「ドキュメンタリー・環境と生命」2004年度受講生の記録

 ここには、記念すべき第1回から第5回までを掲載しています(2004年12月16日)
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【第三期開講ご挨拶】

 工事中。。。





第1回(2004.10.7)
土曜インタビュー2004にっぽん「心の遺伝子を伝える〜医師・日野原重明」(NHK総合,04.4.10,40分)
 聖路加看護大学附属病院院長の日野原重明医師。医療現場で出会う若い医師や看護師たちが、病人の心の痛みに鈍感なことに気が付いたことで、次代の子供を育てることに情熱を燃やしている。
→ 1911(明治44)年生まれなのに、病院の階段を一段抜かしで登っておられた。いわく、「どうしても運動不足になりますから」と。聖路加看護大学の入学式で「自分自身のことを考えすぎるな」「他人に配慮することが習慣づいた人間になれ」と訓示、式後は校庭で新入生一人一人と記念写真…。
 深夜の電話(急患の連絡や往診の依頼が多い)には、就寝後でも孫からの電話を受ける時のように音程を1オクターブ上げて「どうしたの?」「寝てないよ。書き物をしていたところ」と返事するように習慣づいているそうな。まさに、気配りの鬼!(山中)


<ひとこと>この授業の第1期(2002年)の受講生だったK.Nさん(経済学部卒業)は、受講後、内定していた就職をとりやめ、「な〜んとなく就職するよりも、自分の生きがいを感じる仕事をしたい」と受験勉強をして、無事にこの春、聖路加看護大学に学士入学した。今はがんばってることと思う。(木野)

日野原重明さん
:1911年山口生まれ。現在、聖路加国際病院名誉院長・同理事長、聖路加看護大学名誉学長。(財)ライフ・プランニング・センター理事長。日本音楽療法学会理事長。全日本音楽療法連盟会長。
 著書: 『死をどう生きたか』(中央新書)、『現代医学と宗教』(岩波書店) 、『看とりの愛』、『老いに成熟する』、『音楽の癒しのちから』(春秋社) 他多数。例えば…『死をみつめ、今を大切に生きる』(春秋社,02年)
参考:「地下鉄サリン事件、日野原重明院長の決断」佐々淳行著『重大事件に学ぶ「危機管理」の教訓72』(文春文庫,04年)179‐181頁


【要約ベスト】
 聖路加看護大学付属病院院長の日野原重明医師(今年で93歳)は、近年医療現場で起きる重大な医療ミスなどの背景には、医師や看護士の心の問題が関係していると考えている。そんな若い世代をどう育てるかという問題に直面した彼は、講義で若い世代に教えるのではなく、自分が回診を行なう際に若い医師を同行させ、そこで自分がいかにして患者と接するかという姿を見せて、実際に医療の現場を通して患者といかに接するかということを教えている。
 そんな彼が患者の気持ちについて考えるようになったのは、ある少女を診た時からである。少女は母親が工場で働いており、忙しいから自分の死に目に会いにくることができないと悟り、せめて自分が母に対して感謝をしていることを伝えてほしいと彼に頼んだ。しかし、彼は患者を励まし、延命させることだけに躍起になっていた。そしてその少女の死後、自分がどうしてその少女の気持ちを理解してやれなかったかということを悔やみ、そして患者の気持ちを考える医療ということを重視するようになる。彼が聖路加看護大学の入学式で新入生に向かって言った「自分のことを考えすぎるな、他人に配慮する人間になれ」という言葉にはそのような彼の思いが込められている。
(経済学部4回生 新井琢也)


【投票ベスト】 [kino-doc:14] 文学部4回生 西川裕美子
 相手の立場にたってものごとを考える・・・これは当たり前のようで、しかし非常に難しいことだ。私は11歳の時腎臓の病気で入院したことがあり、家族に会えないこと、学校の友人に会えないこと、自分の病気でどこがどのように悪いのかわからないこと(原因がわからない病気だったので)など、子供ながら不安になることがたくさんあった。しかしその病院はとても大きな病院で、一日の患者数は数え切れないほど多かった。当然、医者が一人の患者に割く時間など高が知れている。特に小児科は医者の数が少ないらしく、外来の待合室はバーゲンセールさながらの混み合いっぷりだ。医者も看護士(当時はまだ「看護婦」だったが)も目が回るほど忙しいのは、子供の私から見ても明らかだった。私は不安を解消してくれる相手を見つけられず、夜中にこっそり病院のベッドで泣いた。
 日野原氏がもし私の主治医だったら、幼い私は泣かずにすんだかもしれない。病院が彼の病院のようにホテル並の綺麗な装飾だったら、もう少し明るい気分で過ごせたかもしれない。でもこの経験から、私は他人に優しくなれた。「若い人は痛みを知らない、だから人の話を聞いてあげることの大切さを知らない」氏はそのように述べた。日野原氏も人の命の大切さに気づけたからこそ自分の命の大切さに気づき、それをもう一度他人の命に還元できるのだろう。彼についてまわっている研修医はそこをしっかり見ているだろうか?信念を貫く92歳が使う英語は、重い。



