「ドキュメンタリー・環境と生命」2006年度受講生の記録

 ここには、記念すべき第9回から第13回までを掲載しています(2006年1月1日)
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第9回「バリアフリー研究者・福島 智」(TBS系,2005.3.27,情熱大陸,30分)

要約ベスト(文学部1回生・渡辺久実子)
 盲ろう者では世界でただ一人大学の助教授をつとめるかたわら,指点字を開発することで、すべての盲ろう者が自立した生活を送れるよう願う福島さんの日常を追ったドキュメンタリー。
 彼は9歳で光を、18歳で音を失った。一度は希望を失ったが、母親と共に開発した指点字により、再度世界と関わってゆく術を手に入れることになる。
 コミュニケーションすることは差別をなくすことにつながる。世の中にはいろんな人がいるということを知り、想像することが大事。彼の言葉と積極性は、全国1万数千人の盲ろう者に希望を与え、また私たちに人間の可能性の大きさと、柔軟な見方を与えてくれる。
 明るくないと生きていけない。しかし面白くないと生きている意味がない−−−今日も福島さんは光である奥さんとともに、盲ろう者にも暮らしやすいバリアフリー社会の実現を目指して奮闘する。



投票ベスト [kino-doc:291] 経済学部4回生・西村栄樹
 「バリアフリー研究者 福島智」学情で新聞記事を検索していると、思わぬ記事が目についた。ドキュメンタリーでは少ししか触れられていなかったが、福島智さんとその妻・光成沢美さんとの間には、だいぶ紆余曲折があったようだ。だがそれは夫婦間だけの問題ではなく、世間にも原因があった。特に沢美さんには常に「障害者の妻」というレッテルが付きまとい、「女性は男性に尽くして当たり前」、「障害者の介助は家族がして当然」という見方が二重に縛りつけていたと言う。
 その昔、ヘレンケラーが奇跡を起こしたと言われた陰にはサリバン先生がいつも側にいたように、福島さんのそれも母や周りの介助なくしては有り得なかった。しかし介助に当たった者への偏見が、障害者に向けられるのと同様に差別としてこの社会に散在している。TIMES誌に福島さんが紹介されたときの記事にもこう書かれている。
“Yet he remains humbled by the sacrifices others have made to help him succeed. ”
 我々は他人には踏みにじられたくない、自分だけの領域というものを持っている。それが個性だと思っている。しかし人と話をするとき、どうしてもその個性を表に出さないことには相手をうまく理解できない。障害の有無に関係なく、人間として、パートナーとして他人のことをどれだけ思いやれるかが、差別を通り越して「生きる」ことに深みを与えるように思う。



先生選抜1 [kino-doc:294] 経済学部2回生・野村邦博
 全盲・全聾の福島さんは明るく、パワフルで、私達の人生より魅力的な部分をたくさん持っている。それは単純に意外であり、健常者である自分でさえも元気付けられる。私が今、全盲・全聾の身体障害者になるとしたらと考えると、絶望の二文字が頭をよぎる。視覚と聴覚がないというのは一体どんな感じなのか、想像するだけでも怖いという気持ちしか湧かないので、実際にやってみました。
★ 耳栓をして、目を閉じて、感覚だけで自分の部屋がある二階から階段を下りて一階の部屋まで無事にたどり着けるか。
 まず、部屋のドアまでたどり着くまでにストーブ、ベッドなどの難関を触りながら突破。ドアを開けてトイレに入って小さい方の用を足す。しかし、なかなか狙いがつけにくく苦戦。かなり自信が無かったが、そのまま水に流してドアを閉めて廊下に出た。廊下に出ると何かにつまづいてしまう。なんだろうと思って、足で触ってみると掃除機だと判明。危ない。そして手すりを持ったままゆっくり階段を下りる。階段には本が積んであったりしてなかなか危険だ。だが偶然にも何も踏まずに突破。そして一回のリビングに入ると、いつも以上に研ぎ澄まされた触覚で、暖房の暖かさを感じることが出来た。そして、キッチンから漂う今夜のおかずのにおいもいつもより鮮明に嗅ぎ取った。そうか、今夜はかす汁だな。そして、帰り道は障害物を覚えているのであっさり部屋までたどりつきました。
 健常者として暮らしている我が家はバリアだらけでした。記憶がなければ怖くて進むこともままならない。だからこそ、地下鉄などの公共施設での点字ブロックの存在は目の不自由な方々にとって重要なのだと実感しました。さらに、いつも使っていない神経まで使わなければならないので、目と耳のありがたさを感じると同時に、障害者の方々の精神的なしんどさを感じました。


