「ドキュメンタリー・環境と生命」2003年度受講生の記録

 ここには、記念すべき第1回から第5回までを掲載しています(2004年12月13日)
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# 初講で鑑賞した「こども輝けいのち第三回 涙と笑いのハッピークラス〜4年1組 いのちの授業」が、
 第30回日本賞(教育番組のコンテスト。約200カ国が参加)で、グランプリに輝きました(祝・受賞!)。
 また、内容を加筆したものが『4年1組 いのちの授業』という名前で出版されています。

【第2期開講ご挨拶】

 昨年度は新規開講でどうなることかと案じていたわりに、受講登録時で85人、最後まで完走した人が75人もいてMLを読むのが大変でしたが、TVドキュメンタリーを教材にMLでお互いの意見を知るという新しい授業の試みは、受講生から予想以上に高い評価を受けました。

 今年は「毎回出席し、MLに意見を投稿しなければならない」という去年の授業の様子が伝わっているからだと思いますが、様子を見に来たと思われる人はほとんどなく、初めからこの授業を取るぞという意気込みが伝わってくる人がほとんどでした。

 結局、MLに登録した人は61人になりました。昨年よりすこし少なくなったとはいえ、MLはやはり膨大で読むだけでも大変です。昨年は授業の翌朝7時までを投稿期限としていましたが、調べたり考えたりする時間がないとの意見がありましたので、今年は月曜朝7時まで余裕をもたせました。

 昨年ともう一つ違うところは、教室が新しい教室に変わり、映像がぐんと観やすくなったことと、椅子が机に固定されていないのでラウンド型に向かい合ってディスカッションできることです。昨年はディスカッションの満足度だけが今いちでしたので、今年は解説講義もなくし、ディスカッションを活発にするよう心がけたいと思います。

 このHPでは、授業で上映したドキュメンタリーの紹介(毎回5人に要約の担当を指名し、その中から私が選んだもの)と、ドキュメンタリーを観てMLに投稿された意見の中からみんなが投票で選んだベスト1と次点、および私が選んだベストいくつかを掲載します。

 なお、授業のボランティアT.A.およびこのHPの運営をしてくれているのは本学大学院(経済学研究科)を出られた山中由紀さんで、また、MLの管理をしてくれているのは私の別の授業「公害と科学」一期生の卒業生です。二人のお世話に感謝します。

 受講生の皆さんはこのHPを受講の記録として保存してくれればうれしいです。受講生以外で、このHPをお読みいただいた方は、ご感想やご意見を<私>までお寄せいただければ幸いです。



第1回(2003.10.2)「こども輝けいのち第3回 涙と笑いのハッピークラス〜4年1組 命の授業」

 金沢市立南小立野小学校4年1組と担任の金森俊朗さん(57歳)。心をつなげて、命を学ぶ金森先生の学級運営に御注目!
  「つながり合うとは、自分を理解してもらうこと。そして、友達を理解しようとすること」「ヒトのことばかり言うな。ええカッコするな」あたりが印象に残った先生の台詞。私は先生には恵まれてきたほうだが、それでもここまで全力投球で生徒に向き合う先生は珍しいと思う。
 自分の周囲の人達に、私はこんなに全力投球で向き合っているだろうかと考えさせられた。金森先生はお子さん2人を亡くしたらしいから、余計に一生懸命なのかも。そういえば、お連れ合いはどんな人なのだろう。
(NHK総合,03.5.11,50分)
→ その後、『4年1組 いのちの授業』という名前で出版されています。また、第30回日本賞(教育番組のコンテスト。約200カ国が参加)で、グランプリに輝きました(祝・受賞!)。

<テーマ曲>
「海へ来なさい」(歌:井上陽水、作詞:井上陽水、作曲:星勝) ☆アルバム「Blue Selection」(FLCF3939)収録

<金森さんの著書>
『性の授業 死の授業〜輝く命との出会いが子どもを変えた』(教育史料出版会・1500円)
『太陽の学校』(教育史料出版会・1400円)
『町にとびだせ探偵団〜おコメと水をさぐる』(ゆい書房・1400円)


<当日資料>
上記の番組紹介以外、特になし。

<受講生による内容要約>
このドキュメンタリーは金沢市のある小学校のクラスの生徒と先生の心の成長を追ったものである。
 小学校4年生という心の成長の真っ只中にいる子供たちに57歳のベテラン先生が向き合い、ともに悩み考えていく。身近な人の「死」、クラスの中のいじめ、クラスメイトの問題行動…、ひとつのクラスで一年間に様々な出来事が起こる。そしてその度に先生の言葉によって子供たちは、自分で「自分の考え」を持つということを意識しはじめる。
 もちろん生徒達の成長は明らかなのだが、57歳の先生も子供たちの素直な心に触れて成長していく。一緒に成長する、このことが彼らの過ごした1年の根底にあった。
 今世間では教師の不祥事、学級崩壊など小学校における多くの問題が浮き彫りになっている。そんな中こんなにも正直に心打たれるクラスがあった。先生が生徒達に向き合っていったことで、生徒たちは自分の心に向き合っていく、その姿が生き生きと映し出されていた一本である。

(商学部・1回生 出井千佳子)



♪受講生が選んだベスト意見♪ 法学部・1回生・三藤由佳[kino-doc:34]

 この番組を見て一番感じたことは金森先生と子供たちが対等な立場であるなということでした。何か問題が起こったときに、先生は子供たちの意見に耳を傾け、彼らの言い分が正しければ自分の考えを改め子供たちの意見を取り入れています。このようなことは簡単にできるようでなかなかできないことのような気がします。
 事実、私には小学4年生になる妹がいますが、なまじっか幼いころから知っているために年齢が上がってもいつまでも幼いような気がして、妹が私に意見しても適当にあしらってしまっていたし、またあしらってしまえるがために十分に話を聞いてあげられてなかったことが多々あったような気がします。だから、小学4年生って私たちから見ると幼いように見えて案外しっかりした考えを持っているし意見をいうことができるんだなと新鮮な驚きがありました。
 子供たちがいろんなことを考え、その考えを相手に伝えるという作業は、日ごろからやっていないとなかなかできないことだと思います。特に自分の考えをうまく相手に伝えるという作業は彼らの倍生きている私でも難しいと感じます。この4年1組では、自分の意見、考えを言う場が比較的多くとられているような気がします。そういう場が多くあるからこそ、相手の気持ちを考えられるという、人とつながりあう上で大切なものがたくさん育まれているのだろうと思います。
 私が小学4年生のころを振り返ってもこれほど喜怒哀楽を表に出していただろうかと思うほど、子供たちの表情は豊かでした。少年犯罪が社会問題にされている中で、相手の気持ちを汲み取れて、自分の気持ちを相手に伝えることができるということがなかなかできない子供たちが増えているように感じます。この番組を通して、人と生きるうえで大切なことを改めて学んだ気がします。