【投票次点】 [kino-doc:8] 文学部1回生 高井美幸
 私がこの番組を見終わってまず感じた事は、「医療とは、病気を治すと言う事だけをいうのではない」ということです。患者と、1人の人間として向き合い、その人の痛みを分かつ事、そしてその痛みを思いやり、心のケアを絶えず忘れない様にする事が、医療の根底にあるのだ、ということを強く感じました。最近は医療そのものに対する不信感を感じさせるような事件が頻繁に起こっていますが、日野原先生の『患者を心の耳で聞き、心の目で見る』という言葉が、すべての医療に携わる人たちの心に響いたなら、そしてそんな職業を志す若い世代の教訓になったなら、今後医療ミスといったような、あまりにも無責任な事故はきっと起こらなくなるだろう、と思います。
 さらに、現在の医療の現場ではどうしても、医師が上、患者が下といった上下関係が生じてしまっています。私にもそれが当たり前のような光景として見えていたので、日野原先生の患者との接し方を見て驚きました。医師と患者が同じ目線で病気を見つめ、同じ悩みや苦しみを背負う…それは患者にとってはこの上なく心強い事ではないかと気付かされました。人の気持ちを思いやる事…それは医療の場面だけにとどまらず、人と人とが関係を築く上で最も大切な事で、同時に最も難しい事なんだと思います。私たちも心の対話が出来る様に意識して心がけていかなければならないんだ、と感じました。



【私(木野)が選んだベスト4】
[kino-doc:12] 文学部1回生 木下 衆
 私は氏の提言をほぼ全面的に肯定する。が、氏の提言を文言通り受け取ると、正確な意味にならない、と考える。我々非医療従事者が、医療ミスをただ「医師の心の問題」と矮小化してはならない。
 大阪府医師会医療モニター角田氏は、医療事故の原因を「病院勤務医の労働時間の過酷な長さ、薬の間違えやすさ、医療用具の複雑さ、医療事故の分析・評価の問題、職員研修の問題」と、複合的に挙げている。(毎日新聞,2004年3/13)堀康司弁護士は、研修医が「『都合のいい安い労働力』と位置づけられ」ていたことを医療ミス増加の一因とした。(毎日新聞「病院がわかる」)
 医療ミスが増加しているかにも検証の余地がないか。私の曾祖母は医療ミスでなくなったようだが、資料も無く、医師が絶対であった時代に、告発のしようがなかった。昨今の増加現象は、被害者がミスを告発できる環境が整ったから、とも言える。
 日本医学会の第一線が参加した731部隊の生体実験、九州帝医大での医師参加による米軍捕虜の生体解剖を見ると、最近になって心無い医師が出てきたかも疑問が残る。(家永三郎,1985,「戦争責任」,岩波現代文庫)
 太平洋戦争は約70年前に引き起こされた。「人の痛みを感じない」ことが現役世代に特別に見出されることになるのかにも疑問符が付く。
 氏の提言を滅私奉公にすり替えられないためにも、それを自分達の生活にどう転用するかが求められよう。氏の発言は一義的に医療従事者の内省と捕らえるべきであり、非医療従事者はその点を意識すべきだ。


[kino-doc:17] 文学部1回生 津川真由子
 今私の祖母は入院している。母は自分の母親である祖母のため毎週実家の名古屋へ帰る程だ。
 しかし、正直私は横たわる祖母を見てもあまり何も感じなかった。去年父方の祖母が亡くなったときも同じだった。これは仕方のないことだと思う。
 我が家は核家族で物心ついたときには祖父母に会う機会がほぼなかった。思い出もあまりない。おそらく一番仲のいい友達が入院した方が心配になる。この心の溝はもう埋められない。
 他人の痛みを自分の痛みとして感じることは人間には無理だ。特に医者にとって一人の患者は大勢の患者の内の一人という対象にすぎない。相手を一人の人間として関わっていって初めて情が生まれ、人と人という関係になる。たとえ相手の痛みを全て理解できなくても、心から心配出来るようになるのだろう。その気持ちがお互いのより良い関係を築く鍵になるのだと思う。だから日野原先生は心のつながりを何より大切にしているのだろう。私も自分の「時間」をより多くの人と共有していけたらと思う。もしも祖母ともっと多くの時間を共有していたら何か変わっていたのかもしれない。


[kino-doc:26]法学部4回生 時田靖敬
 今回のドキュメンタリーでもっとも強く印象に残ったのは、日野原医師の死を前にした患者への接し方です。彼はドキュメンタリーの前半部で、医師は患者の側に立ち、お互いの立場が水平になる事で心が通じ合うのだと説いていました。しかし、死の前の治療においては患者の側に立つ、というよりもさらに一歩踏み込んで、時に死を待つ患者自身よりもなお死に立ち向かう姿勢を貫いていました。
 三ヶ月の余命しかない人でも今日は、そして明日はまだあるんだ、という言葉には、人の死に向き合う彼の強さを感じました。と同時に全ての患者さんが彼の如き強さで死と向かい合えるわけではないのではないか、という反感も正直ありました。死ぬのは私であってあなたでないからいくらでも前向きなことを言えるだろう、という考えを持つ患者さんがいてもちっともおかしくないんじゃないかな、むしろ死を現実に前にしてあんなに心を強く保てる方が少ないんじゃないかな、と。
 でも、実際自分が不治の病になったとしたら、どんな医師に看取られたら満足するだろうと考えたとき、結局、どんな医師であっても完璧な満足感を持って死ぬ(変な言い方ですが)、というのは自分には難しいだろうな、と思いました。そして、逆にどんな医師に看取られるのは嫌か、というのを考えたときに、自分の死と真剣に向き合ってくれない人はやっぱり嫌だな、と感じたのです。死を上から淡々と見送られるよりは、日野原医師のように横でうるさい位に死に立ち向かってくれるほうが救われるんじゃないかな、という心境になりました。
 日野原医師の死にゆく患者への接し方が絶対的に「正しい」のか「正しくない」のかは、誰にも答えが出せないことなのでしょうが、その姿勢は、医師としての誠実さの表れであり、その姿勢によって死を少しでも恐怖なく迎えられた人がいるならば、或いは、いる以上、その接し方は僕は「良い」接し方だと感じました。


