「ドキュメンタリー・環境と生命」2004年度受講生の記録

 ここには、記念すべき第6回から第9回までを掲載しています(2005年2月1日)
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11月11日の中間アンケートから
 先日のアンケートに書かれていた教室でのディスカッションについての感想を紹介します。

Q6.教室でのディスカッションについての感想を寄せてください。
 なお、去年まではメーリングリストを読んできてから、次回の授業の初めにディスカッションを行っていましたが、そのやり方だと発言し難そうだったので、今年はドキュメンタリーを観た直後に変えています。

* ディスカッションはすごく良いと思います。授業うけてすぐの感想はめっちゃ大切です!! しかも他の人の意見にびっくりすることもあるし。MLとは違うおもしろみがあって、かなりイイです!!(L1)
→ MLとは違うおもしろみこそディスカッションの醍醐味です。難しく考えないで、みんなもディスカッションを楽しんでほしいな。

* ドキュメンタリーを見た直後の新鮮な意見を交換できるので、おもしろい。前で要約をしてくれるので、他人の言ったことが右から左へと抜けずに聞けて、いいと思う。(H3)
→ 今年は試しに渡邊先生に手伝っていただいていますが、右から左へと抜けずに聞けたと言ってもらえると私も渡邊先生もやりがいがあります。前回のようにクラス仲間で手伝いあうというのも良かったですね。

* ドキュメンタリーを見た直後のディスカッションの方が、全体の印象としての意見は言いやすいと思うが、意見がまとめられず、自分の言いたいことが半分も言えない(伝えられない)です。でも、その分、メーリングリストで後で発言できるのはいいところだと思います。(L2)
→ 見た直後は構えずに率直な意見交換の場と考えましょう。教室では言いたいことの半分も言えなかったでしょうが、メーリングリストに書くときにもう一度自分の頭の中を整理するのに役に立つと思います。もちろん、教室での意見と変わってもよいですよ。

* ドキュメンタリーを観た直後の方が感じたことをそのまま言葉にしやすいので良いと思うが、あまり発言し過ぎると意見メールに書くことがなくなってしまいそう。
 色々な意見を聞いていると、違う視点からの意見を聞いてなるほどと思ったり、同じ視点の意見に共感できたりして、面白いと思う。(J1)
→ 発言したことを意見メールにまとめ直しても結構ですよ。言ったことは書けないなんてことはありませんから(^_^)

* みんなの意見に感心する。すごさに尻込みしてしまうが、いい刺激になる。
 自分はみんなのようにすごい?意見は言えないし、あがり症なので発言できないと思っていたが、思っていることがつのったので、今日、初発言(たいしたこと言ってないけど、やっぱ緊張した〜)。(S1)
→ 最初は誰しも緊張するでしょうが、一度経験するとすぐ慣れます。現に、前回もたしか発言してたよね。

* 意見をまとめきれないままで発言するのはちよっといやだなと思って考えていたら、いつも時間がすぎてしまっています。でも、生の意見というか、直後に他人がどういうことを考えているのか、自分とどうちがうかを知れるのは、おもしろいです。(J1)
* ディスカッションは、色々な意見があるので興味深いです。特にメーリングリストの意見を考える一助になるので熱心に聞いています。(J4)
* いろいろな意見が聞けておもしろい。(C2)
* 皆さんの意見を知ることができて、たいへん勉強になります。(T2)
* 鑑賞後のディスカッションの方が、意見はまとまっていなくても、伝わると思います。(J3)
→ みんな「そのうち発言したい」という人たちですが、上記の初発言した人にならって、ぜひ参加してください。

* みんなで全く同じドキュメンタリーを見ているのに、こんなに様々な意見があるのか、と毎回楽しみにしています。自分はまだ発言できていませんが、いつか発言したいと思っています。(L1)
→ そうだよね。同じものを観てるのに、他の人はこんなことを考えてたのかということを発見するのがこの授業の第一の目的です。他の人の話を聞いて楽しんだら、やっぱり自分もお返ししなきゃね。

* 自分の言おうとすることの整理がなかなかできません。(C2)
* 考えがまとまらず、発言できていません。(L1)
→ ドキュメンタリーを観ている間にいろいろ浮かんできませんか。観ながらメモを取る間に、浮かんだことも一緒にメモするようにしましょう。少々未整理でもよいから、わたしはこう思うけどみんなはどう思う?という形で問いかけることから始めてはどうかな?

* メーリングリストを読んできてからの方が発言しやすいと思う。ドキュメンタリーを見た直後だと、感情論が前面に出てきてしまって、発言を考えていると自分で「冷静ではないな」とか「こりゃ分析でないな」とか思ってしまって、言わずに終わってしまう。あくまで私はそうなんだということですが…。(J2)
→ アンケートでは観た直後の方が良いという人がほとんどでしたが、きちんと整理してからでないとと思うと「言わずに終わってしまう」というのもよくわかります。ただ、去年も一昨年もメーリングリストを読んできてからにしていたのですが、これだとかえって構えてしまって言い難いようでしたよ。

* 別にドキュメンタリーの内容に否定的な意見ばかりを持っているわけではありませんが、どうもディスカッションの発言は、番組を肯定的な、少し偽善的とも言えることしか発言できない雰囲気があるように感じます。
 ドキュメンタリー番組では、何でもかんでも話が美談と化されてしまう気がします。本当にその内容が番組通りなのか、番組に流されていないかを、生徒に考えてもらうと、よりおもしろい発言が出てくるのではないかと思います。(S
2)
→ 私はけっして肯定的な意見だけを歓迎しているわけではありませんよ。気にせず、あなたのような意見もどんどん言ってください。

* ディスカッションと言うか感想と言うか。(E4)
→ 直後の意見は感想から始まってよいと思います。でも、発言の中には意見も少しは入っていると思います。まあ、直後はそれでよいと思います。

* 意見を発表するだけでなくて、たたかわせるというか、顔をあわせて対話式のディスカッションもしてみたいです。(L2)
→ 「科学と社会」でのディスカッションを想定しているようですが、時間的にここでは無理ですね。この授業ではメーリングリストを活用してください。でも、それじゃ顔が見えないかな(^^)

* この教室では難しいが、できるだけ発言者の顔が見える方がよいと思う。(L4)
→ 机を動かしてラウンドにするのも考えたのですが、ちょっと大変そうなのであきらめました。みんなの方が発言者の方を向いて聞くことにしましょうね。

* 誰しも意見はあると思うので、適当に指名もよいのではないかと思う。(C2)
→ 沈黙が続くようならそれも考えますが、今のように自発的に手が上がるのが理想的だと思います。