先生選抜2 [kino-doc:308] 理学部1回生・北川哲弘
 音のない暗闇の中で生きていくと言われ、実感は伴わないもののどれだけ恐ろしいかは本当に容易に想像できた。その何もない世界で、「世界に自分がいるのか」という疑問を常に持ちながら自分は生きられそうにない。実際そのような人は多いと思う。それにより命を落とす人もいると思う。だから、何もない闇の中で母親からヒカリを見せられた福島さんは同じ境遇の人のヒカリになりたいと思ったのだと思う。何も見えず、聞こえない世界の中で、手のぬくもりは本当にあたたかいのだと思った。そして、差し出された手はあたたかいということを一人でも多くの人に知ってもらいたいのだと思った。
 番組の最後に言っていた「世の中にはいろんな人がいる。そういうことを知ってほしい」という言葉は自分の中に深く残った。これは福島さんのような本当に見えない、聞こえない人のことだけでなく、比喩的な意味でも見えない、聞こえない人に対しても言えることだと思った。この手は殴ることも撫でることも、なんだってできるから、いろんな人に差し出す手にしたい、そう思った。


先生選抜3 [kino-doc:312] 文学部1回生・吉岡麻衣
 「やっぱりちゃんと『好き』って伝えたいんやったら、メールとか電話よりも直に言う方が良いんちゃう?相手の目、見れるし。」友達にした恋愛相談。そのときそんなことを言われた。「たしかにそうやね。メールやったら味気ない気がするし、電話やと相手がどんな表情かわからんしなぁ。」何となしにそう答えたが、ふと、今回の授業のことが脳裏によぎった。
 見えなくって聞こえない。見えて、聞こえる健常者の自分が、誰かに気持ちを伝えるのにこんなにも苦労する。見えなくて、聞こえない福島さんが、人に気持ちを伝えるのはどんなに大変だろうか。でも彼はこう言った。「私達(盲ろう者)は言葉自体で勝負、中身で勝負。それは(健常者の言語表現と比べると)有利なことかと思います。」
 「有利?ほんとに?」と思わずにいられなかった。ふとした目線、息づかい。そんな小さなことで私達は、人が何を感じているのかを悟ったりする。でも福島さんは、そんなささいなことは感じられない。それどころか音声としての言語を感じられない。しかし、だからこそコミュニケーションをとろうとする欲求が、純粋なまま形になるのかもしれない。限りなく率直な言葉でいられるのかもしれない。
 福島さんを知って、また一つ、障害者への見方が変わった。「コミュニケーションをとりたい、と思うからとるんだ。」当然のことではある。だが私はこの言葉にはっとした。視力も聴覚も健常な自分が、見えず、聞こえていないものがあったことに気づいた。自分の内から生まれる声。
 「健常者」や「障害者」という括りに関係なく「人」としてあるべき姿を、福島さんに見た気がした。視力や聴覚に過信するのではなく、時には自分の内を見つめる必要があるのではないだろうか。






第10回 「あなたはいま幸せですか 地球家族2001」(NHK総合,2001.8.21,60分)

要約ベスト(理学部1回生・谷口浩司)
 「申し訳ありませんが、お宅の家財道具を全て家の前に出して写真を撮らせていただけませんか」と30カ国を回った写真家のピーター・メンツェルさんの話で、その内主にキューバ、ブータン、ボスニア、日本、モンゴルについて1994年と2000年を比較しながら語っていた。
 ブータン・シンケ村では電気が通り、ナムゲさん曰く「電気が通ったおかげで地獄から抜け出して天国へ行ったようでした。」
 キューバでは父は消えていき娘さんが結婚していた。娘さんの母曰く「生活は前より良くなりました」
 ボスニアでは内戦があり、デミロヴィッチさん曰く「戦時中は生き残ることが希望でしたが今は未来が閉ざされている。むしろ戦時中のほうが悲しみは少なかった」
 モンゴルでは先祖代々受け継がれていた仏像を大事にしていたが今は売ってしまった。バトソンさん曰く「今は借金しているけれど、今度会う時は物で溢れてるでしょう」