[kino-doc:41]文学部2回生 野田はるか
 日野原先生の言葉が重いのは、92年の人生経験に加えて彼が実際にその言葉にふさわしい行動を実践しているからだと思う。その姿に私は感動した。ただ、彼のそのメッセージをどう咀嚼し消化していくかも重要である。彼の言葉の背後には92年分の人生があり、しっかりと刻み込まれた経験と想いがあるが、それがまだない研修医たち―また彼らだけでなく我々が、そうしたメッセージをきちんと受け止め背負うことは容易なことではないと思う。さらに、環境や時代によってそのメッセージは捉えなおされ続ける必要があるとも思う。
 そんな気持ちもあって、私は聖路加病院のホームページにいってみた。そこで印象深かったのは、一般人や患者向けの予約不要の無料の健康講座や「さわやか学習センター」(一般人や患者が病気などについて知り、学ぶための施設。図書やビデオ、インターネットや人体模型などの閲覧・使用が可能)だった。一般人は、非専門家にして被治療者という弱い立場になりやすく、それだけに彼らに対する配慮は重要である。そんな彼らの心身のケアだけでなく、病気と向き合う積極的な姿勢を物理的にも支援している点で聖路加病院は素晴しいと思った。
 ドキュメンタリーを見て、インターネットで調べて、私は実践の重要さを思い知った。感動は、何らかのかたちで行動に移さないと、自然消滅していくと思う。行動していく中で、その困難にぶつかったり、独自の発見があったりして、そしてその繰り返しがあって、その感動はモノになるのだと思う。だから私はこの感動を生かし、また日野原先生のメッセージを自分のものにするべく、まずはこっそりと配慮することを実践してみようと思った。






第2回(2004.10.14)
映像90「水俣春寒〜40年目の岐路」(MBS,96.6.16,50分)

 水俣病公式発見から40年目の1996年、最大の訴訟団体が、政府解決策に沿ってチッソと和解した。これにより多くの被害者団体も和解策を受け入れることとなった。唯一、和解を拒否したのは水俣病関西訴訟だけだ。今回の和解を機に40年に及ぶ心の傷を浮き彫りにする。
参考文献:『新・水俣まんだら〜水俣病関西訴訟の患者たち』『環境と人間〜公害に学ぶ』


要約ベスト】
 「奇病」とされ、酷い扱いを受けた水俣病が有機水銀による公害病として認定された後も、厳しすぎる認定基準のために多くの人が認定を受けられなかった。何千もの患者側がチッソと国と地方自治体を相手取り、多くのの訴訟を起こした。しかし患者側は年をおうにつれて戦うことができなくなってくる。「選択の余地がなくなるまで解決を引き伸ばされた」と心残りではありながらも、ほとんどの原告側は国や自治体の責任を認めないままでの最終解決策として政府が提示した一時金制度を呑まざるを得ない状況になってしまった。それでも関西訴訟だけは和解することはなく、国と自治体の謝罪の言葉を聞くべく法廷で戦い続けている。
 後半では原告の坂本美代子さんの話を聞いた。ひどい差別を受けたことや、重症のお姉さんのために大阪に出稼ぎに出たものの半年でお姉さんが亡くなってしまったこと、美容師の仕事を辞めてしまった経緯、長い間認定申請をしなかったが、子供から励まされ申請をしたことなど、辛い半生を涙ながらに語っていた。そして最高裁判決を明日に控え、坂本さんは「裁判官も国側の人間だ。最高裁の判決には期待してはいない。それは判決が少しでも期待していたよりもよいものであったときに喜べるからだ」と最後に語っていた。
(商学部2回生 山内浩司)


【投票ベスト】 [kino-doc:62] 文学部1回生 福本奈緒子
 今回の授業は坂本さんの話を聞くことができ、ただ世間を取り巻くニュースのひとつとして水俣病訴訟を認識するだけに終わらなくて本当に良かったと思う。この授業があった日には新聞でこの授業が取り上げられており、興味深く読むとともに新聞に書かれるとこういう風になるのかと感心したりもした。
 翌朝新聞第1面を見て本当にほっとした。本当に良かったと思う。それを見るまでは坂本さんの「期待を持って行くより、悪い予想をして勝つ見込みはないと言う気持ちで行く方が後が楽でいい。」とおっしゃった坂本さんのセリフが忘れられない。そこまで坂本さんの気持ちを追いつめてしまった国や県の対応が目に浮かぶような気持ちになった。勝ちとされたが、国がまだこのような対応を続けていくのであれば、まだ坂本さんがたの苦悩の日々は終わらないと思う。いろいろとこれまでの裁判の結果が否定されたため、また何か問題が起こるかもしれないと思うが、本当にもう患者の方々を泣かせないでほしいと強く思った。
 また授業で見たドキュメンタリーの中で、「私のふるさとはあってないようなもの」とおっしゃっていたのも忘れられない。これからはこの判決もふまえて再び坂本さんがたにふるさとは水俣だと胸を張って言えるような形で国は行動していってほしいと強く思う。