(次点)学外 林久子[kino-doc:39]
 見終わった後、感動もしたが違和感が残った。この違和感は何だろうと考えた時、クラスに流れる感情が濃すぎることに気付いた。この濃さは家庭の濃さだと思い至った。泣いたり、笑ったり、羽目を外したり、そして抱きしめられたり。家庭の教育力が落ちてきていることは事実だが、肉親の死にまで公教育が立ち入っていいものだろうか。
 10歳の子供が「ハッピーになる為に生まれてきた」と言い切る。「ハッピー」を自分の国の言葉で言ったとしたら、日常的に軽く口にすべき言葉ではないことに気付くだろう。「なぜ生まれてきたのか」の答えは先生に与えられるものではないし、それを自分の心の内で問いながら成長するもので、先生や周りの大人たちはその手助けをしてやるものだと思う。
 総合学習の導入で結果的に「感動」を生む授業という価値観が、より重視されるようになった。また、「心ノート」で個人の心の中まで指導しようという意図も見える。それをより良く指導できるのが金森先生のような熱心な先生であることが問題を見えにくくしている。
 教育の現場とは、感情(心)に由来する「感動」とは別の「感動」を生み出すところだと思う。


<私(木野)の選んだベスト2>

文学部3回生 西岡晋平[kino-doc:28]
 一番印象に残ったのは、「命に約束はない」という金森先生の言葉です。
 僕は、小学校・中学校の頃は学校の楽しさが分からず、先生や親に言われるままに、「将来のために、とりあえず勉強しておこう」というスタンスで学校に通っていました。でも、いつまでたってもその「将来」はやって来ないし、また、昔の思い出がほとんどない今の自分にショックを受けています。
 僕は、「命に約束はない」という言葉から、「将来はもちろん大切だが、今現在も精一杯生きろ」という金森先生のメッセージを感じました。小学生の頃の僕は、いつ来るかわからない将来のために、今を生きることを犠牲にしてしまっていたような気がします。
 ところで、その当時僕はいじめの対象となっていたので、自分がいじめられるのを恐れるあまり、いじめに加担してしまった女の子の独白には共感したし、また彼女の勇気に感動しました。また、いじめの問題にあれだけ本気でぶつかってくれる金森先生にも感動しました。あんな先生に会いたかった。

生活科学部・2回生 渡邊充佳[kino-doc:4]
 「学校に来るのは、みんなハッピーになるため」のっけからこの言葉に衝撃を受けた。そのような言葉が先生の口から語られたことと同時に、子どもたち自身もその言葉を笑顔で受け取っていることに。
 私は、とある地区で、学習支援の講師をしている。ここにやってくる子のほとんどは、学校への不信感、大人への不信感を強く持っている。その地域の中学校は今年とくにひどい状況で、学級崩壊寸前のところまできているようだ。
 「なんで勉強なんかせなあかんねん」という子どもたちからの問いかけに、私は「将来の選択肢を増やすため」「へこたれない大人になるための訓練」としか、答えられていない。決して間違った回答ではないと思っている。しかし、「命に約束はない」のである。手本となれる大人が少なく、将来に夢や希望を見出せず「今」の享楽に走ろうとする子どもたちに、私の言葉がどれほど届くのか……。
 金森先生の実践は、個人の努力だけでなく、その努力をサポートする職場の雰囲気、周りの人がいてこそ、可能なのかもしれない。しかしそうであっても、私自身、金森先生のように子どもたちの手本になれるような大人にはほど遠い。人のことばっかり言うし、どこかで見栄をはりたがっている。他人に理解して欲しいということがまず先に出てしまう。何度真摯に向き合おうとしても、いつしかその志を置き忘れてきている。他者とまだまだつながり合えていない自分。今胸にあるこの思いもまた、忘れていってしまうのだろうか。




第2回(2003.10.9)家族の歳月・21世紀へのメッセージ「もやいの海〜水俣・杉本家の40年」

 杉本栄子さんは網元(猟師の親分)の跡取りだが、母親の発病を機に集落で一家丸ごと村八分にあう。夫の雄(たけし)さんはそれを承知で婿養子に来た。水俣病第一次訴訟の原告。今でこそ孫達と遊んでいるが、栄子さんは息子達を抱っこしたことがない。水俣病で長らく寝たきりだったからだ。つまり、産むことは可能だったわけだから、母体とはたくましいものである。(NHK・BS1,00.8.10,60分)

<参考文献>
 石牟礼道子『苦海浄土―わが水俣病』講談社文庫、1972年(初版は1969年、講談社)
 栗原 彬編『証言 水俣病』岩波新書、2000年
 緒方正人・辻 信一『常世の舟を漕ぎて−水俣病私史』世織書房、1996年
 木野 茂・山中由紀『新・水俣まんだら―チッソ水俣病関西訴訟の患者たち』緑風出版、2001年、専用HPあり。
 木野 茂編『新版 環境と人間―公害に学ぶ』東京教学社、2002年


<当日資料>
番組紹介、「水俣よ、わが力−惨禍に負けず、今語る」(2001.1.1.朝日新聞)、水俣病関連年表(作成:木野茂)

<受講生による内容要約>
水俣病のために家族の関係が揺らいでいくということが、杉本栄子さんを中心に描かれている。四大公害の一つである水俣病。この話では家族という小さな集団にスポットを当てているために、公害の話でよくあるような国と被害者、企業と被害者といった話題はあまり中心となっていない。
 栄子さんの母が初めに水俣病にかかり、そこから悲劇が始まる。栄子さんも水俣病にかかる。村からは軽蔑され、食料さえもままならない状態に追い込まれたりもする。子供を5人生むが、水俣病の為、母乳もあげられなければ、抱くことすらできない。
 大きくなった息子たちはそれぞれ漁業を見捨てて、企業に就職していく。それでも栄子さんは家族のもやいを再びつなぐために漁業を捨てようとはしない。そんな母の気持ちを察したかのように、水俣の海を忘れきれない息子が漁業を継ぐ為に戻ってくる。
 水俣病を通じて一度は離れた家族の絆は、いまとなっては以前よりもしっかりとつながれた家族のもやいとなって表れている。
(工学部・1回生 大来 淳)