第6回(2004.11.18)
プロジェクトX「湯布院 ダム底からの逆転劇〜誕生・“日本一”の癒しの里」(NHK総合,03.11.18,43分)
 ダム底に沈む可能性もあったが、ドイツ視察を機に、田舎の風景を守ることを選択。今や、押しも押されぬ温泉町になりました!
→ バブル期に高級リゾート建設が押し寄せてきたが、景観と静けさを守るため、建設できないようにする条例を考案。建設省に過剰規制だと言われたが、町の担当課長が必要性を熱弁し、建設省の官僚達は条例の趣旨を生かすための文言の手直しを助言することで条例制定を事実上応援した。
 官僚って、どっちを向いてモノを考えるかによって、毒にもなるし薬にもなる! 要は、説得力ですね〜。心を打つかどうか。単に敵視しても、しょうがない…。

参考図書:★中谷健太郎『湯布院幻燈譜』海鳥社(1995年),1785円 ★木谷文弘『湯布院の小さな奇跡』新潮新書(2004),735円


【要約ベスト】
 今でこそ有名な大分県湯布院町の農村の静かな景観と文化を守りぬいてきた過程の物語り。かつては週末でさえ客の来ない宿もあるくらい無名で、経営の苦しい町で、役場や議会では町ごとダムに沈め、保証金をもらう計画まで検討されるほどだった。
 しかし、昭和46年借金までしてドイツの温泉地を視察した宿の主人たちや農家の人々が、心安まる保養地として農村を守り抜き町を立ち直らせる決意をした。全国の温泉地が鉄筋の高層ホテルにネオンを灯し、団体客を奪い合っていた時代に、頑なに田舎のたたずまいを守り続けた。バブル期には開発業者や銀行が町に殺到し、田んぼの値段は上がり、リゾートマンション計画が持ち上がった。建設できないようにする条例を立てることで阻止しようとしたが建設省に過剰規制と指摘された。しかし農民の熱い想いは官僚を味方につけ、ついに農村を守り抜き、湯布院を押しも押されぬ温泉町にした。
(文学部1回生 金城玲美)


【投票ベスト】 [kino-doc:274] 経済学部4回生 新井琢也
 よく「環境」=「自然」とか思われている節があるように感じますが、僕は違うと思います。ですから手放しに田舎の環境がいいとは思いません。そういうわけなので今回授業で田舎に好印象を抱いている人が多そうに見えたのは驚きでした。確かに今回の映像では田舎のきれいな自然環境を見せており、それを守ることの大切さをメッセージにのせていたためその影響が大きかったのではと思います。
 今回の映像では田舎ののどかな映像をプラスに捉えていましたが、住む人間の視点として考えたとき、不便さや観光産業以外に売りがないとかいうことを押し出すような映像を出したらみんなの感想は変わったのではないでしょうか?なにより映像の中に若者の姿が少なかったことは密かに印象に残りました。
 来年から就職で広島県の三原市に行くことになりましたが、新幹線の駅もあり、海もあり、山もあり、デパートもあるのに、駅前は何か閑散として寂れたイメージがありました。就職が決まったときは、近くの海で遊べることに感動していたのですが、落ち着いて現実を見つめると田舎もいいことばかりではないようです。
 湯布院も市町村合併の波に飲まれようとしていますが、観光客が見る田舎と、住む人間にとっての田舎は違うのではないでしょうか、だからこそ、ドイツまで行ったり、車の乗り入れ制限をしようとしたりするのではないでしょうか、現実はテレビの映像が伝えるほど楽ではないと思います。


【投票次点】 [kino-doc:270] 法学部1回生 藤井弥生
 「信念を持った人の力」とは何者にも勝るすごいものだな、と今回のドキュメンタリーを見て感じた。
 湯布院といえば、今の私たちから見れば国内有数の温泉地であり観光地であるということは言うまでもない。しかし、実は湯布院という観光地を作り上げたのは国でもなく県でもなく地元を愛する人たちの信念であり、その人たちと地元の行政が一緒になって頑張ったからなのだなと思えた。特に「街づくりをする」ということは、「観光地を作るというよりは、地元の人たちと行政がその土地の特色を生かす形で観光地を育てていくという街づくりをする」ことなのだと思った。
 湯布院の場合では、「街づくり」とは由布岳のふもとに広がる緑が基礎となり、その自然を生かしたカナエさんの味噌を生かすことであり、それらを湯布院の人々が大事にすることなのだなと私は感じた。しかし、そんな湯布院に平成の大合併の波が押し寄せている。
 湯布院HPの記載によると、ドキュメントでも言われていたように湯布院町の財政難が厳しいという。財政難のままで湯布院の「100年単位の町づくり」をするのは厳しいはずだ。しかし合併によってその基本方針・信念が崩れてしまうことはないのか。合併について湯布院の人間ではない私が是非を述べることは傲慢かもしれない。でももし合併が行われるのであれば、バブルを乗り越え今の湯布院を作ってきた人たちの信念を活かすことを忘れない形で行われることを私は願う。



【私(木野)の選んだベスト3】
[kino-doc:262] 文学部1 回生 増川かおり
 私が、印象深かったのは、マスコミの力と国の力の大きさでした。大地震が起こったとき、たった1軒の旅館の崩壊が大々的に報道として取り上げられた。その結果、「湯布院、全滅」という噂が立った。湯布院の旅館はマスコミのせいでますます経営が困難な状態となった。しかし、その後、マスコミで湯布院の独特な宣伝方法が取り上げられたことで、客が増えた。
 国の力、それは湯布院でのダム建設・リゾート法で対象としたこと・それに対抗するための条例の却下…これらは国の権限を駆使した良くない所。湯布院の人々に力を貸し条例案を考え直した・建築基準がその地域にとって有利なものとなった…これらが国の権限を国民のために使用した良い点。
 マスコミと国の力は本当に大きいんだなぁと改めて思った。今までの、公害問題のことと比べると同じ国の政府がしたことだとは思えない。マスコミは私たちの周りにイヤというほど存在している。そんな中で、私たちは情報を選択しなければならない。
 国の良くない力がまた湯布院の街に迫っている。庄内町、狭間町との合併である。これはもう決定のようだ。合併するのは、複雑な気持ちだと思う。私の住んでいるところも合併の対象になっている。別に今の町に愛着とかがあるわけではないけど、なんか複雑な感じがしているのも事実だ。

