に前で語っていただくのは、身にしみ方がいつもの何倍も違うと感じた。


(次点)生活科学部・3回生 泉本暁子 [kino-doc:416]
 「障害を気にしない、目を向けないことが決して対等ではない。」とおっしゃった言葉がとても心に残った。「障害をもつ人ももたない人もみな同じ」という考えを幼少の頃から教えられてきた。もちろん、私は、障害をもつ人ももたない人も、それぞれが自分の人生を自分の意志で切り開いていく努力をしていること、また努力する権利があることは、同じであると思っている。けれど、障害や疾患を抱えていている人と自分との「違う部分」をあえて意識しようとしていない自分がいると気付かされた。
 外見ではまったく障害が表れていない友人が「自転車に乗ることができない」とぼそっと言った時、私は、「そんなの(自転車に乗れないこと)大丈夫だよ。」と言っていた。その言葉のあまりにも自分勝手なさに今思うと後悔している。友人の悩みを一緒に考えることができなかった、いやそうではなくて、友人と自分との違いを認める勇気がなかったからだ。
 「私とあなたは同じ」という言葉を言うのはとてもたやすくて、「私とあなたは違う」という事実を認めることは難しい。そのことは、友人の悩みに対する私の言動だけではなく、人に知られたくない弱い部分を一生懸命に隠している私の行為にも結びつく。増山さんは、人との違いを受け止めて、自分の人生を構築された。私も、自分のいい部分や悪い部分や、他人との違いをしっかりと見つめ、自分の人生を構築していかなければならないと思った。人との違いに優劣をつけるのではない。自分と他者との違いを自覚して、本当の自分に向き合う努力をしたいのである。



<私(木野)の選んだベスト3>

文学部・一回生 金城未希 [kino-doc:382]
 知らない事が多過ぎると気付かされた講演だった。例えばサリドマイドという薬について。私は以前、「サリドマイド復活は医学的にも有意義だ」と書いたけれど、サリドマイドのHIV等への特効成分こそが、サリドマイドのいわゆる有害成分であることさえ知らなかった。サリドマイドの有害成分を除けば即特効薬になるというのは余りに安易な発想だったし、そうやって利点ばかりに目を向けるのが薬害発生の一因であることは明白だ。知った気になる危険性を再認識しなければならないと思う。
 だが今回の講演は、サリドマイド復活の薬事的側面よりも、サリドマイド障害者、ひいては障害者全般の生き方に重点が置かれていた。当事者ぶるようで浅はかだとは思うが、やはり私は障害者として聞いていて楽しく刺激的だった。今までも障害者問題を学ぶ機会はあったが、非常に時間が限られていたうえ福祉の方向性に重点を置いていたため、増山さんが話してくださったような日常の小さなこと、例えば上肢の不自由な女性はどうやってお化粧をするか、といった話題の入る余地がなかった。しかし障害者も日常生活を行っている訳で、最も重要なのは日常をどう乗り切るかということだ。いちいち深刻ぶっていてはご飯を食べる暇もない、けれど考えずに済ます事もできない「健常者と障害者の違い」について、そして障害を「克服」して違いを無くすのではなく、そのまま共生しようとする姿勢について、学ぶ事は多かった。
 前々回のビデオに「自分より大変な人がいる、自分なんかマシな方だ」という発言があった。あの時はネガティブに思えた言葉だったが、今考えれば「頑張っている人は他にも沢山いて、自分はまだ頑張れるのに頑張らないのも馬鹿馬鹿しい」という意味にも取れるのではないかと思う。一度聞いた言葉でも、2週間で視点が変化したりする。19年生きただけの私はまだまだ物知らずの若造だなーと笑ってしまった。