♪受講生が選んだベスト意見♪  法学部・2回生・馬越涼子[kino-doc:75]

 申し訳ない気持ちでいっぱいになった。「水俣病」と聞けば「イタイイタイ病」や「四日市ぜんそく」がセットで思い浮かび、「高度経済成長下、当時の日本では公害問題が急浮上した」と受験用の文言しか答えることができない。何より、私は公害病をどこかで遠い過去のものであって、平安時代の飢饉等と同じで、すでに解決し、自分にはおよそ関係のないもののように感じていた。今なおその病状に苦しむ人の存在をリアルにとらえられていなかったのだ。
 本旨とは幾分ズレるかもしらないが、O−157をご存知だろうか。かつて日本中で話題になった食中毒の病原菌である。私の住む堺市は、O−157によって多くの犠牲者を出した。感染源が学校の給食などであったことから、犠牲者が幼少年者に集中したことも特筆すべき悲劇であったように思う。当時、報道によって堺市の名は全国に知れ渡り、堺市民というだけで、他府県の宿泊施設に泊めてもらえず、友人の親からは連絡を取らないように言われた。堺市の市外局番を通知しただけで、着信拒否になる旅行関係の会社もあったそうだ。自分は幸い感染せず、周囲に発病者もいなかったが、感染者を目の当たりにした当時の小学生に、今でもトラウマを負う人は多いらしい。「意外と子供達の中でイジメはなかったんですよ」と肇さんは語ってくれたが、当時の堺市には確かにイジメがあった。
 四大公害病や、多くの食中毒事件などを経て、私たちは一体何を学べたのだろう。教科書や映像で見れば分かる水俣病の「問題」は、何故堺市で繰り返されたのだろう。改めて考えさせられた。雄さんが語ってくれた「水俣病を経験したからわかることがある」、この言葉の重みを噛み締めたい


(次点)生活科学部・2回生 渡邊充佳[kino-doc:94]
 印象的なシーンは多々あった。しかし、私はこれらに感動する一方で、同時に受け入れられない違和感を感じたのも事実である。
 「いじめられても、いじめるな」という信念は、一見至高の価値を持つもののように思える。しかしこの価値をすべての問題に対して一般化することは、逆の危うさも秘めているのではないか。もしこの理念が一人歩きし、拡張されれば、その先にあるのは、差別され、抑圧されている人間が反抗も異議申し立てもできず、ひたすら耐えることを強要される状況ではないかと考えるのは、思考が飛躍しすぎているであろうか。
 また、杉本さんの「いじめる側にならなくてよかった」という言葉も、水俣病の枠内で考えれば妥当性を持つが、他の問題との関連を考えればどうであろうか。例えば多くの公害被害者の運動で掲げられてきた「生まれてくる子はこんな障害を持ちます」「もとの身体に戻せ」などのスローガンに対して、障害者団体から「それこそ障害者差別と違うか」という問いを発せられたことがある。自らの権利主張が、ある特定の立場の人々を傷つけ、踏みつけにすることにつながりかねない構図は、往々にして起こりうるのである。差別は、無自覚な日常性の中にこそ潜んでいることに、私たちももっと目を向けなければならないのではないか。
 家族のあり方についても、「遠くに嫁に行かないように」という町の風習や、「親の思いを受け止め、故郷に戻って親の跡を継ぎ、水俣病と向き合う子供たち」という構図が、家族の「あるべき姿」として押し付け気味に提示されているような気がしてならなかった。
 どんなに美しい理念や価値であっても、それを無批判的に絶対のものとする時、思わぬ落とし穴が潜んでいると、私は考えずにはいられない。



<私(木野)の選んだベスト4>

文学部・1回生 金城未希[kino-doc:82]
 ビデオの冒頭と終盤に、杉本夫妻が8ミリ映画を上映し、見ていた栄子さんが「この人達は皆死んでるよ…あぁ、切ない」と呟く場面がある。終盤にこの場面をもう一度見た時、私はこのドキュメンタリーが単に杉本家の人々の怒りや葛藤を描いたものではないとようやく気付いた。私はビデオを見ている最中、杉本家の方々を中心とした人々の葛藤に気を取られ憤っていたけれど、それらの契機となったのは水俣病なのだ。この前提を忘れてはならない。
 例えば近隣の人々の杉本家に対する差別だが、大きな要因として水俣病に対する知識の欠落が挙げられる。当時の人々は地元企業の排出する有機水銀が水俣病の原因である事どころか、水俣病が伝染病でないという事実さえ知らなかった。だからといって差別が許される訳ではないが、私が同じ立場だったとしても、杉本一家を敬遠しただろうと思う。事実、杉本夫妻が勝訴した後には、近隣の人々の態度は軟化している。極論すれば、この差別もまた、水俣病が深刻化するままに保身に走り続けた企業と、曖昧な対処しかしなかった行政に責任があるとも言える。
 杉本夫妻は差別に対して寛容な態度を保ち続けた。これは杉本夫妻が水俣病問題の根本をこそ見つめておられたから出来たことだと思う。杉本夫妻の姿に感動するだけはなく、問題を引き起こした原因は何か、この事例から学んだ事を将来にどう生かせるのかを自分の頭で考えるべきだと思う。そのとき初めて、栄子さんの「あぁ、切ない」という言葉に込められた思いを感じられるのではないだろうか。

経済学部・4回生 山下慎介[kino-doc:108]
 「過去の日本高度経済成長による公害」 これが私がこのビデオを見るまで水俣病に抱いていた認識である。
 しかし、ビデオを見ることにより、水俣病をまだ現在進行形で続いているものであると知った。また、このビデオを見ることにより、人間が自らの信念を貫き通すことの難しさと素晴らしさ、人間の醜さと美しさを学んだような気がする。
 私は栄子さんを心の底から尊敬した。私は小・中学生のときアトピー性皮膚炎で悩まされていた。水俣病と比較すると本当に軽い病気であったにもかかわらず、周りによる、差別・同情の目に耐えられなかった。自分にとってマイナスになることは全てといっていいほどアトピーのせいにしていたような気がする。
 私は栄子さんのような強い人間になりたい。今の私は栄子さんのように、重い病気との闘いに甘えることなく、子供を産み・好きな仕事をして暮らすという「普通の幸せ」を追求し、そして国や企業と闘うことができるであろうか? ビデオを見る前の私であれば、きっと出来ないと答えたであろう。しかし、実際にそれを実現している栄子さんの姿を見ることで、少しでも頑張ってみようという気になれた。私はこのビデオを小・中学生の頃に見たかった。また、現在様々な病気と闘っている人にこのビデオを見せてあげたい。このように病気に甘えることなく、様々なことに頑張っている人がいるという姿を見せてあげたい。