【投票次点】 [kino-doc:60] 商学部2回生 山田健介
 15日の記者会見で、細田官房長官は「今からみれば、行政上の反省すべき点が多い。誠に申し訳ない」と謝罪した。環境省では、小池環境相が、幹部らとともに立ち上がり陳謝。おそらく水俣病発生時には何ら行政として関係の無かったであろう二人が、過去の行政の偉いさんらの尻拭いをさせらている状況だ。ここに、現在まで行政責任が確定しなかった原因があると私は見る。
 そもそも政府の幹部である期間は一瞬であって、長期的ではない。よって、人は自分の代で問題を解決せずに、次の人間にバトンタッチすれば良いと考えてしまう。水俣病も例外ではなく、そのせいで今日まで時間がかかってしまったのである。歴代首相、もしくは旧厚生大臣の誰か一人が、早期に責任を認めていたら、患者の苦しみは少なくなっていただう。しかし、そう考えてしまうのも人間として仕方が無いことなのかもしれない。けれど、小池環境相には、これからの正しい行動に期待する。



【私(木野)が選んだベスト4】
[kino-doc:75] 文学部1回生 大塚千穂
 坂本さんのお話をうかがったのは「公害と科学」についで二度目でした。前回は水俣病についての知識が乏しく、もどかしい思いをしました。今回も、前回に比べればましになったものの、やっぱり勉強不足だと感じました。坂本さんが、水俣病と共に歩んできた人生を涙ながらに話してくださるのは、私たちに伝えたい想いが思い出すことの辛さに勝るからではないかと思います。だからこそ、私たちはその気持ちをできるだけ自分のこととして受け止め、考えなくてはならないし、そうする為にそれ相応の学ぶ姿勢が求められます。
 水俣病でない私は、こういう機会でもない限り、日常を送っているときは水俣病のことなど考えもしません。そうやって私がのほほんと生きているときにも、坂本さんのように、明日の未来を期待せず、でも祈るように生きている人もいる。そういう事実を知った以上、今の私ができるのは、水俣病を過去のものとせず、今も続く問題として考えていくことだと思います。
 先日の判決でやっと国と県の責任が認められて嬉しい一方で、坂本さんら8人の認定が棄却されたことには憤りを感じます。今回の判決は、まだほんの始まりに過ぎません。国と県が謝罪の意を今後どのような形で示していくのか、その対応を厳しく見守っていく必要があると思いました。

 関西水俣友の会http://www.geocities.jp/kmtomonokai/

[kino-doc:82] 文学部2回生 金城未希(既習生)
 まずは坂本さんがおっしゃっていた「最悪」の判決でなかったことが嬉しい。しかし、最高裁の判決が、坂本さんが願っておられたような「患者をこれ以上泣かせない」判決だとも言えないと思う。「行政責任確定」の見出しを見たときは、少なくとも「最悪」を体験なさらないで済んだのだな、と喜んだ。だが、高裁判決も最高裁判決も、一部の患者さんの訴えを棄却している(高裁7名、最高裁8名。増えている)。行政責任は認めても、全ての水俣病患者の存在を認め、補償を指示した訳ではないのである。
 授業の後、坂本さんとお昼をご一緒した。私は、国や県は患者さんの精神的苦痛をお金の問題と捉えているから、責任を認めないのではないかといった内容の発言をしたのだが、坂本さんは「でも、お金も大事ですよ。病院代だけでも出して欲しい」と答えられた(勿論お金の話ばかりをされたわけではない)。患者さんの苦痛は金銭面だけではなく精神面も大きい、これは当然だが、病気のために負う金銭的負担を軽視することも出来ないのだと気づかされた。故岩本夏義さんは「ゼニカネの問題やない、謝って欲しい」とおっしゃった。その言葉と「病院代だけでも」という言葉は矛盾しないと思う。行政は謝罪と補償を同時に行う義務がある。棄却された患者さん達は、そのどちらも受けることができない。
 裁判が終わっても、患者さんの病気は治らない。棄却された患者さんは尚更「終わった」と思えないのではないだろうか。私は、行政が責任を認めたことの喜びよりも、裁判が終わったことで「水俣も終わった」となし崩しになってしまう恐れの方が大きく思える。何も終わっていないのだと言える人になりたいと思う。
http://www1.odn.ne.jp/~aah07310/index-j.html


[kino-doc:97] 文学部4回生 西川裕美子
 最高裁は、ついに国、県の責任を認めた。
 国というものの体質は以前からそうだ。都合の悪いことは知らぬ存ぜぬの一点張り。例を挙げるなら、『橋本元首相も関わった1億円献金事件で政治家がどんな態度を取ったか』を思い出せばよい。しかしその体質のせいでどれだけ多くの人々が、どれだけ長い間苦しめられてきたか。いや、過去形にするのは不適切だ。患者の皆さんは、これからも、一生、水俣病と付き合っていかねばならないのだから。
 最高裁が下した判決は決定的だった。ところがどうだ、環境省のお役人たちは「真摯に反省する」だの「判決を謙虚に受け止め云々」だの言うばかりで今までとまったく変わらない態度ではないか。彼らはわかっていないのだ、患者の皆さんがこれまでどれだけ恐ろしく悲惨な目に遭ったか、これから遠い道のりをどれだけ重い足かせとともに歩いていかねばならないかを。沖縄大学名誉教授の宇井純氏が彼らにむかって投げかけた言葉が、私にはひどく印象的だった。「君は原告のところへ行ったことあるの?」
 講義中涙ながらに語って下さった坂本美代子氏は今、どんな気持ちだろうか。あの涙のすべてが報われることはなかった。しかし、確かに意味は存在したのだ。こうやって私たちが考え、真剣に議論することを引き出す力があった。いまや原告の人々は数を減らし、生存者の平均年齢も70を越えている。私たちができることは何か、それを考えるのが大切だと思う。
(参考・・・水俣病百科/熊本日日新聞)