法学部・1回生 坂本俊輔 [kino-doc:396]
 正直、今回はどう書けば良いのか良く分からない。
 最も考えさせられたのは、やはり「生きる」という事だろうか。
 授業前、教室の外で1間目の授業が終るのを待っている増山さんをみた時、違和感も嫌悪感もなかった。ただ、「そう」なのだな、と感じた。もう少し衝撃があるかと考えていただけに、逆に自分でも驚いた。画面で見たサリドマイダーの方々よりも、余程自然に受け止められたのだ。多分、それは増山さんが目の前で「生きて」いたからなのだろう。
 しかし、考えてみると、僕は同じ感覚を前に一度味わっているのだ。僕には一人、障害者の友人がいる。その彼もちゃんと生きていた。
 障害者に限らず、偏見や、差別といった、生き難い環境に生きている人ほど、逆にこちらが圧倒されるほどに生きている人が多い。でも、そうなるまでに通る道は、与えられた自分を「天職」だとして受け止めて、其処から精一杯に生きるようになるまでの道は、福祉本にかかれている程度のものではないのだろう。
 そして、本当はそうして受け止めて生きていける人も少ないのだろう。それは、電車の中を見回してみればわかる。何人の障害者の方が目に入るだろう。そして何故少ない人々しか外に出てこれていないのだろう。
 多くの福祉本が出版されている今でも、障害者の方々のビジビリティは低いままだ。(これは他のマイノリティの人々にも言える。実際の数に比して、異常にビジビリティが低いのだ)
 彼ら彼女らが外に出て、「生きて」行くためには、どうすればいいだろう。彼ら彼女らが生き難い世界というのは、きっと僕達にも生き難い世界なのだ。だから、僕達はそれを考えなければならない。それを考える事は、そして実行する事は、きっと僕達自身の「生きる」ヒントになるのではないだろうか。

文学部・1回生 西村友梨 [kino-doc:401]
 「障害者に明るさを求めるのはやめよう」という増山さんの言葉がとても印象的だった。今までドキュメンタリーを見て、感動もしたし、様様なことを考えつつも、どこかそれに違和感を抱いている自分を感じることがあった。今回の講演で聞いた増山さんの話は、前に見たサリドマイド被害者のドキュメンタリーでは、全く印象が違っていた。それはたぶん増山さんが、いわゆる暗い部分の話もして下さったからだと思う。ドキュメンタリーに登場する人達は皆前向きに、明るく生きている。その明るく強い部分が強調されていて、おそらく、今まで多くの苦労があったのだろう、と想像はしてみるものの、それはあくまで想像の域を出ない。
 それはある程度は仕方のないことかもしれない。福祉本であれば、読者を意識するし、ドキュメンタリーであれば視聴者を意識した作品になることは、当然だといえる。そして私達はやはり、そこにある種の「感動」求めてしまう。たくさんの苦労を乗り越えて、この人はこんなに明るく生きている。そこに私達は感動を覚え、励まされもする。それをすべて否定する気はないが、やはりそれはどこか論点がずれているのだと思う。増山さんを目の前にして、私が感じたのは感動ではなく、増山さんが確かにそこにいて、日々の生活を様様なことを考えながらおくっているのだ、という実感のようなものだった。私達にはそういった実感というものに出会う機会が少なすぎるのかもしれない。



第9回(2003.12.4)NHKスペシャル「誕生の風景」

 アメリカで行われている「凍結受精卵の養子縁組」、中絶が禁止されているフィリピンでの避妊への取り組み、核実験場の近隣に位置していて障害児が多いカザフスタンの村。三つの命の誕生の風景を追う。同じ誕生に、かくもさまざまな種類があるものかと。(NHK総合,2001.3.24,49分)

<参考図書>
生命操作を考える会編『生と死の先端医療―いのちが破壊される時代』解放出版社、1998年
生命操作事典編集委員会編『生命操作事典』緑風出版、1998年
ロジャー・ローゼンブラット(くぼたのぞみ訳)『中絶―生命をどう考えるか』晶文社、1996年
グループ・人権と性『ア・ブ・ナ・イ生殖革命』有斐閣、1989年
御輿久美子他『人クローン技術は許されるか』緑風出版、2001年
J.W.ゴフマン(伊藤昭好他訳)『人間と放射線―医療用X線から原発まで』社会思想社、1991年
原田正純『胎児からのメッセージ―水俣・ヒロシマ・ベトナムから』実教出版、1996年
今中哲二編『チェルノブイリ事故による放射能災害・国際共同研究報告書』技術と人間、1998年