投票ベスト[kino-doc:346] 理学部1回生・俵 大樹
 今回のグループディスカッションで一番大切なものを家族と答えた家庭はある程度裕福で現状に満足している家庭に多いのではないか、という意見が出ました。確かに、その通りかもしれません。自分が生きることに精一杯の人たち、現状に満足せず何かを追っている人たちにとっては、価値のあるものが物の方に行ってしまいがちになってしまうのではないでしょうか。自分が一杯一杯なのにそれでも他者が大切だと言える人はよっぽど心の大きな人で普通の人は無理なんじゃないかなぁって思います。
 僕達はどうなんでしょうか。不況であっても物があふれかえっているこの日本。ここまで来ると物がありすぎて、何が大切で何が大切じゃないか分からなくなってしまいそうです。自分自身、いまぱっと何が大切か言えません。やっぱり家族なのかなぁ。それでも、こういうことを考えると、こんなに自分は豊かに暮らしていけて恵まれているなぁと実感し、幸せなんだと気づくいいきっかけになったと思います。



先生選抜1 [kino-doc:356] 理学部1回生・森尾真也子
 今回のドキュメンタリーを見て私が一番疑問に思ったのは、何故メンツェル氏がこのようなことを企画したのか、ということである。
 確かに、私たちは世界の一端しか知らない、しかも極端な例ばかりだとも思う。そういう意味で一般的な家庭の暮らしを知るというのは意味のあることであろう。けれど、時折、熱帯雨林がなくなってしまう、世界では毎日何秒に一人が飢えで死んでいる、もっと身近な例で言えば、***県で殺人があったなどのニュースさえもブラウン管の向こう側の出来事としか捉えていない自分も発見するのである。そんな自分が数枚の写真で平均的な暮らしを理解し、ましてそこから何かしようと思うかというと正直、自信がない。せいぜい、「ああ、住む世界によってこんなにも価値観が違うのか」とか、「幸せとは人の気の持ちようなのだな」とかぼんやりと思うだけだろう。
 ゆえに、私はメンツェル氏の行動の意味がわからない。彼が何を思い諸国をまわって「平均」的な家庭を取材したのか、それが分かったとき、私はぼんやりとしたブラウン管の向こうに思いを馳せることができるのだろうか。


先生選抜2 [kino-doc:359] 生活科学部1回生・幾原亜季
 「家財道具をすべて出してもらって写真を撮らせてもらう」。このような変わった取り組みをされたピーターさんに驚きました。はたからみればこんな図々しいこと、よく思いついたなぁと思いました。きっと怪しまれて断られたこともあったでしょう。それでもこの活動をする意味とはなんなのだろう。
 人間とは、道具がないと生きていけない動物です。豊かになればなるほど、家財道具は増えていきます。この写真を見ると、まず初めにその国の豊かさがわかります。そして取材をとおして、物がどれくらい大事かがわかります。その国が平和かどうかがわかります。家族の絆がわかります。これを通して、国の社会事情、経済事情が、国民の生活にどれほど影響を及ぼすかがわかりました。
 そして、今の日本に住む自分を考えてみると、自分がどれほど幸せか、ということをしみじみと感じます。ほしいものはたいてい頑張れば得ることができます。しかし、キューバの家族ほど、戦争中のボスニアほど家族の大事さを感じていないでしょう。完璧な世界なんてありません。でもできる限りの人が幸せを感じ、人とのつながりも大事にできる社会になることを願います。






第11回 「エリオット先生の差別体験授業 ”青い目 茶色い目”」(NHK教育,ドキュメント地球時間,2001.5.25,45分)

要約ベスト(理学部2回生・中田哲也)
 「私は、この授業を人種差別に対する予防接種だと思います」(エリオット先生)
 24人の大学生が集まった、とある授業。その2時間で、人生を変える強烈な体験をさせることになる。そうとは知らず、軽い気持ちで待つ大学生たち。
 「私には、夢がある。私の子供たちが肌の色ではなく、人格で評価される夢を」(キング牧師) それからまもなく、殺されたキング牧師。その翌日、彼女はこの授業を始めたのであった。
 いよいよ授業開始。今回は、青い目の学生たちがターゲットだ。開始早々、エリオット先生の一つ一つの言葉にみるみるうちに冷静さを失っていく青い目の学生たち。何を言っても、あなたが間違いと決め付けられる。しまいには、自ら出て行った学生もいた。
 差別はなくなってはいない。自分たちがそんな目にあっていないだけなのだ。その実態を、まざまざと彼女は演じてみせたのだ。
 最後に、彼女は学生らに言う。
 「私は、この授業をするたびに一週間頭痛で苦しむ。しかし、人種差別がなくなるまでこの授業はやめません。死ぬまで、やめないでしょう。この授業で学んでどうするかはあなたたちの自由です。しかし、この授業で学んだことは忘れないでほしい」