生活科学部・1回生 谷口真依子[kino-doc:101]
 上手く言い表せないけど、このドキュメンタリーを自分の中に取り込む事が出来ない。何故だろう、どこか別世界のお話に思えてしまう。
 栄子さんの忍耐力、雄さんの包容力、一度は離れることを決めた子ども達に、再び海へ帰る気にさせた家族の絆…そのどれもが凄い、とは思うけれど、想像力が乏しいせいか、自分がもしあの立場に立ったらということをいまいち考えられない。もし私が栄子さんの立場なら、いじめられっぱなしのあの状態にとてもじゃないけど耐えられないし、人間不信になってしまうだろう。また雄さんのように、差別されている側に自らが入っていく勇気も持ち合わせていない。そしてもし私が水俣病の患者ではない村人だったなら、あからさまに危害を加えないまでも、避けたりしてしまうと思う。
 原因が分からない時は伝染病かもしれないと隔離され、原因と犯人が分かったから訴訟を起こすと周りから非難される…そんな中でも、「いじめるよりいじめられる方がすっきり死ねる」と思うことが果たして出来るだろうか? きっと、無理に違いない。
 ここでふと気が付く。あの時謂れの無い差別が罷り通ってしまったのは、私のような相手を思いやる想像力に欠ける人間があまりに多かったからではないかと。歴史は繰り返すと言うけれど、これではいつまでたっても良い世の中にはならない。40年間痛みをおして闘い続けた栄子さんの努力を無駄にしないためにも、私自身もう少し相手のことを考えられるようにならなければいけないし、そういう人が増えるようにしなければ、と思った。

法学部・1回生 三藤由佳[kino-doc:104]
 「たくましい」 私が今回のドキュメンタリーを見て最初に思ったことである。これまで何回か水俣病に関する番組を見てきたが、ほとんどが水俣病全体の歩みを伝えるもので、ここまで一つの家族に絞って作られた番組は私が見た中では初めてのような気がする。
 現在でさえ、さまざまなところに差別と偏見が巣食っている。ましてや、40年前熊本の片田舎の集落で村八分にあうということが、どんなにつらく苦しいものだったかというのは、私たちは想像はできるけれども実際に受けてみなければきっとわからないことだろうと思う。寝たきりの生活で5人の子供をもうけ、現在まで水俣を去ることなく漁を続けている杉本さんは本当にたくましいと感じた。
 また、ある息子さんのお嫁さんの言葉は印象的だった。「やっと、水俣の海がきれいに思えるようになった」というようなことを言っていたと思う。いままで、公害のイメージが強すぎたせいだろうとも言っていた。この番組を見て、私も似たような印象を受けた。私は熊本の生まれだが水俣を訪れたことは一度も無い。水俣病のことはかなり昔から知っていたし、興味を持って調べたこともある。私の中でも、水俣の海は公害のイメージが強くて、ここまで海が再生していたのかと杉本さんの孫が海辺で遊んでいるシーンを見て驚きを禁じえなかった。自然の再生能力のすごさを感じたとともに、やはり1度ぜひ水俣に足を運んでみたい、そう思った。
 杉本さん一家は水俣病によって1度はばらばらになった。しかし、水俣病の始まりとなった水俣の海がまた杉本家を一つにしようとしている。まだ、水俣にいい思いを抱いていない息子さんもいたが、それも時間の問題のような気が私はする。また、それだけの家族の絆が杉本さん一家にはあると思う。




第3回(2003.10.16)映像90「薬害ヤコブ病・谷たか子の闘病記録」

 硬膜。脳を包む薄い膜。開頭手術の際は、死者から提供された硬膜を絆創膏のように張り付ける。89年1月に脳外科手術を受けた谷さんは、96年5月に発病、意識を失う。谷さんの家業は牧畜で、当時は欧州で狂牛病が騒がれていたため、医者は「お宅の牛から感染したのでは?」と言う。夫の三一さんは3人の娘と看護をしながら、友人らと真相究明を始め、提訴に至る。牛から感染した例はなかった。谷さんに移植された硬膜は、87年にアメリカのFDAが廃棄警告を出したドイツ製品だった。(MBS,1998.3.16,60分)

<当日資料>
クロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)とは(ヤコブ病サポートネットワークのHPより)、
「薬害ヤコブ病は今・・・」(谷 三一さん、2002.6.5の「公害と科学」特別授業より)、
クロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)をめぐる動き(年表)


<受講生による内容要約>
# 植えつけられた病ー。谷たか子さんが薬害ヤコブ病にかかったのは、96年の5月であった。ある日突然、方向がわからなくなり、二ヶ月あまりで植物状態となってしまった。夫の三一さんは、娘三人と共にたか子さんを介護する日々が続いた。
 医者から当時、発病の原因は家畜として飼っていた牛によるものだと言われた。しかし、真実を究明していくうちにある一つの新聞記事に出会う。硬膜移植からの感染。89年に脳の手術を受けた、たか子さんの脳に、硬膜が移植されていたのだ。しかも、その硬膜は87年にアメリカが警告をだしていたドイツのBブラウン社の製品だった。解剖アシスタントは賄賂を受け取りながら、死体の特定もしないまま、Bブラウン社に硬膜を提供していた。また、複数の硬膜を一緒に処理していたため、感染がさらに広がった。
 この硬膜を、厚生省は警告が出ていたのにも関わらず、10年間も放置してきた。その10年間の間に、たか子さんの脳に硬膜が貼り付けられたのだ。
 厚生省の意識の低さ、企業の利益優先など、様々な問題が浮き彫りとなった薬害ヤコブ病。これからこのような過ちが繰り返されないためにも、谷たか子さんの闘病記録を通して、もう一度、医療、薬事問題を問いただしてみたい。
(文学部・一回生 上田昌恵)



♪受講生が選んだベスト意見♪  経済学部・4回生 山下慎介[kino-doc:173]