<当日資料>
図:妊娠のしくみ(『人クローン技術は許されるか』より)
図:体外受精のしくみ(『生命操作事典』より)
斎藤朋子「現代の生殖医療」(『「人間と科学・演習」ゼミ論集(3)』1999より)
芦野由利子「産まない選択・いま世界では」(『ア・ブ・ナ・イ生殖革命』より)
原田正純「放射線と胎児」(『胎児からのメッセージ』より)


<受講生による内容要約>
 アメリカで行われている凍結受精卵の養子縁組。受精卵の凍結は元々不妊治療に利用されていたシステムだ。しかし使われなかったものは廃棄される。この受精卵をひとつの命と考える人々によってこの養子縁組は成立した。見知らぬ夫婦の下に生まれる我が子を思って複雑な気持ちになる夫婦。一方で念願の子供の誕生に幸せを噛みしめる夫婦。このシステムがいいのか悪いのか一概には言えない。
 フィリピンのある家族には第四子が誕生しようとしていた。子供を産むとお金がかかってしまうのだがこの国では中絶が禁止されている。この国の主流な避妊法は卵管を縛る不妊手術だ。しかしこれには術後二週間の安静が必要で妻は決心できなかった。二週間も夫の収入がないと生活は成り立たなくなるからだ。第四子が生まれても母親はどこか暗い表情だった。望まれない子供はいないと信じたいが現状は厳しいのかもしれない。
 カザフスタンのカイナール村。ここは核実験場に近い場所で、1000人に4人が先天性の障害を持つ。村は通常の600倍もの放射線を浴びていたが、そのことはソビエト崩壊まで村人に知らされなかった。脳に障害のある長男のために第二子出産を決意した女性。第二子に障害があるかどうかはわからない。それでも決意した出産は村中の祝福を受けた。産まない選択もできる中で、彼女は産む選択をした。子供たちの健やかな成長を祈るばかりである。
(文学部・1 回生 花咲千恵)


♪受講生が選んだベスト意見♪ 商学部・1回生 徳武未紗 [kino-doc:434]

 今回のビデオは出産にまつわる話でしたが、それで私の思い出したことは、いわゆる「できちゃった結婚」をした知人と、逆に中絶をした友人のことです。前者は男性で、妊娠が分かったときひどく絶望していました。彼の職業が医者だったこともあり、必要以上にどろどろしていましたが、結局結婚し、元気な男の子が生まれました。今の彼はあの時では想像もできないくらい子どもを溺愛し、とても幸せそうにしています。
 一方中絶をした友達は女性で、彼女は最後まで、産みたいという本能と産めないという現実の間で苦しんでいました。術後の彼女の「私は人間として最低なことをしたけど、母親として最低な選択をしたとは思わない」という言葉は印象的でした。
 私は中絶は、親として愛のある選択なら悪いことではないと思います。愛されない子供を産まざるをえないという状況の方が、よっぽど危険だとさえ感じます。尊厳死などを考えても、人の幸せを生死だけで境分けすることは、必ずしも正しいことではないはずです。
 ただ、私の知人のように、子どもが生まれてから状況が変わることもあったりと、意思表示のできない子どもの幸せを周りが考え決定することは、本当に難しいことだし、その善し悪しは分からないんだろうなと思いました。


(なお、今回は次点が4人同数でしたが、散票でしたので該当者なしとします。)


<私(木野)の選んだベスト3>
文学部・1回生 金納未来 [kino-doc:446]
 現在、産むだけ産んで虐待死させてしまったり、妊娠しても“命”を軽んじてすぐに中絶してしまうというケースが増えている。その一方で、不妊治療をしてもなかなか妊娠せず子供が欲しくても出来ないという人もいる。
 他人の受精卵を使っても産みたいと願う人だけでなく宗教上とはいえ中絶を禁止されて育てられる生活環境ではないのに産む人、たびたびの核実験により健常に産まれてくることすら難しいのにそれでも産み育てようとする人と様々な人々がそれぞれ思いを抱いて“命”を誕生させていた。
 私は“命”の大切さ、尊さがこのドキュメンタリーを見てより重いものになった。自分の身体の中で育て、産むという実感のある女性と違い男性は性交渉を済ませれば何の関わりもなくなる。アメリカの夫婦のようにたとえ他人の受精卵を使って産むという行為に及んでも、女性は産んでしまえばやはり自分の子供と言う実感を得るのだろう。しかし、男性はそのような実感が得にくい。私はこの男女の意識の違いが女性が妊娠、出産、子育てがしにくい環境を作っているのだと思う。自分たちが作り出そうとしているものは、自分たちと同じ“命”を持った人間という意識を努めて持てば、もっと住みやすい環境に出来ると思う。