[kino-doc:104] 林 久子(学外)
 「水俣病はあるとですよ。実際にあるとだもん」とおっしゃっていた坂本美代子さん。最高裁の判決では「59年12月以前に水俣湾周辺地域から域外へ転居しており、行政の怠慢が原因で被害を受けたとは認められない」と水俣病とは認められなかった。(坂本さんが水俣を離れたのは1958年)
 坂本さんのお姉さんは死後解剖による認定第1号、弟さんは原田正純医師によって遅発性水俣病と診断されている。同じものを食べた家族でありながら、認定と非認定に分かれるおかしさ。
 水俣病の診断は「認定」という形で、患者の治療に繋げるものではなく、選別するもので、「水俣病志願者」を見分ける為のものになっていた。これは本来の医師の行為ではない。本来であれば、家族に患者が出れば、同じものを食べてきたのだから家族全員の診察を勧めるのが医師であろう。(患者の訴える症状を疑ってかかる等、もってのほかだと思う)
 水俣病では患者一人一人をバラバラに捉えるのではなく、水俣の魚を食べた集団(地域)として捉える必要がある、と原田医師は言う。チッソの補償金を如何に低く抑えるか、を主眼にこれまでの水俣病対策は進められてきた。しかし、今回の判決で診断基準が広げられたことで、新潟では行われて、水俣では未だ行われていない一斉検診などに繋がっていけばいいと思う。医療を巡る環境も認識も変わりつつある現在、それが出来る時に来ていると思う。
 坂本さん、「思い出せば涙の流るる」とおっしゃっていた辛いお話をして下さり、ありがとうございました。
参考文献:原田正純 「水俣病は終わっていない」1985年 岩波新書, 栗原彬・編「証言 水俣病」2000年 岩波新書






第3回(2004.10.21)
映像90「薬害ヤコブ病・谷たか子の闘病記録」(MBS,1998.3.16,60分)

 硬膜。脳を包む薄い膜。開頭手術の際は、死者から提供された硬膜を絆創膏のように張り付ける。89年1月に脳外科手術を受けた谷さんは、96年5月に発病、意識を失う。谷さんの家業は牧畜で、当時は欧州で狂牛病が騒がれていたため、医者は「お宅の牛から感染したのでは?」と言う。夫の三一さんは3人の娘と看護をしながら、友人らと真相究明を始め、提訴に至る。牛から感染した例はなかった。谷さんに移植された硬膜は、87年にアメリカのFDAが廃棄警告を出したドイツ製品だった。

参考文献
その1 番組ディレクターさんの本『薬害ヤコブ病―見過ごされた警告』(1999年)
その2 薬害ヤコブ病の軌跡『裁判編』,『被害・運動編』(2004年)

 注目 谷さんとこの牛肉はここで買えます♪ むっちゃんこ高価で、もうビックリー…


【要約ベスト】
 谷たか子さんは、夫の三一さんと共に、慣れない和牛肥育を手伝い、三人の娘さんを育てておられた。そして、さぁこれからという時‥突然意識を失った。体がふらつき、ついにはトイレの場所もわからなくなり、みるみるうちに植物状態になってしまった。大津市民病院で、「牛を飼ってるでしょう。狂牛病かもしれないから、静かにしておきなさい。」と言われた。しかし、その病院こそが、たか子さんに、問題のある硬膜を移植した病院だったのだ。
 たか子さんは、脳外科手術を受けた際、ライオデュラという乾燥硬膜を移植され、クロイツフェルト・ヤコブ病に冒された。病理解剖者の小遣い稼ぎのために、硬膜が死因のわからない死体から集められ、ビー・ブラウン社に売られていた、それがライオデュラであった。ライオデュラは1987年に廃棄するよう警告が出されていたにも関わらず、たか子さんが手術を受けたのは1989年。厚生省がライオデュラの使用を禁止したのは1997年のことであった。
(文学部2回生 石田梨沙)


【投票ベスト】 [kino-doc:127] 文学部1回生 津川真由子
 殺されるより愛されたい。最後のたか子さんの笑顔を見て、そう思った。植物人間や寝たきりになってまで生きる意味ってあるのかをずっと考えていた。精神的にも体力的にも、金銭的にも家族の負担にはなりたくない。だから私はもし自分がそうなったら、早く死にたかった。それに、家族だって殺せないから看護するしかないという感じで、自分たちは頑張ってますという自己満足的な看病を続けて行く気がしていた。でもたか子さんの家族を見ていて、そんな気持ちで看病はできないと思った。自己満足なんかじゃない。愛する人だから大切にしたい。生きてほしいという思いが痛いほど胸に響いた。殺すとか死ぬことは簡単で、生きるとか愛することの方が難しい。だからこそ大切なことなんだと思う。私はどんなことになっても生きる強さを失いたくない。逆に、家族に何かが起きても愛する強さもなくしてはいけないと思った。
 ヤコブ病はまだ認識度が低く、医者ですら適切な診断ができないそうだ。私も授業で初めて知った。その理解度の低さゆえに、偏見や差別が生まれてしまう。たか子さん以外にも病院で不当な扱いを受け、近所の人から精神病といわれた患者さんたちがいる。知らないことの恐ろしさと、知ることがどんなに大事なことなのかを改めて感じた。