[kino-doc:264]
文学部1回生 大塚千穂
 小高い山、その裾野に広がる田園風景、そして町のみんなが顔見知り。湯布院町を見て、きっとここは日本人が心に描く故郷のイメージそのものなのだろうと思った。
 湯布院町ほどではないにしても、私も今年の4月に大阪に来るまでは岐阜県の小さな町に住んでいたので、田園や川などを見ると実家を思い出し、ちょっとほっとする。大阪に来るまでは都会といわれるところに憧れを抱いていたけれど、大阪に来てみて、人の多さや水の味、空の狭さに疲れを助長されることもしばしば。確かに今の生活は楽しいし、何かと便利ではあるけれど、やっぱり時々帰って充電したいなぁと思う。湯布院町は、ちょっと疲れた日本人がエネルギー補充するのにちょうどよいのではないだろうか。
 町や緑を開発の手に染まらないようにすることは、開発を進めるよりもはるかに大変なことだと思う。町全体の「湯布院を守りたい」という想いが、「一番行ってみたい温泉地」という結果に結びついた。初めから観光地化を目指していたのではなく、住民の暮らしを守ろうとしたことが住民全体を巻き込む町興しにつながったというのは、町の活性化の理想的な形だと思った。合併問題に関しても、どんな選択をするにしても、自分達の暮らしをどうしていきたいかを大事にしていけば納得のいく未来につながっていくと思う。

[kino-doc:289]
文学部4回生 西川裕美子
 湯布院の人々は、非常に運がよかったのだと思った。もちろん、町の人たちの熱意や、行動力などは賞賛すべきものがある。しかしみんなこの方向で書いているであろうから、少し別の方面から考えてみる。
 ドキュメンタリーで見た限り、湯布院はもうとっくになくなっていてもおかしくない町だ。ダム計画あり、客が来なくてつぶれそうになることあり、地震で壊滅説が流れることあり、バブル期に乱開発の対象になることあり・・・。映像中に登場した人々に先を見通す力があったのか、それとも天が味方したのか、湯布院はさまざまな幸運が重なって今の姿で生き残った。だが、もしこれらの活動がうまく行ってなかったとしたら(例えば、西ドイツの村の副市長が嫌な奴だったり、馬車が当たらなかったり)、町役場の人々は非難轟々だっただろう。そう、たまたまなのだ。一生懸命やれば必ず成功が約束されるというのなら、人々の苦労はもっと少ない。
 また、話はここでハッピーエンドではない。「最も行きたい温泉地」の1位に選ばれたということは、それだけ多くの観光客が訪れる、ということだ。そうなれば当然旅館や土産物屋、それになんといっても人間の数が増え、自然を守ることはますます難しくなっていく(得てして観光客というのはマナーが悪いことが多い)。ドキュメンタリーのラストにあった道いっぱいの人々が歩いているシーン、あれも湯布院なのだ。きっと自然の豊かさを強調するため、あのシーンまでは観光地を思わせるカットを意図的に排除してあるのだろう。車の乗り入れ制限についても実験を行ったようだが、反応は賛否両論さまざまだ。極端なものでは「二度と湯布院には行かない」という意見もある。観光客を受け入れつつ『売り』である自然をいかに守っていくか、これが今後の大きな課題だ。

参考:湯布院町ホームページ http://www.town.yufuin.oita.jp/






第7回(04.11.25)
NHKスペシャル こども・輝けいのち第1集
「父ちゃん母ちゃん、生きるんや〜大阪・西成こどもの里」
 2003年2月9日放送 (50分)

 いろいろな事情で児童館に暮らす子供たち。博クンほか3人の1年に密着
→ さまざまな事情で人生を投げてしまい、お酒におぼれる父親・母親。でも、巻き込まれずに懸命に踏みとどまってる子供たちを追う番組。親への思い、弟妹への責任感…、彼らを温かく見守る人々の存在…。グレても不思議ではない状態だけど、愛するものを守るため!ならではの(火事場の)馬鹿力♪
 「あそこの家は…」と指差す人のほうが多数派だろうが、頑張っている子供たちの足を引っ張るような真似だけはしたくないものだと思いました。


 現在、「こどもの里」の土地と建物は無償で貸与されているが、2年後には買い取らなければ閉鎖に追い込まれることになるそうです。そこで、現在、土地建物購入のため約2000万円の資金集めに奔走しているとのことです。
 その後、どんな経緯を辿ったのか謎ですが、現在(2008年1月時点)でも「こどもの里」存在しており、HPも出来てます♪ → 「こどもの里」HP
●西成「こどもの里」への資金援助について→ 郵便口座:00960-3-145831こどもの里ともの会


【要約ベスト】
 児童館「西成こどもの里」は、アル中・離婚・入院等、親達の様々な事情により、親元を離れざるを得なくなったこども達の里親施設としての顔を持つ。この施設には様々な子ども達が入所してくる。
 「お父ちゃんのオシメ変えるのきつい。でもお父ちゃんは好きや」そう言っていた香菜ちゃん。お父ちゃんはアル中から立ち直ろうとしている。
 「いっぱいいっぱい」そう語る博君だが、アル中の母を支え、再び家族を一つにする事は、彼の肩に全てかかっている。
 靭帯断裂のため体操大会出場を逃した健一君。アル中から回復途上の父は、息子の痛々しい姿に涙を見せる。健一君が始めて目にした父の涙だった。
 彼らはいずれ、里から旅立つ。香菜ちゃんはお父ちゃんと共に、実家のある九州へと旅立つ。博君は生活保護を受けながら、母兄弟5人での暮らしを再開する。健一君は、退院した父と暮らすことを決意する。
 館長は、母親の前で売春させられたこどもの「大人は大嫌い。でもお母さんは好き」、という言葉が忘れられないと語っている。そして今も、入所しているこども達がいる。
(文学部1回生 木下 衆)


【投票ベスト】  [kino-doc:318]  文学部3回生 小山 遼
 今回の番組の感想を端的にいうと、番組の子供達すごい、あとうちの親もスゲエ!という単純なものです。
 ただ私がほかの受講生の人と少し意見が違うと思ったのは私が(授業後の感想でも少し言いましたが)番組を見終わった後は大人にやや好感じみたものを持ってました。自分なりになぜかを考えると、もちろん彼らには批判されるべき行いもあり、番組途中では義憤みたいなものを感じる場面も多々ありました。が、やはり最終的には彼らなりに子供たちのことを考えて行動していたので単純によかった、よかった、という感じに完結していました。
 人間というのはやはり、強い人・弱い人、強い時・弱い時があると思うので、間違ったこともやってしまうのではないでしょうか? しかしそういう時にこどもの里のような失敗を修正させるような機関があると、今回の場合でいうと失敗者の親にもその被害を受けた子供にもまた幸せになるチャンスが生まれます。今回の番組では子供たちの力に注目していましたが、こどもの里を運営されている人も潜在的な子供の力と眠ってしまった大人の力を引き出すというとても崇高な仕事をしていると思います。
 外部の人間である私達は批判や自分達への教訓ということだけでなく、サポートすることもできるのではないかなと思うので、週明けには少しだけでも振り込んどこうかなと思ってます。