法学部・1 回生 坂本俊輔 [kino-doc:448]
 生命は、常に望まれて生まれてくるのではない。それは、悲しいが現実だ。産んだ子を捨てていく親も、産む前に殺してしまう親も、現実にいる。ならば、子供を望んでいる夫婦に、子供を産めるようにするのは、良い事のように思える。なにかと話題になる「クローン人間」や「人工授精」といった技術や、それで生まれてくる生命には何の罪も問題もない。血の繋がりも、それ自体は意味などないのだ。養子を迎えた家族は幸せにはなれない。血の繋がりさえあれば幸せになれる。そんなことはない。
 技術だの、血の繋がりだのに、本来意味は無い。それに意味を付与するのは周りの人間ではないだろうか。家族の形もそうだ、正しい家族の形など無い、社会においてティピカルな家族の形こそが幸せだとでも言うのだろうか。血の繋がりの無い子供を産むのを否定する事は、養子を組んだ人々を否定する。障害があるかもしれない子供を産む事を否定すれば、それは障害を持った人々を否定する。
 そもそも、子供を産むという行為は、ある意味身勝手なものだ。なら、当事者である2人が幸せになろうとするためにそれを行なうなら、僕らにそれを否定する権利は無い。それを否定できるのは、生まれてきた子供達だけではないだろうか。もしも、彼らが不幸にならざるをえなかったなら、ということだが。

生活科学部・2回生 渡邊充佳 [kino-doc:464]
 遺伝子の壁を越え、最先端の科学技術によって生まれた子ども。中絶が許されない社会において、望まれるか否かに関わらず、生まれることを宿命づけられた子ども。核実験による放射能汚染のただ中に生まれた子ども。ある面から見れば、タブー視された子どもであるかもしれないし、望まれて生まれてきた子どもではないかもしれない。また、生まれながらにしてリスクを背負った子どもであるかもしれない。それぞれの子どもたちの背負っているものは、非常に重いと感じる。
 もちろん、これら自らの境遇、そして命をどのように意味づけ、幸せを感じるかどうかということは、子どもたち自身がこれからの人生の中で答えを見つけていくしかないのだろう。どんな生まれ方が幸せだとか不幸だとか言う権利は私にはない。しかし、忘れてはならないのは、この子どもたちの誕生の背景には、過去の教訓を全く振り返ることなく進む先端科学技術、とりわけバイオテクノロジーの「進歩」があり、性と生殖に関わることの責任を結果的にすべて女性に帰する社会構造があり、国家によって隠蔽・放置され続けてきた環境・人間破壊があるということだ。
 これらを問わずして「幸せはその子自身が決める」とのたまうのも、あまりに短絡的かつ身勝手であるように思えてならない。少なくとも、社会規範が現状のままであり、インフラが整備されないうちは、周りの人間のまなざし、子ども自身の置かれた社会環境などによって、これらの子どもたちが何らかの面で生きていく上での不利益を被るであろうことは確かなのだから。




第10回(2003.12.11)NHKスペシャル「巨大企業対NGO」

 ナイキは、ブッシュ大統領(パパのほう)の広報担当を20歳代の時に勤めたマリア・アイテルさんをスカウトしてきて、企業責任担当の副社長に任命(弁舌も雰囲気もさわやかな美人で、苦情処理にうってつけの人材)。また、途上国の工場と契約して生産委託しており、需要に合わせて委託量を調整している。工場の労働者の人権を守るためのNGOをナイキが出資して作り、人権侵害がないか監視してもらっている。インドネシアの工場の一つと契約を打ち切ったことで、労働者7000人が失業し、ナイキの社会的責任を問う声も上がっている。社会的責任を果たしている会社にだけ投資するファンドも近年その存在感を増しており、ナイキの動向に注意を向けている。とまぁ、論点をいっぱい提供してくれる番組でした。議論百出でしょう。(NHK総合,2003.5.4,50分)