【投票次点】 [kino-doc:130] 工学部4 回生 藤原慎悟
 今回の映像はとても衝撃的だった。ヤコブ病の名前は知っていたが、実際その患者やその周りの人の苦しさや辛さはまったくわかっていなかった。
 病気の悲惨さもそうだが、発病までの経緯を知って驚愕した。脳の膜を他人の、それも死体のものから取ってくるってだけでも驚きなのに、とても慎重に行わなければならないはずの硬膜の採取・管理が信じられないほどいい加減で、さらにはそんな明らかにおかしい行為が10年間も放置されていたなんて。
 ヤコブ病の一種のクールー病はパプアニューギニアでの食肉習慣により拡がったものだし、狂牛病は羊の肉骨粉を牛の飼料として与えていたことが原因だ。このようにヒトも動物も生態系に沿った食事をしなければ、異常が起きるのは当然だと思います。今回の問題も少し違いますが、ヒトの脳の膜を移植するのですから、「医学の発展のためには少々のリスクはつきものだ」なんて言って片付けられるものではない。もっと徹底した監視体制を敷いておくべきだったと思う。
 わずか1兆分の1のリスクのために(実際はそれ以外にも理由はあるのだろうが)、牛の全頭検査を通す面もあれば、こんないい加減な面もある。本当に国民の安全を第一に考えてるとは思えない国のあり様にあきれてしまう。
 全く動けない、何も言えないで谷たか子さんは4年半、一体なにを考えていたのだろうか。番組の最後の彼女の笑顔がとても印象的だった。わけがわからないまま寝たきりになって、この先自分は一体どうなるのかと不安でいっぱいだったはずなのに、あの笑顔はとてもそんなことを感じさせない本当の笑顔だったと思う。



【私(木野)の選んだベスト4】
[kino-doc:113] 文学部1回生 福永喬史
 木野先生のおっしゃった薬害と公害の違いについて考えた。辞書で調べても大してヒントは得られなかったので、ヤコブ病サポートネットワークのHPに行ってみた。そこには薬害や薬を扱う製薬会社についていろいろ載っていた。
 僕は薬を飲む際に「この薬を飲んだら死ぬかも」だなんて意識しない。みんなもそんなこと考えないだろう。その薬は幾重ものチェックを受け、万全を期してから使用されているはずだからだ。しかし、薬害はその常識を打ち破る。薬害にあった人は安全と言われて飲んだ。そして発症したのだ。これを騙されたと言わず何という?
 薬害と公害の多くは類似しているが、その違いはこれではないだろうか。薬害の被害者は信用していた者(薬の生産者や厚生省や医者など)に突然裏切られるのだ。あえて薬害といったわけは、この裏切られた、本来は大丈夫だったはずなのにという気持ちを表そうとしたのではないだろうか。
 それにしても水俣病でもそうだったが、残された家族の人生は壮絶だ。胸がグッとつまる。しかしそこには本当の愛情がみえる。それは僕たちの生活の中ではなかなか見つけられないものだ。


[kino-doc:114] 文学部2回生 野田はるか
 ヤコブ病という病名はなんとなく聞いたことがあったが、実際どのような病気なのかは今回のドキュメンタリーで初めて知った。とても悲しい病気だと思った。短期のうちに無動物性無言の状態に陥り、しかも確実に死に至る病、さらにその原因が医療機関や行政などの怠慢からきているとなると、患者や家族はとてもやりきれない思いになるのではないかと思った。
 ヤコブ病サポートネットワークというホームページにヤコブ病患者の家族らの綴った文章が掲載されていたが、入院や治療、葬儀といった様々な場面において医者や看護婦らから不当な扱いを受けている様子が伺えた。家族感染や空気感染しない病気なのに、治療者はゴーグルやマスクをつけておずおずと患者に触れる、数ヶ月で転院を迫られる、病室を掃除してもらえない、入院中一度も入浴させてくれない、「他の患者にも使用するから」と医療用品を使用してもらえない等など。患者や家族はそのような現実とも戦っているのだ。
 また、講義中の意見交換の場で木下さんがおっしゃったように、硬膜の提供者となった方のことも忘れてはいけない。つまり、「わけのわからない死体」である。彼らが物言わぬ存在であるのをいいことに、医療関係者の小遣い稼ぎに利用され、悪者扱いされてよい理屈はない。提供者となる時点で彼らは「御遺体」(解剖の対象となる人の遺体はこのように呼ばれるらしいです)と呼ばれるべきであるし「御遺体」であるはずなのだ。
 このような病気を引き起こした、またそれを容認した・しつづけた責任は、極めて重いと思う。
http://www.cjd-net.jp/110Frame_index.htm