【投票次点】  [kino-doc:331]  法学部3回生 古賀麻未
 ある意味人間は、成長につれて生き難くなってしまう生き物であり、そのために様々な生きる知恵を蓄えようとするのかもしれない、と思った。明日に向かって、決して逃げ出さないあの子たちの力の源は、紛れもなく子ども特有の純粋さ、無邪気さである。
 理性と本能は正反対のものとして連動しており、大人になればなるほど自分の意思だけでは行動できなくなる。自分にとって必要なものや好きなもの、正しいものを貫き通すことは難しく、貫いたとしても周りから評価されることは圧倒的に少ない。子どもじみた行為は決して大人のとる行為ではなく、本能=煩悩のように解される場面もあるだろう。
 しかし、子どもたちは全くそう思っていない。大人のように計算しないからである。大好きな親と一緒に暮らしたいという気持ちだけで、あそこまでパワフルに動ける大人がいるだろうか?親の行動にあそこまで真剣に腹を立て、向き合える大人がいるだろうか?打算的にしか動けなくなっている自分が悲しくなった。
 「純潔を突き進むならば純潔を蝕もうとする邪悪よりも邪悪さを持っていなければならない。」という言葉がある。子どもたちの権利を確立しようという動きは多数あるが、とにかく子どもたちの「核」である純粋さと無邪気さを脅かすことがないような社会になってほしい。子どもたちが「核」を失わないように、ろ過装置のようなバリアをつくるのが、子供たちの権利保護につながるのだろう。



【私(木野)の選んだベスト4】
[kino-doc:310] 文学部1回生 大塚千穂
 最初は、豊かと言われる日本でも、こうやって生活しなければならない子供がいるんだなぁとぼんやり考えながら見ていました。授業で誰かが言っていたように、外国のストリートチルドレンや働いて家族の生活を支えている子供たちの存在は認識しているのに、今日のドキュメンタリーのような、自国の、しかも自分と年齢の近い子の存在を、私はちゃんと意識したことはなかったかもしれないと考えながら、でも、その感情は自分とはちょっと離れたところのことのような感じでした。
 ところが、途中で私の目が画面に釘付けになりました。そこに映っていたのが、私の知り合いだったからです。彼とは、今年の夏、私が短期で入ったバイト先で知り合いました。とても明るくて、やんちゃな高校生だなぁという印象でした。いろんな話をしましたが、ドキュメンタリーにあったような家族の事情は何も知らなかったので、驚くと同時に、なんとも言えない気持ちになりました。(かわいそうとかいう同情の気持ちではありません。)
 きっと彼が登場していなかったら、私は「大人でさえ、つらさ(伴侶の死など)を紛らわすためにお酒に走ったり入院したりしているのに、そのつらさ(こどもから見ての親の死など)に加えて、つらさゆえに精神的に不安定になっているもう一人の親の世話までしているなんてすごい」とか「子どもが親を想う気持ちの強さはとても強いんだと感じた」などと書いていたと思います。
 でも、それではまだ、自分のなんとも言えない気持ちを言い表すには足りなさ過ぎて、かと言ってどう言っていいかわからない状態です。彼らの立場に立って考えようと思っても、それで抱く私の感情はあくまで想像でしかなくて、それでわかったような気になるのはとても失礼だと思うし、変な同情はしたくないです。
 なんだかまとまりのない文章になってきていますが、今の私はこういう感じです。もうちょっと自分の思いをうまくコトバにできるようになりたいなと思います。みんなのメールを読みながら、もう一度ゆっくり考えたいと思います。
 P.S(04.12.3) 博くんの就職が決まったそうです。彼なら、これからも家族を支え、家族に支えられ、頑張っていけるんだろうなと思います。私も、フィールドは違っても、負けずに主体的に頑張っていこうと思いました。

[kino-doc:297]
文学部1回生 平井 潔
 頑張る子供達を見ていて、親は何をやっているのかという気持ちが強く残った。その後、過去の事情をほとんど知らずに親だけを責めるのはよくないだろうと思い直した。
 よっぽどうまくいかないことがあるから、酒におぼれてしまうのだ。彼らと同じ状況に陥っても自分は飲まずにいられる、とは言い切れない。アルコール依存症は自律神経、消化器、循環器、腎臓に深刻な影響を及ぼし、その上に情緒障害と幻覚症状を引き起こす(『知恵蔵2004』、朝日新聞社)。こんな病気にかかってしまって、苦しまないはずがない。誰より本人が後悔しているだろう。だとすれば、彼らから一番遠い立場の人間としても、「飲んだくれているからそうなるのだ」と責めるより、「飲まずにいられなかった事情があるのかもしれない」と次につながる考え方をするべきだろう。
 あと、今回の番組で取り上げられていたのは状況が改善したケースばかりだったけど、それがほんの一握りに過ぎないということも、忘れてはいけないと思う。
 自分には好きなことを存分にする機会が与えられている(生活に全く困らない)のだから、それを無駄にしないようにしよう、それが取材を受けてくれた子供達に対する最低限の礼儀だろう、と思った。