<番組に出てくるナイキおよびNGOの参考HP>
*ナイキの企業責任に関する取り組み、及び会社に関する情報などは、http://www.nike.com/nikebiz/  日本語はhttp://www.nike.jp/nikebiz/
*ナイキが設立したNGO:グローバルアライアンス(Global Alliance for Workkers and Communities)の詳しい活動内容や、ナイキの工場の実態調査報告書などは、http://www.theglobalalliance.org/
*「社会的責任投資」を行っている機関投資家をひとつにまとめて活動しているNGO:企業責任宗派連合センター(Interfaith Center on Corporate Responsibility) は、http://www.iccr.org/
*1991年に設立されたアメリカでも老舗の社会的責任投資ファンド(運用資産13億ドル)のドミニ・ソーシャル・エクイティ・ファンド(Domini Social Equity Fund)は、http://www.domini.com/


<当日資料>
番組紹介:NHKスペシャルのホームページから

<受講生による内容要約>
# おそらく誰もが知っているであろう世界の巨大企業の一つであるナイキ社。しかし、ナイキ社は途上国にある契約工場の労働者の扱いについて世界中から批難を受けました。労働者に対する不当な対応が発覚し、ナイキ社はNGOから抗議を受けるが、契約工場側の問題であるとして非を認めなかったため批難が拡大、結果世界中でナイキ製品のボイコット運動にまで発展しました。
 そこでナイキは社外から招いたマリア・アイテル副社長の解決策により、ナイキ社は自ら謝罪し、NGOを設立しました。結果的に評価は徐々に回復しました。ところが今度はナイキ製品を取り扱っているインドネシアの工場への発注を打ち切るとの判断を下し、再び批難されることになったのです。NGOを中心に再び猛烈な抗議運動が起こりますが、労働者へのフォローを条件として結局契約は打ち切られ、工場は閉鎖されてしまいました。
 ところで今アメリカでは「社会的責任投資」というNGOが投資家を集め株主提案という形で企業を変えていこうという動きがあります。一定の基準をもとに400社を選び「社会的責任投資ファンド」として認定しているあるNGOは、その件でナイキをリストから外しました。その後見直しが行われましたが、まだリストには入れないとの判断を下しました。
(工学部・1 回生 長田 実)


♪受講生が選んだベスト意見♪ 学外・林 久子 [kino-doc:511]

 視聴後は、利益を上げながら社会的責任を果たすというナイキの企業活動は、反対の方向に向かうもののバランスがうまく取れる点を探す行為に見えた。
 ナイキは工場を持たず、安いコストの契約工場を転々とし、より安い製品を作るというシステムで生産しているので、安い工賃でなくなれば、当然契約は打ち切られる。このシステムの中でのナイキと工場の関係は一時的なものであり、共にいい製品を作っていくという視点はない。一時的に工場は存在するが、工場が去った後に幾らかの対応が為されようが、そこで終わりなのである。言わば工場までが使い捨てなのだ。
 グローバルアライアンスというNGOを設立し、社会的責任を果たそうとしている様に見えるが工場からの製品に対する意見を期待しないナイキ本社の姿勢では、工場の労働者を人材とは見ていない。それでは快適な労働環境は期待できないように思われる。
 モノはそうそう安くは作れるものではない。利益と社会的責任のバランス・ポイントを探すのではなく、社会的責任を果たした上で、利益を考えるのが本来の姿なのではないか。社会的責任を果たした為に製品が高くなっても、それは当然価格に含まれるものである。
 今や消費者は製品そのものの良さの他に、どのように作られたものであるのかを見るようになってきた。嬬恋の減農薬キャベツの商品価値もそこに置かれている。先日、購買活動を選挙に喩えた文章を目にした。製品を買うということはその企業に投票するということで、その投票は日々行われていると言うのだ。消費者の日々の選択が企業の方向も決め得る。安さの陰にある発展途上国の労働問題、将来への視点のない工場進出などに目を向け、安さに価値を置く消費活動を改める時期に来ていると思う。