 病院や製薬会社はボランティア活動ではない。利益を追求するということ自体は当然のことである。医療ミス・薬害問題をニュースなどで報道する際、病院や製薬会社が利益追求に重きを置くことに対し批判的な意見を述べる人も多いが私は問題がそこにあるとは思えない。問題は我々国民にあると思う。薬害エイズ・薬害ヤコブ・医療ミスなどの報道が繰り返し行われている中であっても、医者の言うことは絶対的に信頼し、自分がどのような治療を受けているのか、どのような薬を呑んでいるのかということを自ら進んで知ろうとする人は少ない。薬害や医療ミスは自分には関係ないと思い込みすぎている。
 確かにB・ブラウン社・ミドリ十字・厚生省が行ったことは許されるべき行為ではない。人の道から外れた行為であり、そして多くの人を殺し続けたというのは明白な事実である。今後2度とこのようなことを繰り返さないように徹底的に責任を追及しいくことが必要である。
 しかし、われわれ国民が変わらない以上問題は何も解決しないであろう。製薬会社・病院は利益追求を第一とする企業であり、医療現場に立つのも人間であり、当然ミスを行うこともあるものであるということをしっかりと認識し、常に監視する必要がある。谷三一氏や川田龍平氏の闘いは、一時的な同情・怒りのみで終らせるような問題ではない。我々の意識が根本から変わらない以上は厚生省・医療現場は何も変わらないであろう。


(次点)生活科学部・2回生 渡邊充佳[kino-doc:144]
 谷さんが薬害ヤコブの責任を厚生省やB・ブラウン社に求めていたことは確かである。しかし、この訴えの持つ普遍的な問いかけに思いをめぐらす時、また、失ったものが戻らないことを承知でなお立ち上がった谷さんの生き様を思う時、問われているのは薬事行政や製薬会社だけではないことに気がつく。
 私たちは多くの場合、何かしらの専門家として職業につき、生活していく。科学技術、医療は言うに及ばず、経営、法律、対人援助など、枚挙に暇はない。そして、厳密には、これらの中で、人の命に関わらない分野など何一つない。薬事行政などの場合、少しの気の緩みが即人命を奪うことにつながるため、特に大きく問題にされるという違いだけである。
 絶えず自らの専門分野の最新の動向に敏感に対応し、最善を尽くすため、日々研鑽する。個人としてそれができない環境なら、その環境を改善するよう求め続ける。これが専門家の責任ならば、私も含め、どれだけの人間にその自覚があるだろうか。当時厚生省の役人だったとして、警告を見逃さずに迅速な対応がとれたかどうか、私自身はっきりYESとは断言できないことに気づかされる。
 また、一市民としての私たちについて考えてみても、何か問題が起こるたびに批判はするものの、それまで状況を黙認してきたことへの自己反省はせぬまま、時の流れと共に忘却し、うやむやにしていくことがほとんどではなかろうか。そして谷さんのように立ち上がる人に対しては「すばらしい」「あのように強くなれない」などと美辞麗句をあげつらえながら、自分は社会への異議申し立ても何もせず、ただ傍観し、そのような自身のあり方を正当化し続けるのである。
 過ちを繰り返していることを問われているのは、他でもない、私たち自身であることを、心に刻みつけておかなければならない。


<私(木野)の選んだベスト3>

文学部・4回生 伊藤 圭[kino-doc:136]
 薬害の起こす悲劇・悲しみを思い知りました。番組の中でつぎつぎと説明されていくその構造的な欠陥を、その結果としてどのような現実が今あるのかをしっかりと認識させられました。
 他人事ではなくなってしまって、なんかドキドキしてしまいます。中でも谷たか子さんにとって端緒となった八九年の脳外科手術。インフォームド・コンセントの欠落が最後の線を越えさせてしまったこと、僕は過去・現在の自分の行動にてらして敏感になります。手術担当医師は「ライオデュラ」を使用する予定さえ、使用した説明さえしなかったという。
 僕は大学に入ってから資格を取得して家業を手伝うようになりましたが、ときおり他人の深刻な悩みにぶつかる時があります。正直言って人生経験自体軽薄なうえ家業に十分慣れているわけでもないので、“責任というもの”をどう考えればよいのかという点で何度も立ち止まってしまいます。その人の依頼を受けて仕事をする瞬間瞬間、どういう自分であればいいのか? その依頼者の思いと過去・未来への影響は? ・・・・・考えます。
 ですが僕の仕事がその人に良い方向に向けばいいよなと漠然としか考えてこなかったので、この手術におけるインフォームド・コンセントの欠如を見て、僕はつまり仕事をする際の“責任というもの”の範疇観念を変えられました。なにかしら他人と対するとき、目に見えないけれど今そのひとにとっての最後の、もしくは大事な一線がここにあるのかもしれない・・・・・。そういう決意を持ってなければ本物の仕事人になることはできないのだと思いました。

文学部・一回生 金城未希[kino-doc:140]
 故意か偶然かは判らないが、ドキュメンタリーの中で、硬膜を手術に使用した医師の責任が問われなかったのが気になった。ナレーションはライオデュラの危険性が多くの医学雑誌で指摘されていたと強調していたが、それならば現場で手術を行っていた医師もライオデュラが欠陥製品であることを知っていたはずである。
 何故、彼らは即刻ライオデュラの使用を中止し、患者本人の側頭の筋膜を移植する方法(谷三一さんのメモにはこの方法はより複雑だが安全だと書かれている)に変更しなかったのか。雑誌を読まなかった、では言い訳にならない。知らないということは即ち、人命を預かる職業に就きながら現在の医療の動きを知る努力を怠っていたということであり、被害者の方々からすれば、それだけで責任を追及するには充分だろう。
 薬害ヤコブ病が問題となる10年程前にも、日本では同様の事件が起きている。薬害エイズである。その時も、被害者の方々の、事前に輸血剤は警告を受けていたとの指摘に、厚生省は「危険性を予見するのは難しかった」と主張した。彼らは一体、貴重な人命を犠牲に何を学んだのか。
 「知らなかったから仕方ない」で済まないことは確実に存在する。それは薬害ヤコブ病の当事者達に限ったことではない、私達も同じだ。事の大小は別にしても、何らかの悪意に加担する可能性は全ての人間にある。他人事だという意識がこのような事件を引き起こすのだと思う。責任の自覚・無自覚を理由に罪の重さが変わる訳はないのだと、改めて痛感させられた。