投票ベスト [kino-doc:369] 工学部1回生・廣岡謙太
 このドキュメントを見て、あんなにも強い口調で普段黒人の人は言われているということを知りました。白人の人はそんな口調で言われて、泣いていて、しかし、黒人の人たちは不思議に思っていて、こんなにも、白人と黒人の間に差があるということを知りました。白人の学生は初めてこんなにも黒人がこのような扱いをされていることを体で知ることができて、とても貴重な体験ができて良いことだと思いました。しかし、今でも、黒人の人たちは、このような差別を受けていると思うと、とても残念だと思います。黒人の人たちは、今回の白人の人たちのように、たった数時間だけ差別されているのではなく、また選択もないので、とても苦しい思いをされている。それを少しでも多くの差別している人が理解してくれれば、幸いだと思いました。
 また、自分の体で、差別を受けることが一番理解を深めることができるのだということもわかりました。エリオット先生も絶対にこのような授業で、いやな思いをしているけれど、少しでも差別のことを理解してもらうために、やっていて、とてもすばらしいと思いました。



先生選抜1 [kino-doc:379] 文学部4回生・加藤賢至
 今回も衝撃的なドキュメントでした。
 非暴力主義に基く黒人解放運動を主導したキング牧師が殺害されたことが契機となって「人は人種差別は被害者の思い込みだと想像している。これは体験しないと分からない。」という思いをエリオット先生は持たれたようです。そして本来の彼女の性格・思想に反しながらも、教育のため生徒を授業で差別し、その痛みを伝えました。
 差別は本当に根絶させないといけない、というエリオット先生の情熱が強く伝わってきました。今社会は、マジョリティによるうわべだけの人種間融和がマイノリティの受ける差別のうえに覆いかぶさっていると訴えたかったのだと思います。この、マイノリティの風潮にチャレンジする彼女の姿勢はキング牧師同様素晴らしいと思います。私は、ともすれば保身に走ろうとしてしまいます。そうではない。自分の身より、命より大切なものはある。
 「また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにはふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者はそれを得るであろう。」(マタイによる福音書 10章38〜39節)
 将来、教職に就いた際、いじめや差別問題に必ず出くわすことと思います。そのときにはこのドキュメンタリーを活用したいと思います。


先生選抜2 [kino-doc:383] 生活科学部1回生・堀口仁子
 「僕は人を支配しないし支配されもしないけど…」という言葉に少し腹が立った。社会に潜む差別に気づかないうちは、知らずに人を傷つけ続けてしまう。
 「残念ながら私たちはひどい仕打ちが許される社会に生きている」という言葉が強く印象に残っている。この講義を通じて最近気づかされたことだが、「社会」や「国」は、人間の集まりであって、他ならぬ自分も当事者であるということ。差別している側は「社会には差別があるけど自分はやっていない」と言って、自分の「特権」に気づかず、加害者であり続けている。少し怖いが自分の「特権」について、考えてみようと思わされる番組だった。


先生選抜3 [kino-doc:392] 理学部1回生・森尾真也子

 目には目を歯には歯を。今回のドキュメンタリーを見て何となくそう感じた。ここまでしないとわからないものなのか。それくらい差別が当たり前のように日常に溶け込んでいるのか。
 確かに、受けた痛みを分からせるという点でいえば、これは一番効率の良いやり方かもしれない。現代日本において問題となっているいじめでも、いじめている側といじめられている側とでは感じ方に大きく溝があることも知られている。なので相手の視点に立たせる、というのは嫌でも相手の痛みを思い知らされる。
 しかし、私たちは思考する生物である。本来ならこのようなことは一から教えられなくとも頭で考えれば十分理解できるだろう。人の痛みがわかる人間になれ、というのは教育の常套句のように聞いた記憶がある。けれど実際はそのようにいかず、差別はまだなくなりそうにないし、動こうとする、考えようとする人間の数は差別をする人間の数に比べてあまりにも少ない。その結果このような方法にまで辿りつかせてしまった原因である差別への認識の薄さ、人間の非情さがおそろしく思われた。





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