[kino-doc:329]
法学部2回生 木村太朗
 今回私はこのドキュメンタリーを賞賛できない。たしかに、番組に出てきた子供たちは素晴らしいし、こどもの里を出て行ったのも新たな一歩で、心から幸せを願いたいと思う。でも、彼らのように家庭を壊した、あるいは壊している親を許す子はむしろ少ないと思うし、私もそうだ。だから、少なくとも親を愛していない子供も一人くらいは紹介してもいいんじゃないかと思った。だから私は親を憎む子のことを書きたい。
 私の友達にも西成で暮らす子が居たが、彼女は自殺を試みることで父親に復讐しようとした。そして、西成で暮らさなくとも父親の死を願う奴もいる。彼らの話を聞いているとそこには暴力がある。大体は酒も絡んでくるがないときもある。しかも、その暴力は殴るとかだけでなく、精神面に及ぶ。
 例えば自分が家に居ないうちに家が燃やされていたら、母が殺されていたらどうしよう、こんなことを普通に考えるようになる。その親とご飯を一緒に食べると味がしない。でも、自分がご飯を食べなかったりするとまた機嫌が悪くなり暴れ出すのではないか。日常のはしばしにそういったストレスやトラウマの種を抱える。
 そうなるとグレルとかぐれないの問題ではなくなってくる、そんな余裕はない。一見やんちゃそうに見えても彼らはとてもいい奴が多い。それは親のむちゃくちゃな破壊を見て育った子供は、少なくとも私の知る限りは、自分は絶対そんなことはしてはならないと強く考えているからだ。
 彼らが許さないのは自分を苦しめた親とその親類似の行為である。無償の愛が存在するなら無償の憎しみも存在する。無償の愛を親に向けることで幸せを掴んだり掴もうとしている香菜、博、健一、それに対して親に憎しみを持ち続けることで劣悪な環境を生き抜いてきた子供たち、愛と憎しみという真逆の原動力でもどちらも前を向いている。
 このドキュメンタリーはあまりに無償の愛の素晴らしさを喧伝していた。親に暴力を受け憎しみをばねに頑張ってきた子供はこれを見てどう思うのか。確かに愛は憎しみより輝いている。出来るなら彼らだって愛を持ちたかった。これではあまりに残酷じゃないか。番組意図はべつにあったのも知れないがそんなことを考えた。

[kino-doc:317]
法学部4回生 時田靖敬
 ドキュメンタリー後の感想で、テレビに映るのだから、そんな中で子供に父母が好きか?と聞いても好きと答えざるをえない、という意見があった。僕はあまり深く考えずにドキュメンタリーを見て、単純にいい子らやな〜と思っていたのでその意見を聞いて初めてなるほど、そういう考え方もあるな、と思った。
 確かにドキュメンタリーの主旨から考えると、テレビ局側はそのような答えを引き出さざるを得ず、結果として子供らに無理やり奇麗事を言わせているという印象を視聴者に与えてしまうのかもしれない。しかし、ならば、僕たちはその場で親に対する憎しみを吐き出す子の姿を見て、さもありなん、と頷きたいのだろうか。自分を捨てた親など一生許さない、と。
 確かに出てきた親たちは批判されねばならない点が多くあった。他人事であっても十三歳の子供を一人残して失踪するなどといったことは深い怒りを覚える。だけど、子供のことを思うならやはり、そんな親なんかひどい、という言葉を子供の口から言わせるよりも、例え本心ではないにしろ、正論をブラウン管ごしに言わせることも、意図してかどうかは別として、一つのよい方法だったのではないだろうかと思う。
 子供らが親に対する恨みを吐くのを周りの大人たちが是認する、というのはひどいめにあった子供の気持ちを酌む、という点では確かに素晴らしいと思うが、子供たちには何の咎もないのに、我が親を恨みながら生きる、という歪んだ生き方をするのも仕方ない、あなたたちはそんなに辛い思いをしたのだから親を恨んで生きていっていいよ、という見方にもとれるのではないかな、と思う。それは、やはりどこか色眼鏡でこのような子供たちを見てしまうことになっているのではないだろうか。







第8回(04.12.2)
土曜インタビュー2004にっぽん NHK総合
「学ぶ力で羽ばたいて〜大阪市助役・大平光代」 2004年5月29日放送 (40分)

 弁護士・作家であり、教育・文化担当の大阪市助役となった大平さんに現在の心境を聞く。
最新刊:『応援します、あなたの旅立ち 大平流「独学」のすすめ
→ 初めて大平さんを見たのですが、目がすわっている感じ…。かなりやり手の仕事師ですよ、こりゃ。こんなんを助役にして使っている大阪市長(初代市長の孫)って、器の大きな人かも…。
 子供を「良い子」ではなく、「親にとっての都合の良い子」にしていないか、考えて欲しいとのこと。子供は、正面から自分と向き合ってくれる大人を、心のそこから求めている。ありきたりの言葉では、心を閉ざしてしまう、ほか、重たい発言多数。
著書:大平 光代『だから、あなたも生きぬいて』講談社文庫(2003.5)


参考HP
http://www.nhk.or.jp/interview/docs/2004/05/29.html
http://cw1.zaq.ne.jp/osakavol/volo/volo2003/volo3826.html


【要約ベスト】
 今から1年前、大阪市の新助役に就任した大平光代さん。大阪市初の民間出身女性の助役として注目を集めた。それだけでなく、大平さんの異色の経歴も話題となった。中学生の時にいじめを苦に自殺を図り、自分の居場所を求めて学校を飛び出し暴走族に入るなど非行に走ってしまう。16歳で暴力団組長と結婚。周囲に認めてもらおうと刺青も。19歳で離婚し、現在の養父で父の友人の大平氏と出会う。大平氏の熱心な勧めで更生し、何年も独学で猛勉強をし、ついには司法試験に合格。その後10年近くは自身の経験を元に、特に子供の非行問題に尽力をつくしてきた。
 大平さんは子供を持つ親に「親にとって都合のいい子を求めるな」と訴える。表面上はいい子でも、その自分に疑問を感じ、本当の自分との狭間で苦しみ、自らを表現するすべを知らない子供たちに自分の居場所を与えてあげてほしい。ありきたりな言葉じゃなく、子供が真に望んでいる言葉をかけてあげてほしいと考えている。
(理学部2回生 大曲健介)


【投票ベスト】  [kino-doc:375]理学部2回生 石塚隼也
 大平光代・著書の「だから、あなたも生きぬいて」を読んだことがあり、大平さんがとてつもない人生を歩んできたのは知っていた。客観的に見て、どん底と思える状況からの社会復帰には、ただただ「すごいことだなあ」と感心したのを覚えている。
 なので、大平さんに対するイメージはある程度頭の中にあった。「負けず嫌い」「自分の筋を通す」「厳しくも、親身に少年たちと向かい合う」。ドキュメントのインタビューを見ても、「太平さんは子供のことを親身に考えてくれる人」という印象を特に受けた。
 ただ、ひとつだけ「おや?」と感じたことがあった。大平さんが「殺人を犯した加害者の弁護はしない」「それは、他人を殺すという一線を越える前に、殺人が許されないことだと子供に伝えたいためだ」「私が犯罪被害者の支援活動をしているからだ」と言っていたことについてだ。
 これはつまり、大平さんが「殺人を犯すという一線を越えてしまった子はもうどうしようもない」と見捨てているということではないか。ここに疑問を感じる(もちろん殺人が許される行為でないことは重々承知しているが)。一線を越えた人間であっても社会復帰は可能である。これは、他ならぬ大平さん自身が、「ハラキリ」という、通常では考えられないような方法で自殺未遂を図っていながら、社会復帰を遂げたことで証明されているではないか。
 大平さんは現在の義父に見捨てられなかったから更正することができたのだろう。それなのに、大平さんが殺人を犯した子を見捨てるのはどうしてか。太平さんは、自分以外の一線を越えた者は更正できないと考えているのか、それとも自分のした「ハラキリ」の自殺未遂は一線を越えてはいないと考えているのか。
 大平さんの主義を前面批判するような内容になったが、そんなことはない。ただ、「殺人者は救えない」と言う意見を大平さんが出していることは少し腑に落ちないと思う。