文学部・一回生 古川里紗[kino-doc:155]
 たかこさんにビデオカメラを向けてケラケラ笑う、娘さん。娘さんの言葉に応えてニコっと微笑むたかこさんの顔は、ほおがピンクに染まってとても可愛らしかった。娘さんは明るく振舞っていたけど、本当は痛い痛い悲しみを必死に押し隠していたのかもしれない。私は胸が痛くなった。この数ヶ月後には、たかこさんの顔から一切の表情が消えた。
 調査用紙に見られた名前の横に並ぶ死亡、死亡、死亡・・の文字。ヤコブ病は一旦発症すると、ごく普通の生活をしていた人が一気に痴呆状態になってしまい、治療の手を施すことなく短期で確実に死に至る病。恐ろしい病気ではあるが、日常の接触による空気感染はしない。
 ホームページにがいくつか載っていた原告の日記を読んで唖然とした。病院の検査で異常無く、ついには精神科にまわされた息子を「甘っタレ病だよ」とはねつける医者。目にはゴーグル、口にマスクをしておずおずと妻を触る看護婦。遺体に触れることを怖がり火葬の順を早めて納棺を急かす葬儀屋。暖かい血が流れている人間のすることじゃないと思った。
 この病について正しい理解をしている人は実際少ないのかもしれない。私は病名しか知らなかった。知らなくたって自分が困るわけじゃないと思えばそれで終わりだが、被害者その家族を傷つけるのは決まって偏見と誤った情報と持ち合わせた人間だということを学ぶべきだろう。





第4回(2003.10.16)にんげんドキュメント「津軽・故郷(ふるさと)の光の中へ」

 当初の題名は「60年ぶりの帰郷〜ハンセン病詩人・桜井哲夫さん」。津軽出身の桜井さんは、県知事の謝罪と招きにより、故郷を訪問した。実家で桜井さんのことを知る者は、今や桜井さんの兄の長男のお嫁さんだけ。彼女の決断で一族は受け入れを決めました。数日の滞在でしたが、昔の友達とも再会を果たし、「また来てね」と抱擁しあって別れたのですが、その後、決断をしたお嫁さんはあっけなく亡くなりました。その葬儀には桜井さんの席があり、桜井さんの友達(帰郷の時にも付き添った)が名代として列席しました。(NHK総合,02.2.14,43分)
 「第28回放送文化基金賞テレビドキュメンタリー部門本賞」受賞。


<参考文献>
金正美『しがまっこ 溶けた ― 詩人桜井哲夫との歳月』NHK出版、2002年

<当日資料>
番組紹介、桜井哲夫(本名:長峰利造)さんのプロフィール、ハンセン病訴訟判決理由(2001.5.11.朝日新聞夕刊)、
「ハンセン病訴訟 控訴審の一方で―水俣病訴訟の上告は疑問、ともに政策遂行の犠牲者」(坂東克彦、2001.6.19.朝日新聞夕刊文化欄)

ハンセン病・ハンセン病裁判・ハンセン病国立療養所入所者数と提訴状況・近代以降のハンセン病の歴史(2001.7.24.朝日新聞)、

<受講生による内容要約>
 本作品では、桜井哲夫さん(77)の60年ぶりの帰郷と、そこに至るまでの「らい」との静かなる闘いの日々、そして金さんら周囲の人々との心温まる交流が描かれている。
 誰が望んだ病でもない。それでも「らいはお前の天職だ」という親の言葉を、受けとめて生きてきた。壮絶な後遺症、隔離の辛さの中で、50過ぎから詩を覚えた。
 一ファンであった金さんが初対面のときに感じた「おそれ」。しかしそれ以上に「美しさ」にひかれた。親交を深めた金さんとともに、桜井さんは帰郷する。「本当にうれしい時って、悲しいんだよね」
 予想以上の歓迎ぶりだった。唯一見知った義理の姪の心尽くしで、見知らぬ家族との対面を果たす。「同じお墓に入ってほしい」との申し出をかみしめ、涙。旧友との再会、そして「けやぐ」(親友)の誓い。しかし一方で、家族は結婚差別を覚悟する。桜井さんも「けやぐ」の言葉を忘れていた。長すぎた望郷の年月と、「らい」をめぐる厳しい現状――しばらく後、姪が突然死去。葬儀で設けられた桜井さんの席には、金さんがかわりに参列した。
 「里の道の長さは、時間の長さじゃなくて、命の長さ。キラキラしてるんだなー」そう語る桜井さん自身が放つ光と、ハンセン病をめぐる悲惨のコントラストが、観るものの胸を締め付ける。
(生活科学部・2回生 渡邊充佳)


♪受講生が選んだベスト意見♪  文学部・1回生・金城未希 [kino-doc:199]

 桜井哲夫さんは何度も感謝の言葉を口にされていた。私は、桜井さんを疑う訳ではないが、その言葉に違和感を感じてならなかった。桜井さんが「みなさんのおかげです」とおっしゃる帰郷も本名の再獲得も、本来は当然の人権なのだ。そしてその人権を桜井さんから奪ったのは、他ならぬ「みなさん」ではないか、そう思ったからだ。
 ハンセン氏病に関する訴訟は、2001年に原告の勝訴という形でいったん完結している。感染を防ぐためと言いながら不要な隔離政策を続けてきた国家が糾弾され、ハンセン氏病が感染力が弱く治療可能な病気であることが再確認された、ということになるのだろう。だがこの勝訴によってハンセン氏病患者に対する差別が絶えたかといえば、決してそんなことはない。私が見たハンセン氏病に関するホームページには、勝訴後の原告の方達の声が載っていたが、彼らは揃って変名後の名前を使われていた。推測だが、本名を公開することで親族が受けるかも知れない差別を恐れておられたのではないか。だとすればハンセン氏病問題は単に国が生み出した問題ではないことになる。そこには私達「第三者」こそが密接に関わっているのだ。
 訴訟は終わり、国は(課題は残るが)責任を認め謝罪した。では「みなさんのおかげ」だと感謝された国民は、一体何をしただろう。依然としてハンセン氏病患者に対する拒否感は根強い。私達は正しい知識を与えられた今でも、ハンセン氏病を受け入れる事さえ出来ずにいるのだ。
 訴訟の終了はハンセン氏病問題の終了ではなく、私達の新たな取り組みへの始まりだと思う。