(次点1)文学部・1回生 金納未来 [kino-doc:497]
 対NGOという題だったので最後まで相反しているものだと思っていたがそれは間違いだった。企業のほうからNGOに歩み寄り、自らNGOを作るという手段をとっていた。
 マリア・アイテルさんの起用によってナイキは社会的責任を果たそうとしている。一方でナイキの人権侵害に抵抗して不買運動が展開されている。私は消費者が製品を買うことを拒否することで余計に彼ら途上国の工場労働者の賃金が安くなったり、もしかしたらもっとたくさんの工場が閉鎖されて失業者で溢れるかもしれないと思えて仕方なかった。やはり、消費者がいなければ供給過剰にならざるを得ず、その結果、事業を縮小することになるのではないか。
 巨大企業が全ての責任を背負うのは間違っているのではとさえ思った。企業を大きくするのは我々消費者である。企業が大きくなることで生じる弊害・・環境、人権侵害、社会的責任・・を不買という行動に移すことでさらなる悪循環につながると思えてならなかった。だからこそ大きくなればなるほど比例して大きくなっていく企業責任を、我々消費者も果たしていかなければならないと思った。


(次点2)生活科学部・2回生 渡邊充佳 [kino-doc:509]
 「NIKE、うまいことやるなあ」というのが、真っ先に思い浮かんだ感想だ。労働者の不満、世論からの反発をうまく制御可能な程度に沈め、抑え込むその戦略にはいたく感服する。株主総会の運営方法には、「企業経営に都合の悪いNGOの意見は封じ込めたい」という思惑が見え隠れする。工場閉鎖後の労働者への対応についても、無批判的に受け入れるわけにはいかない。今回こそ労働者とその家族には優先採用、教育資金の負担、家賃の支給などの配慮がなされたが、そのような配慮がどの程度なされるかは、その時々の経営状況に大きく左右されるものであり、現在よりも状況が悪化した場合にも同様の処遇がなされるとはいえない。その時々に応じて「十分ではないけれど、まあこの経営状況では、よくやっている方だな」と大衆に認知されうるレベルを維持し続けることさえできれば、支援の十分・不十分に関わらず、企業経営には最も都合のいい「社会貢献」となるのである。そこには必ず限界と不平等性が付きまとう。
 一方、NGOや、(ここでは取り上げられていなかったが)NPOのような市民運動の流れをくむ団体の活動についても、それほど楽観視はできない。活動を精力的に行うためには資金が必要(ここに根本矛盾がある)だが、多くの場合その資金を潤沢に提供しているのは、他でもない大企業なのである。自前で資金調達ができる経営力に優れた団体を除けば、企業から多くの支援を受けている場合、いざという時に「首根っこをつかまれたようになって」自由がきかなくなる事態は容易に想定できる。ましてやNIKEの企業内NGOのような組織では言わずもがなである。
 さて、ここで翻って、日本の現状はどうか。企業の社会貢献を積極的に評価する仕組みが整わず、NPO・NGOも海外と違い企業からの資金提供もあまり期待できないばかりか、会員も集まりにくく、設立したはいいものの2〜3年で解体するケースが後を絶たない。企業内労働組合の組織率も20〜30%、社員全員が加入している松下の場合も、それは組合活動が将来の出世とリンクしているという実態を映し出しているに過ぎない。
 巨大企業、ひいては近代資本主義社会という「営利拡大追求システム」の暴走に対して、私たちはいかなる抵抗策を持ちうるのか。安易に海外製の安売り商品に飛びつく「グローバリズム万歳、植民地支配万歳、世界の不平等万歳」と言うに等しい行為も含め、真剣に己を見つめ直す時期がきているように思われる。