[kino-doc:132] 文学部1回生 木下 衆
 かつて死者を弔うために、その遺体を食した部族があった。彼らはヤコブ病に酷似した症状を見せ、病名は「クールー」とされた(毎日,04.4.1)。B・ブラウン社員に問われたのは「死者に対する尊厳の侵害罪」だった。病の発生原因はずいぶんと皮肉な転換をしたと言える。
 WHOの健康の定義に「尊厳」を加える案は、それを「精神」より高次の側面としてとらえていた(草柳,2004)。「尊厳」は死者にも認められるからこそ、意義深いのではないか。だからこそ薬害ヤコブ病は、死に行く(生きている)患
者と、硬膜を提供「させられた」死者に対しての二重の罪と言えよう。
 「薬害」を複数種平行して発生させ、なお面子にこだわる厚生(労)省の姿勢は、もはや博打ではないのか。私の頭の中で繰り返されていた言葉があった。「人間たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ。」後の首相、東条英機氏の対米英開戦を求める言葉である(家永,2002)。彼に問われた罪は「人の道」だった。
 人の命を、尊厳をつぎ込み、面子を追い求め博打に打って出る人々に、尊厳はあるのか。しかし彼らは不「健康」でも生きていける。この二つの話をつなぐ発言がある。「(『新しい歴史教科書を作る会』を批判するものは)ヤコブ病で脳がスポンジ状態になっている。思考が停止している。(毎日,01.4.18)」教科書の争点が東条氏らの博打であるのは周知の事実。そしてこの間、何度も厚生大臣を務めた小泉首相が、この発言をした中川昭一氏を経産大臣として登用していることが、被害者の尊厳に対するセカンドレイプだと考えるからこそ、深く憤るのだ。


[kino-doc:149] 法学部三回生 古賀麻未
 鑑賞後一番思ったのは、私もこういったB・ブラウン社や厚生省のような行動をとってしまうかもしれない、という事だ。彼らの行為は単に私腹を肥やすためだったのかもしれない。しかし、生きるために硬膜移植をしたたか子さんと同じように、彼らの行動もまた、自分を守るため、生きるために行われた行為。たとえば自分が窮地に追い込まれたとき、他人のことを考える余裕があるだろうか。私は全く自信がない。
 風邪薬を飲めば眠くなるし、胃も荒れる。薬は毒と表裏一体で、どこかを治すために、別のどこかが犠牲になってしまう。今回の「ライオデュラ」は完全な毒、完全な悪であり、厳しく裁かれて当然なのだが、全くの第三者である私は、加害者側を一方的に批判できるのだろうか。
 考えてみれば、最終的な物事の善悪の判断を行うのは各個人。どんな問題でも、そしてどちらの側に立ったとしても、根底には「自分のため」という意思が存在する。自分のために他を犠牲にすることはあってはならないのだろうが、現実問題としてそれは日常茶飯事であり、その結果として今回の薬害ヤコブ病や水俣病が存在している。
 人間は基本的に性悪なのだろう。被害者がどんなに声を上げても、きっと同じような問題の発生を防ぐことは出来ないのだ。






第4回(04.10.28)
NHKスペシャル「カルロ・ウルバニ〜SARSと闘い死んだ医師の全記録」(04.2.15、50分)
 世界30カ国で約800人が亡くなった新型肺炎SARS。2003年3月に、ベトナムのWHO事務所での勤務中、世界で初めてSARSに遭い、感染拡大を食い止めるために奔走して落命したイタリア人医師(46歳)がいた。彼のノートやメール、共に働いたベトナムの医療関係者40人超の証言を元に、未知のウイルスとの闘いに迫る。
→ 「詳しいことが分からないから」と言うベトナム政府に、ウルバニ医師は「分かってからでは遅い。世界中に広がる前に、今すぐWHOを応援に呼ぼう」と説得。応援が来た時には彼も既に発熱していて、十分な医療設備のある国に行くべきかどうか悩んでいた(行くと、ウイルスを撒き散らすことになるのではないか…)。結局、行ったが、死去。母国に帰還した彼の棺と家族は、空港でたくさんの拍手に迎えられていた。
 番組は書籍化されています♪
『世界を救った医師〜SARSと闘い死んだカルロ・ウルバニの27日』 NHK報道局「カルロウルバニ」取材班(編集)2004.7刊


【要約ベスト】
 新型肺炎SARSがまだ世界に知られていない頃、一人の男が世界のために自らの命をかけて死んでいった。
 2003年2月28日。ベトナムのWHO事務所の職員、イタリア人医師カルロ・ウルバニのもとに、フレンチ病院から原因不明の肺炎に関する連絡が入る。この一本の電話が彼の最後の戦いの始まりである。
 謎の肺炎患者に接触した医師や看護士が次々と倒れていく。感染拡大を懸念した彼はフレンチ病院にとどまり、政府にWHOの応援を要請。渋る政府を3時間かけて説得。3月12日、WHOが最初のグローバルアラートを出す。その後、自らもSARSの病にかかり死んでしまう。彼がSARSと関わってから27日目のことである。
 生前の彼の言葉。「すべての人に満足のいく医療を提供するために大切なことが二つある。それは、いつも患者のそばにいることと、どんな障害にも屈しないことだ。」彼はこれを最期まで実践したのだ。
(文学部1回生 福永喬史)


【投票ベスト】 [kino-doc:180] 経済学部4回生 新井琢也
 今回の映像をみて一番感じたことは、マスコミというのは美談が好きなんだなあと、半ばあきれてしまうSARS事件に関する焦点の当て方の狭さでした。
 映像を見てすぐにウルバニ氏がベトナムから出国したことは医師としておかしいのではないかと思いました。確かにみんなで感想を言い合う場で先生が説明してくれた予備知識があれば、少しは納得ができるかもしれませんがあの映像からだけではウルバニ氏を立派と手放しでほめることは難しいと感じました。
 このような映像のつくりをされていると、自分の命を投げ出してまで頑張った人間を否定するべきではないという雰囲気が漂ってきます。映像の前半のウルバニ氏の行動と、ウルバニ氏がタイへ行ったことは明らかに矛盾します。しかし、ウルバニ氏を看取った医師のメッセージなどを映像で流すことによって、そのような矛盾を覆い隠しているような気がします。
 人を褒めることは悪いことじゃないし、話を美談にしてしまえば見ている人は納得するのかもしれませんが、その結果盲目的に何かを受け入れるというつくりはエンターテイメントではよくても報道としてはいいものではないような気がします。今回の地震でも助かった子どもの話が連日流れていますが、マスコミはこのようなはなしに少し焦点をあてすぎのような気がします。実際に人は多く死んでるんだから、地震でもSARSでも。