参考;「ハンセン病ニュース」

(次点)法学部・2回生・馬越涼子[kino-doc:197](木野:投票は同数でしたが、2回目にTopになっていますので今回は次点ということで)
 ドキュメンタリーを見て、つらい現実を知り、それについて考える時、私たちは今まで「私がもしそういう立場だったら…」とまず自分に置き換えて、考えてきた気がする。自分がもし、そういう立場で、そういう病気になり、そういう対応をされたら、イヤだ。だから、そういうことが起こってはいけない。と、考えてきたのではないかと思う。
 しかし、これまでドキュメンタリーを見てきて、そして今回のドキュメンタリーで決定的に感じた。それは、間違っていた、と。
 例えば私は、友達が痛い思いをするのがいやだ。「もし、自分なら痛いのがイヤだから、友達も痛いのはイヤだろう」という思いからではなく、単純に友達が痛い思いをするのがイヤだし、腹立たしいのだ。
 そういう、単純に、誰か知らない人が、何か理不尽な目にあっているコトに怒りを感じるべきではないだろうかと思うようになったのだ。
 自分がされたらイヤだから、そういうことはしてはいけない…じゃあ自分がされないならいいのか。そういう疑問を今までの自分に対して抱いてしまった。



<私(木野)の選んだベスト2>

生活科学部・2回生 渡邊充佳[kino-doc:217]
 自分の隔離の苦しみよりも、金さんの「在日」としての境遇を案じた桜井さんの優しさ。
 「らい」と向き合い、受容する日々の営みの中からつむぎだされる詩、そしてそこからにじみ出る、みずみずしく繊細な感性。
 人生の希望を決して見失わない、強さ。
 私たちは、桜井さんの生き方を見て、「苦しいことを乗り越えたからこそ、すばらしい人間になれるのだ」などと、安易に考えてしまう。確かにそれは事実だろう。しかし、それで終わらせてしまって、本当にいいものだろうか。
 明治時代から、伝染力が極めて弱いものであることは、帝国議会の答弁で語られていた。知りつつなお排除したのだ。当時から隔離が合理的とみなされるような理由は、何一つなかった。感染の恐怖とはまた別の「おそれ」以外には。
 ハンセン病患者の苦しみ、それは本来ならば、背負わなくてもよかったはずの苦しみなのだ。「長い間失礼して、堪忍してください」と桜井さんが流した涙は、流さなくともよかったはずのものなのだ。
 和解後も、生活支援は不十分だ。非入所者への支援はいまだなされない。入所者の中には、不衛生な治療のためか、肝臓がんや肝炎に苦しむ人が少なからずいる。故郷に戻れる人もごくわずかだ。さらには、日本支配下の韓国でなされた強制隔離被害が、置き去りにされている。今この瞬間も、流さなくとも済んだはずの涙が、流されている。
 知らないことは罪かもしれない。しかし、正しい知識があれば差別がなくなるかといえば、そうは思えない。
 金さんが、初対面のときに感じた「おそれ」。しかし、ふれあいの中で、そのような感情よりも、桜井さんのもつ「美しさ」に、金さんはひかれていった。
 出会い、ふれあいのうちにこそ、出口がある、そんな気がする。
<参考資料>

「知って!ハンセン病国賠訴訟『人権侵害とその歴史』」
「特集 ハンセン病」(熊本日日新聞ホームページ)


生活科学部・3回生 泉本暁子[kino-doc:216]
 2001年に、熊本地裁で国と原告の間で和解が成立した頃、ハンセン病問題について知り、「ハンセン病とは何か。何が問題となっているのか知りたい」という思いが強くなった。実際に、香川県にある大島青松園へ行き、元患者さんからお話をうかがうこともできた。
 全国ハンセン病療養所患者協議会(1951年に結成)という組織の中で活動された元患者さんが熱心に語られていたのは、「らい予防法」を根本的に改正させるための運動を起こし、1996年に「らい予防法」の廃止を達成するまでの、必死の闘いについてであった。
 私が話をうかがった方は、自分の歩んできた人生や思いを言葉にして伝えてくれた。桜井さんは、詩を通して、感情を伝えてくれている。言葉を通じて、同じ過ちが繰り返されてはならないという思いが、私の心に刻み込まれていく。
 しかし、私自身のことであるが、時間が経過したり、マスメディアで報道されなくなってくると、しだいにその問題に対しての問題意識が薄れていってしまう。二年前にハンセン病問題についての追究を行い、何が問題なのかを明らかにしたいと取り組んでいた。だが、時間が経過していくと、しだいにハンセン病問題について知ろうという意識がストップしていた。これを、時間の問題にしていること自体間違っているのかもしれない。なぜ問題意識が薄れていってしまうのか、このことについて、自分と向き合うためにも真剣に考えないといけないと思う。そして、今回のドキュメントのおかげで、私自身のハンセン病問題の追及を終わりにしてはいけないと強く教えられたのも本当だ。





第5回(2003.11.6)ドキュメント地球時間「“サリドマイド児”として生きて」

 カナダのK.A.プロダクションズが1999年に制作した番組。副題に「米・薬再認可と被害者たちの今」とある通り、FDA(アメリカ食品医薬品局)は1998年6月、かつて催奇形薬として知られた催眠薬サリドマイドをハンセン病治療薬として承認した。ハンセン病に限るとの条件だったが、その抗炎症作用に注目が集まったため、他の難治性疾患に試用されるようになり、末梢神経障害などの副作用が報告され始めてしまいました。この番組によると、ブラジル、アフリカで違法に密輸されたサリドマイドが使われ、サリドマイド児が誕生して問題になっているらしい。まったく…、いろんなことが起きるものです。(NHK教育,00.12.01,43分)

<当日資料>
薬害サリドマイドについて・サリドマイドに関する年表・日本におけるサリドマイド被害者の出生年と男女別内訳・日本におけるサリドマイド被害者の障害の種類と内訳・「サリドマイド復活について」のアンケート集計結果(いずれも財団法人いしずえ作成,2003.2.16)
☆いしずえのHPはhttp://www02.so-net.ne.jp/~ishizue/frame.html
☆全国薬害被害者団体連絡協議会(薬被連)のHPはhttp://homepage1.nifty.com/hkr/yakugai/


<受講生による内容要約>
# このドキュメンタリーはサリドマイド児として生まれた人たちの今の生活を描いた番組である。どの様にして薬害が起こり、そのためにどの様な生活を彼らは強いられたのか…? そして、今生き残っている彼らはどの様な気持ちで生きているのか…。
 「挫折と苦悩」を「生きることの喜びと大切さ」に換えられる彼らの生き様を複数のサリドマイド児の方々の視点から見ることができる。障害を持ったものとして、一体どの様に生きていけばいいのか・・・。我々、五体満足しているものには分からない彼らの気持ち、そしてそれを乗り越えたがゆえに得られるプライド。所々に登場する彼らの名言に心打たれながら、今の彼らにとってできることを精一杯している輝かしい彼らの生き方を見ることができる。今、我々のするべきことは何か?を考えさせられながら、かつ被害者の視点から描かれた生きることの辛さ、そして生きることの大切さを臨場感を味わいながら体験できる作品である。
(理学部一回生 太白啓介)