<私(木野)の選んだベスト3>
生活科学部・1 回生 谷口真依子 [kino-doc:489]
 いわゆる先進国の私達は、教育も満足に受けることが出来、日本ではある程度の学力さえあれば、最高学府である大学に入ることも割と容易である。しかしながら、発展途上国と呼ばれる国々では、初等教育でさえ満足に受けられないどころか、日々の生活にさえ苦しまねばならない。
 結果として、双方の間には能力の差が生じる。片や企業の管理職、片やその元で働く下請け工場の労働者。学問をしたという努力は大概報われるのに、生きるために働いた努力はあまり報われない。同じ地球上に暮らしていながら、生まれてきた国によって上下の差が出来てしまう。この差をまざまざと見せ付けたのが多国籍企業で、この格差を無くそうと立ちあがったのがNGOだと言えるかもしれない。
 私達もこの格差を拡大するのに一役買っている所があるだろう。むやみに安い商品が、実は途上国の人の身を削るような薄給によって作られていることを意識している消費者が、私も含めて果たしてどのくらいいるのだろうか?これを無くそうとしているのがフェアトレードという試みである。ドキュメンタリーに出てきた企業責任宗派連合の活動も、ある意味でフェアトレードといえるだろう。
 私達一人一人が、NGOに参加するとまで行かなくとも、企業の動きに常に気を付けて行かなければならないと痛感した。まだまだまだ勉強不足である。


理学部・1 回生 藤原慈子 [kino-doc:492]
 一体どこまでが企業の責任として追求されるんだろう。契約工場の労働条件の改善や、ドソン社の失業者に対する手当ては、企業としてやるべきことだと私は思う。しかし、あの内容で失業者が納得するかといえばそうではないだろうし、寄付や社会的責任の要求はどこまでいっても無くなることは無い気がする。私達からすれば、大企業はあんなに儲けてるんだから・・・という気があるからである。
 しかし、大企業からすれば、競争が激しい世界な上に多くの人間が関わっているので、普通に経営していくだけでも大変である。そんな中で社会からの要求に応え、様々な問題と「共生」していくのはかなり難しいことのようだった。それでも、大企業のように、力を持ち、世間からも注目されている存在が寄付したり、環境問題に取り組めば、その効果は期待できるだろう。
 だから私も出来る限りやっていって欲しいと思う。しかし実を言うと、今の私はただそのような大きな力に期待しているだけである。自分も社会の一員としてこんなことをしている、考えている、だから企業も社会的責任を果たして欲しい、と言えるようにしたいものだ。


文学部・1回生 金城未希 [kino-doc:519]
 「ナイキは企業として責任を認め、積極的に問題の解決に取り組まねばならない」としたアイテル副社長の決断には共感できる。労働者の最低賃金を保証し、健康相談所を設け、教育施設まで提供した行動力も素晴らしいと思う。だが一方で、その《企業努力》は、労働者の人権保証のためというよりも消費者へのイメージアップ戦略のように思えてしまう。例えばドソン社との契約打ち切り。ナイキは残される労働者に何らかの救済措置を行うと約束し、いくつかの項目を提示したが、一つとして労働者の収入に直結するものはなかった。身も蓋もない言い方だが、いくら健康相談所と教育施設が利用できても、収入がなければ暮らしていけないのだから意味がない。そんなものを利用する余裕などなくなってしまうのではないか。余力で対策を施しているという印象が否めない。
 ではNGOの主張通り、ナイキは従来の契約工場を使った商品生産を控えるべきかといえば、私はそれにも賛成し切れない。ナイキはあくまで利益を追求する企業なのだから、より安いコスト、より良いデザインを追求するのは当然のことだとも言える。アイテル副社長の発言にもあったと思うが、ナイキは何万人もの社員を抱える巨大企業であり、もしナイキが倒産すれば彼ら全員が路頭に迷うのだ。
 何万人の(比較的裕福な)正社員たちと、数千人の(食うや食わずの生活をしている)契約社員たち。巨大企業の思惑と、末端の労働者達の人権。私は、今回のドキュメンタリーの根底にあるのは、いわゆる「マジョリティとマイノリティ」問題のような気がする。結局は双方が歩み寄って妥協点を見つけるしかないのだろうが、それがどこかは思いつけない。色々と迷いの残るドキュメンタリーだった。



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