【投票次点】 [kino-doc:381] 理学部2回生 大曲健介
 僕は中学・高校時代、まじめな自分と素行の悪い自分という表裏を持っていた。成績は良い方でまじめな面が多かった。その反面、(ちょっと悪いくらいがかっこいいという風潮に流されたのか、「まじめ」と評価されるのが恥ずかしかったのか…)髪を染めたり、教師に反発したりと悪ぶってみせた。時には犯罪行為に手を染めたこともあった。しかしある日を境に、一切をやめた。何かに影響を受けたわけじゃないが、親や将来のことを考えて、ふっと我に返ったように自分で判断した。
 本来は(僕は時間がかかったが)一線を越える前に自分でちゃんと判断出来るべきだ。ただ、そういう判断能力がないままに成長してきてしまった人が多いのだろう。現在問題視されているのはそういった精神未熟者なのではないだろうか。そういった人達をサポートできる環境が周囲にあれば道を踏み外すことも少ないだろうに。
 余談だが、僕は冗談半分で父にこんな質問をしたことがある。「(少年が殺人を犯したというニュースを見ながら)僕がもしこんなことしたらどうする?」すると父は、「お前を殺して、わしも死ぬ。」とだけ答えた。父親に「殺す」と言われたのになぜか嬉しくなったのを覚えている。自分のことを真剣に考えてくれる人がいるというのは人として必要不可欠なこと。本当はそれが親や親友であるはずなのだ。大平さんも、もし親が体当たりで接してくれたり、親友だと思っていた相手が裏切っていじめに加担したりしなければ、彼女の背中の観音様と蛇の刺青は必要とされなかっただろう。



【私(木野)の選んだベスト3】
[kino-doc:345] 文学部2回生 米田はる香
 今、凶悪犯罪を犯すのは、いわゆる「いい子」であるように思う。つまり、大平さんの言う「いい子を演じる子ども、自分の本音を誰にも言えない子ども」である。自分の気持ちを吐き出す糸口が見つからず、あるとき外から見れば突然爆発する。私の小・中学校の頃の経験からすると、先週見たこどもの里にいるような親と暮らすことのできない子どもは、やんちゃであることが多い。しかし、普段の言葉や行動は荒々しいが、卒業のときに号泣するのは彼らであるし、意外と優しい面が見えたりする。報道されている事件でも、より凶悪な事件を起こすのは「やんちゃな子」よりもむしろ「おとなしい、普通のいい子」である。
 普段から「いい子」を演じる癖がついている子は、自分の本当の気持ちすらわからなくなる。当然、周囲にどう伝えていいのかもわからない。そのイライラが積もりに積もって抱えきれなくなる。私自身も、本音を言えないときや伝えようとしても伝わらないときはイライラする。また、なぜかイライラしているときに誰かが話を聞いてくれると、不思議と気持ちが軽くなることもある。
 大平さんは、若いときに暴力という形ではあったけれど、自分の気持ちを何かにぶつけることができたからこそ、今の大平さんになることができたのだと思う。今の若者は、それすらできない人が多い。子どもにとって必要なのは、自分自身を表すことである。もっと自分自身を外に吐き出す機会を子どもに持たせてやることが第一に必要であると思う。


[kino-doc:366] 文学部4回生 西川裕美子
 「とてもそんな子には見えなかった」、「あんないい子がどうして」。少年犯罪があるとテレビから聞こえてくる言葉。ここにもやはり、大平氏が言う「都合のいい子」が見え隠れする。
 なぜ「都合のいい子」、つまり親から見た「いい子」が問題を起こすのだろうか?私はその理由を、彼らが常に自分を押し殺してきたという点にあると考える。子どもにかまってあげない親は、問題の解決を親に求めない子どもを育てる、と大平氏は述べていた。子どもは親の気を引きたいがために、親の求める子ども像を自分の本当の姿とは違うと知っていながら演じる。そこには自分を表現する場所がない。前回のドキュメンタリーの子どもたちはその点、素直に親の愛情を欲していることを表現できていた。また、非行に走るというのもその一種の変形であると見ることができる。それもできない子どもたち、つまり理想の子ども像を演じることに縛られている子どもたちは、常に自分を殺していなければならない。もし理想の子どもを演じきれなくなれば、自分は嫌われるのでは?と考えるからだ。そして限界点を突破したとき、思いつめた末に事件を起こす。
 この点から見れば、悩める子どもたちの相談に乗るという彼女の行為は非常に有効な手段である。皆さんは「夜回り先生」をご存知だろうか?彼(水谷修)は仕事(教師)以外の時間のほとんどを悩める子どもたちとのつながりに費やしている(その電話代は凄まじい)。相談を寄せてくる子どもたちはやはり、親に自分をさらけ出せない者が圧倒的に多い。大平氏の主張は核心を突いていると感じた。
参考『夜回り先生』:DVDVHS


[kino-doc:372] 文学部1回生 津川真由子

 「居場所がなかった 見つからなかった
  未来には期待できるのかわからずに

  いつも強い子だねって言われ続けてた
  泣かないで偉いねってほめられたりしていたよ
  そんな風に周りが言えば言う程に
  笑うことさえ苦痛になってた」

 これは浜崎あゆみの「A song for ××」の歌詞です。この歌にものすごく共感した時がありました。おそらく私は自分で都合のいい子を演じていた。それに満足していた。親の言うことに従い、勉強も真面目にこなし…。けれど高校生になって自分の限界を感じ、優等生はやめた。それはある意味肩の荷が下りて楽だったが、そうなってしまった今は真っすぐなあの頃に戻りたい。今や私は「都合のいい家族」を求めてしまっている。大事な存在ゆえにわかってもらえるという安心感から、思いやりの欠けた態度をとってしまうのである。家族は大事といいながら、何を気遣うわけでなく自分のやりたい放題の毎日。親の言う事を聞けばいいのではなく、大事な人を大事にするという当たり前の配慮を忘れてはいけないと思った。
 習熟度別学習について。物事には必ず長所・短所がつきまとう。だから一概に習熟度学習が良いとも悪いとも言えない。けれど今の現状打破の為に何かしようと行動を起こしていることが素晴らしいと思う。何事もやってみなければわからない。勿論、入念な話合いは重要だが、考えているだけでは事は進まない。マイナスな状況をプラスに変えようとしていくパワーを持つ大平さんは素直にかっこいいと思う。