♪受講生が選んだベスト意見♪ 法学部・1回生・坂本俊輔 [kino-doc:239]

 サリドマイドの使用を再開する以上、どれだけ規制を徹底してもサリドマイド児が0になる事はないだろう。それでも僕はサリドマイドの使用再開に賛成だ。
 僕自身、アレルギーの治療のため、炎症を軽度にコントロールするためのステロイド剤を使用している。ステロイドは、炎症の抑制に最も効果的だが正しく使用しなければリバウンドなどの危険性がある。しかし、そもそも危険の無い薬品などあるだろうか? 市販の風邪薬が失明を招く場合すらあるのだ。
 しかし、サリドマイドで劇的に症状の緩和する人々がいる。副作用が起きる段階も限定されている。何より必要としている人がいる以上、禁止しても非合法の市場で流れてしまうだろう。ならば、むしろ公認して、質の良いものを安価で提供するべきではないだろうか。
 勿論サリドマイドは服用する当人ではなく、子供に障害が起こるという点で問題がある。徹底した医師の診察、警告が必要だ。そうしてサリドマイドの被害を出来うる限り0に近付けつつ、今苦しんでいる人々を助けてこそ、彼らの悲劇を無駄にしなかったといえるのではないだろうか。


(次点)生活科学部・2回生・渡邊充佳 [kino-doc:269]
 彼/彼女にとって、「障害」「サリドマイド」は乗り越えるべきものなのか、受容していくものなのか、どちらでもないのか。見ていてわからなくなってきた。
 あるサリドマイダーは、足の指で着替えをはじめたときから、「障害者」であることをやめたんだ、と語っていた。しかし一方で、義腕をつけた自分のことを「惨めで不自由」とも語る。そして「今の人生以上に、すばらしい人生なんてありえない」と言い切りながら、「五体満足」で「健全」な子どもが生まれたことに最大の感謝を表明する。
 彼にとって、やめなければならない「障害者」とはいったい何だったのか。もし子どもが「健全」でなくても、彼は最大の喜びを感じられたのだろうか。そのような疑問が頭から離れない。
 彼/彼女が「誇りあるサリドマイダー」としてひとたび「障害」「サリドマイド」について語るとき、自らの属性において自己肯定すると同時に、「障害を持って生まれてくること」「サリドマイド被害」を「悲劇」の文脈で語ることで自己否定にもつながるという逆説が成り立ってしまう。
 彼/彼女はかけがえのない個性を発揮して生活している。そのような自分自身への誇りで十分なはずなのに、なぜわざわざ「サリドマイダー」としての誇りを前面に出さなければならないのか。属性に「誇り」を見出すからこそ、深層において引き裂かれてしまうにも関わらず、である。ここにきて私は、そのようにしてしか「ふれあいを求める」ことができない状況が社会に存在することの反映ではないかと、考えずにはいられない。
 「障害」を抱えた人間が「できる」ということに対して感動を覚えると同時に吐き気がするような気持ちの悪さを感じてしまうのは、人間の生きざまをどこまでも能力という尺度で絡めとっていこうとする社会のあり方、私自身の意識を、えぐりとって目の前につきつけられるからかもしれない。



<私(木野)の選んだベスト2>

文学部・1回生・金城未希 [kino-doc:253]
 私は自分も障害者なので、ドキュメンタリーを見ながら、画面には映らないサリドマイダーの方々の日常、つまりサリドマイドという薬が全く関わらない日常を想像したりしていた。これは私の推測でしかないが、どんなに重い障害があっても、あれほど前向きな彼らが、障害にばかり構う訳はない、ただの日常も過ごしているはずなのだ。そのときの事を考えていた。
 例えば足に障害を持つ私の場合、日常で一番困るのはその日着る洋服だ。私が歩行の補助として履いている補装具(靴です)は不格好なので、スカートが致命的に似合わない。スカートと履くとロボットに見える。だから普段、一定以上の距離を歩くために補装具を必要とする時は、必ずズボンを履く。スカートなんて履かなくても困らないが、何となく悔しい。
 こんな事を書くと読んでいる方も鬱陶しいと思うけれど(二度としません)、苦労自慢がしたかった訳ではない。私より遥かに重い障害を持つ彼らが、街に出てサリドマイダーとしての運動を行うまでには、もっと膨大な労力が払われただろうと思ったのだ。勿論障害者も健常者も同レベルの生活を送れて当然だが、労力の差は歴然と存在する。それを押し、自分の日常を削ってまで彼らが主張したかったことは何か。それは多分、自分達の存在そのものだったのだと思う。
 今回のサリドマイド再使用の方向性や製薬会社の姿勢には、私はとても共感できた。理想的に事が運べばではあるけれど、再使用は現代の医学に大きく貢献すると思う。だがその貢献に浮かれて、サリドマイドの危険性を忘れてはならない。
 このドキュメンタリーはあくまでサリドマイダーとしての彼らを映していたのだと、今やっと判った。


文学部・3回生・川崎那恵 [kino-doc:260]
 私はこのドキュメンタリーを見てポジティブな面とネガティブな面、両方を考えさせられた。
 登場したサリドマイダーたちの明るさ、前向きさを見ていて「いいなぁ、こういうの」と思った。マイノリティ・社会的弱者とされる人たちには、そうでない人々(今の社会、あくまでこちらが「主流」であり、社会を動かしている)を問い社会変革へとつなげるパワーや感動させ勇気づけるパワーがそなわっているとつくづく感じる。…と考えると同時に、私は次のようなことも考えてしまう。
 「サリドマイダーとしての誇りを持とう!」とわざわざ口に出す必要があることの意味。「○○なのにすごいな」と感じてしまう私。サリドマイダーがサリドマイドの復活を恐ろしいと考えること=自己の否定に他ならないこと。そして、サリドマイダーとして生まれたことを決して前向きに捉えることができない人たちのこと。(ドキュメンタリーではその部分を突破して生きている人ばかりが出てきたように思う)
 「一面だけを見て全てをわかったような気になることは知らないことの次に罪である」というのが私の信条だ。一人でも多くのサリドマイダーたちの生き様を知ること、サリドマイドの復活について考えることは、物事を多面的に捉えることの重要性を実感させてくれるのである。





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