第9回(04.12.9)
NHKスペシャル 「誕生の風景」(NHK総合,2001.3.24,49分)
 アメリカで行われている「凍結受精卵の養子縁組」、中絶が禁止されているフィリピンでの避妊への取り組み、核実験場の近隣に位置していて障害児が多いカザフスタンの村。三つの命の誕生の風景を追う。同じ誕生に、かくもさまざまな種類があるものかと。

参考図書
生命操作を考える会編『生と死の先端医療―いのちが破壊される時代』解放出版社、1998年
生命操作事典編集委員会編『生命操作事典』緑風出版、1998年
ロジャー・ローゼンブラット(くぼたのぞみ訳)『中絶―生命をどう考えるか』晶文社、1996年
グループ・人権と性『ア・ブ・ナ・イ生殖革命』有斐閣、1989年
御輿久美子他『人クローン技術は許されるか』緑風出版、2001年
J.W.ゴフマン(伊藤昭好他訳)『人間と放射線―医療用X線から原発まで』社会思想社、1991年
原田正純『胎児からのメッセージ―水俣・ヒロシマ・ベトナムから』実教出版、1996年
今中哲二編『チェルノブイリ事故による放射能災害・国際共同研究報告書』技術と人間、1998年



【要約ベスト】
 この番組は、アメリカ・フィリピン・カザフスタンと言う三つの国における、それぞれの国での生命の誕生の瞬間を追ったドキュメンタリーです。
 アメリカでは凍結した受精卵を生命であるとし、養子縁組を行う夫婦にカメラを向けます。受精卵を渡す側と受け取った側、それぞれの夫婦の心の葛藤を映し出します。
 フィリピンではスラム街に住むある家族にスポットを当てます。中絶を禁止されたこの国で、この家族には4人目の子供が生まれます。出産の翌日は無料で不妊手術が出来ますが、安静にしている時間が無く、妊娠の可能性を残したまま日々の食うや食わずの生活に戻ります。
 最後のカザフスタンでは、核実験の影響と思われる、先天性障害を負った子供が通常の数倍出る村に住む夫婦に焦点を設定します。最初の子は脳に障害を持っていますが、次に生まれてくる子に「兄の遊び相手になって欲しい」との願を託します。最後は母に捧げる感謝の歌で締め括ります。
(経済学部4回生 岩田圭介)


【投票ベスト】 [kino-doc:426] 文学部2回生 金城未希
 アメリカのメリンダ夫妻の映像を見ていて、ふと「血の繋がった子供」を持つことは重要だろうかと思った。人工授精の成功率は2割から3割と低く、母体にも危険を伴う。一方で、世界には貧困で命を落とす子供たちが山ほどいる。こっちで余っている子供を、子の足りないこちらに回す、そんな算数みたいな解決が良いとは思わないけれど、死んでいく命が多くあるのに、「自分の子供」を持つためにどんどん人間を増やしていくのが正しいことなのか判らなくなったのだ。
 他の二組の夫妻が口にした「育てられる財力がないのに子供が多すぎる」とか「子供が核実験の影響で障害児になっていないか心配だ」というのは、両親ではなく社会が引き起こした問題だ。フィリピンの雇用問題や、放射能被害の補償問題については国ぐるみで取り組まねばならない。また、放射能被害に限らないことだが、生まれてきた障害者が快適に暮らせるような社会作りも重要だ。どれも個人の力では解決できない、社会全体の課題である。
 もちろん、メリンダ夫妻のような、「妊娠しにくいけれど自分の子供が欲しい」という感情も大切だし、生まれてくる子供と幸せになって欲しいと思う。ただ、生殖医療を役立てるのも素晴らしいが、その技術が活用される「社会」にも目を向けなければいけないと思うのである。豊かな国で子供が産まれ、貧しい国で子供が死ぬ、そんな世界は恐ろしい。受精卵診断の発達も良いが、障害児を受け入れる社会が整っていなければ、受精卵診断は「障害児抹殺診断」に繋がっていってしまう。私達は何をしようとしているのだろう。そう思わされる番組だった。


【投票次点】 [kino-doc:403] 文学部1回生 津川真由子
 望まれて生まれてくる子も、望まれずに生まれてくる子も、生まれる家庭を選ぶことはできない。勿論、親には子供を養う責任がある。私は授業後、責任が果たせないならば中絶しても仕方がないと思った。でももしも自分に子供ができたらおろせるだろうか。お腹の中に芽生えた小さな命を自分の都合で殺してもいいのだろうか。倫理的には命を奪うことはいけないことであろう。でも倫理という言葉をふりかざせば、科学に支配されているこの世の中は間違いだらけだ。人工授精でできた子供は人工的な子供であり、倫理に反しているのか。でも望まれずに生まれてくる子よりも、よっぽど必要とされて愛される子であるはずだ。血のつながりのない子供を里親として立派に育てあげる人もいる。不妊治療をして子供に恵まれた人のホームページには子供を愛する気持ちが溢れていた。私は親の責任といえば、まず経済力と考えていたけれど、そうではないのかもしれない。愛せるかどうかだと思う。人はまず親に愛されて、人を愛することを知るのだ。だから親はめいっぱい子供を愛してあげなくてはならない。でないと人を愛せない人間が育ってしまう。愛は学ぶものでなく体感して初めて知るものであると思う。
 そうすると、中絶もひとつの愛のかたちなのかもしれない。例えば経済力がない場合、生まれてくる子供が障害児だとわかってしまった場合。愛するがゆえに殺してしまうこともあるのではないかと思う。中途半端にしか愛せないなら、初めから何もない方がマシだ。でも、殺してしまえば全て終わり。愛せるかもという可能性も殺してしまうことになる。可能性が0%でない限り、放棄はしない方がよいと私は思う。命はふたつとしてないものだから。どんなカタチであれ、愛してあげることが親の使命だと思った。



【私(木野)の選んだベスト4】
[kino-doc:406] 文学部1回生 木下 衆
 最も興味を引かれたのはカザフの例だった。原発被爆問題に興味を持っているからでもあるが、何より僕の従兄が知的障害者であるからだった。
 家の伯父伯母はこれ以上子どもをもうけない選択をした。しかし従兄が僕に「兄弟が欲しかった」と言う度に、僕は彼に妹や弟がいたらどんな家庭になっていただろう、と思う。そして従兄の問題を自分達だけで抱え込んだ伯父を見る度に、彼等の苦悩の深さを思う。だから両親に相談に来たアルアの勇気に感心すると同時に、伯父母も抱え込まず相談に来たら楽になったのに、とも思う。そんなに悩まなくても、皆支えてあげられたのに。妹ができ、ムサはもっと幸せになるはず。僕の従兄はうらやましがると思う。
 アイマンの誕生会での「母への感謝の歌」にしんみりする。祖母は伯父(前者とは別)に暴行されて、痴呆になってしまった。多くの記憶を失っても、彼女は「洋一は」と自分を殴った息子を案じる。裁判でも「悪くない」と言い張る彼は、「母への感謝」を聴いて何を思うのだろう。彼女は「洋一が生まれた時は本当に嬉しかった。伸二(家の父)はそうでもなかったけど(笑)」と言っていたのに。
 カザフは特にそうだが、三家族全てが他人事とは思えなかった。全ての家族に共通する、子どもが生まれた時の笑顔に感じるのは、「家の親父も一回ぐらい出産に立ち会えたら人生変わっただろうに」という事。そして人間が自分の誕生の時を見られないのは不幸だ、という事。ただ、ビデオ録画で解決すべきではないと思う。「それは絶対に見られない」、という負い目を内包して生きるのが人間であり、両親への感謝だと思う。

[kino-doc:413] 法学部4回生 時田靖敬
 凍結受精卵の話で一つ思ったことがある。なんのためにこんなことをするのだろうか、ということだ。正直言ってこのような行為をするということに違和感がある。子供が欲しい、という気持ちはわからないでもない。妊娠がかなわないという状況で不妊治療をす、というなら理解できるし、将来もしかしたら自分自身もしているかもしれない。しかし、なぜ赤の他人の受精卵をわざわざ腹を痛めた子供として、産み出さねばならないのだろうか。どうせ他人ならば養子でよいではないか。どのみち血のつながりなどないのだから。それとも腹を痛めた子供でないと本当に愛せないというのだろうか。凍結受精卵などというややこしい手段を選ぶことで何が得られるというのだろう。僕にはただ単に大人のエゴにしか見えなかった。
 凍結受精卵によって生まれてくる子供の気持ちをドキュメンタリーに出ていた夫婦たちは考えていたのだろうか? 出産に対して何の点で役割を果たすのかを悩んでいたパック氏、自分たちの子供が生まれてしまったら冷静ではいられないと言っていた提供した側のダン夫妻。全て自分ありきの言葉にしか見えなかった。生まれてくる子供は遺伝上の親をおそらく知ることもないまま生きていくのだろう。しかし何かの拍子でそれを知ってしまったら・・・。自分が本来廃棄されるべき運命であったということさえまでも。そういうことが起こる可能性があることにも気づかず、あるいは目を背けているように感じた最大の要因は、この生まれてくる子供を、神の思し召し、と評したパック夫妻の言葉だった。

[kino-doc:420] 文学部4回生 西川裕美子
 中絶は現在日本で、選択肢の1つとして現実に存在する。私は別に良いと思う。みんな経済的負担のことばかり言っているけれど、例えば女性がレイプされて子どもができてしまうケースなどを考えると、それこそ「望まれない子ども」になるわけだ。
 アメリカの夫婦のケースを見て私が思い出したのは、タレント向井亜紀氏の代理母による出産だ。結婚6年目にしてようやく初めての子どもを授かった彼女は子宮頸ガンで堕胎せざるを得なかった。子宮を摘出し二度と子どもが産めない身体になった向井氏はアメリカに渡り、代理母の出産により双子の男児の母となった。この時私は単純に、向井氏側の気持ちに寄り添って成り行きを見ていたため、双子の出生届が受理されないのを遺憾に思った(この言葉使ってみたかった!!)。だがよく考えると、そこには様々な問題点があったはず。代理母をビジネスとして扱う企業や「母」という言葉の問題、法の不整備等々。アメリカでは合法の州もあるためこのようなくい違いが発生することがある。
 今回のドキュメンタリー中のケースも合法ではあるが、まだまだ「?」となることも多い。親ってどこからどこまで? 子どもにとっての幸せとは?自分の分身(クローン)はダメなのに、子どもを人工的に作るのは許されるの?考えなくてはならない問題は多々ある。結論はそう易々と出ない。だが人間として、種として、個人として、真剣に向き合っていかねばならない問題であるのは間違いない。身近である分、余計に難しい。
<参考ホームページ>

1. 向井亜紀の代理母インタビュー by 大野和基
2. All About 不妊治療
他多数。


[kino-doc:441] 理学部1回生 服部友香
 凍結受精卵の養子縁組について意見を述べようと思う。
 凍結受精卵を提供した夫婦の様子を見て「なんて勝手なことを言ってるんだ。なんで安易に受精卵を提供したんだ。」とはじめは怒りを覚えた。しかし、もう一度冷静に考えてみた。なぜ彼らは凍結受精卵、すなわち自分の子どもを他人に提供しようとしたのだろうか? それは子どもができない苦しみや寂しさも、子どもができたときの喜びも十分に味わっていたからだと思う。彼らだって不妊に悩んでいたのだ。だから、同じように悩む夫婦にも、子どもを産める喜びを分けてあげたいと願ったのだろう。
 決して安易な気持ちでなかったはずだ。しかし彼らは混乱した。自分たちの子どもが、自分たち以外の親を持ち、別の家庭で育つ。
 「親子」の関係とは一体何なのだろう。「あなたは私のおなかから産まれたけど、遺伝的には別の両親がいるのよ」なんて言われたら、私は大ショック、大パニックだ。想像しただけで、なぜだかわからないが涙が出そうになった。(これは普通の養子縁組にも言えることなのだが・・・。)
 私は、凍結受精卵を提供した夫婦の混乱ぶりから、この技術を広めるべきでないと思った。遺伝子操作の話では「人は神の領域に踏み入れてしまった」とよく言うが、何をもって「神の領域」かというと、人ができること(技術)に人の心がついていっていないことだ。「科学技術」という乗り物は、操作主がいないまま、方向も定めずに暴走している状態にあると思う。できることばかり増えていくが、それをやっていいか決断できない。このままでは危険だ。十分に考える時間が必要である。








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