【投票次点】 [kino-doc:183] 法学部2回生 木村太朗
 いつの時代にも彼のような人がいて自分の住む世界を守っていてくれているのだろうと思った。誰に理解されたいというわけでなく神がかり的な献身的な行動を通じて人々の心にとどまることになる彼らは本当にかっこいいと思う。
 権利と義務というものがあるが、私は義務というものは自分の権利を尊重することで他人の権利の大切さも解ることを前提として成り立つものだと思う。言えば、彼は他人のために尽くし死んでいった。私にはできない、自分のできていないことをできてしまう彼をすごいと思う。自分と他人を等しく尊重できている人を私はすごいと思う。小さいころから人の立場で考えろと言われてきたがなかなか難しい。
 このドキュメンタリーを見て思ったのが、幸せというのは自分以上の価値を発見することではないかと思った。命に代えてもやるべきことを見つけたときが幸せをつかむときなのではないか。不謹慎だがSARSと戦い飛行場で迎えられる彼を見ているとそう思ってしまった。



【私(木野)の選んだベスト4】
[kino-doc:165] 文学部1回生 本下加奈子
 今回のドキュメンタリーでは前回・前々回と違って怒りというものは感じなかった。観賞後のディスカッションでは「政府の対応の遅れが気になった」という話も出ていたが、私はむしろ早かったのではないかと思う。
 水俣病やヤコブ病のときの日本政府と比べて、ベトナム政府は最初からすぐさま対応したわけではないが、ウルバニ医師の力強い要求に対してちゃんと行動をとった。そしてそのおかげもあってSARSの大きな拡大は阻止されたのだと思う。これはやはりウルバニ医師がいたからであろう。「ベトナム人でも逃げていったのに、彼は逃げずに私たちに優しく接してくれた」というSARSに感染したベトナム人看護師の言葉が強く印象に残った。きっと政府も、外国人なのに必死で謎の感染症と闘おうとしているウルバニ医師に心を動かされたのであろう。
 どんな困難な状況に立たされても自分の信念を曲げずに患者と接し続けたウルバニ医師。きっと彼も感染してしまうのではないかという恐怖と戦っていたに違いない。それでも患者のそばを離れず、患者を励まし続けた姿勢は日本政府に見習ってもらいたいものだと思った。

[kino-doc:190]
文学部1回生 津川真由子
 「責任」には色んなカタチがある。今まで政府側の人々が後になって「こんなことになるとは」と言うのを何度も聞いてきた。政府の対応の遅さが状況の悪化を招くのは、もういつものパターンになってしまっている。どうして政府はもっと国としての責任を持てないのか、どうして自分たちの立場を真っ先に守ろうとするのかと怒りを覚えた人は多いはずだ。
 そこで今回思ったことがある。ベトナム保健省が公表を躊躇したのは国民がパニック状態に陥るのを防ぐためだ。それは政府としての彼らの責任のカタチ。一方で、謎の感染病に真っ向から立ち向かったのはウルバニの医師としての責任のカタチ。映像にはウルバニに感謝する人々が映し出されていたが、彼はSARSの患者の為だけに働いていたのではない。自分の医師としての責任にかけて行動していたのだ。となると両者はどちらも自分の為に行動していることになる。しかしどうしても私には政府は自分の立場を守っての行動だと思えてならない。現場に一番近いウルバニの訴えを断った政府は代わりに何を見ようとしていたのか。波風が起きず、自分の地位が続く未来だろうか。
 何に責任を感じるかは人それぞれで、何が正しいかなんて誰にもわからない。でも信念を貫く事が自分の生き方にもつながるのだと思った。

[kino-doc:179]
文学部1回生 鈴木明子
 昨年3月に起きた事なのに私の中の記憶は随分薄れていた。そしてこの授業で初めてウルバニ医師の存在を知った。ウルバニ医師が27日間という短い期間で成し遂げたことは、国を動かし、国際機関をも動かした。
 それもその間、彼は自らの危険をかえりみず常に患者のそばを離れなかった。私はその患者の多くが医者や看護士であったことも関係していたと思う。なまじ医療知識がある相手にごまかしはきかない。彼は事実を彼らに告知した。そのことで落ち込み、取り乱す人もいただろうが、ウルバニ医師の献身的態度に患者たちは随分と救われたことだろう。
 ウルバニ医師がバンコクに出国したことに賛否両論あると思うが、私は彼の「自分がスタッフや器具を独占してしまうことになりかねない」という意志をWHOが汲み取り、それまでの多大なる功績を認め、彼のためにチャーター機を飛ばすぐらいしてもよかったんじゃないかと思った。
 去年にはSARS、今年には鳥インフルエンザが発生した。新たな感染病が次々と発生している。最悪の事態を避けるためには迅速な対応と事実の公表、そして誠実な治療が必要なのだと感じた。

[kino-doc:204]
文学部2回生 金城未希(既習生)
 自らの生活を投げ出し、命を危険にさらしてまで世界に警告と情報を与えたウルバニ医師の行動は、私も素晴らしいと思う。相当な覚悟が必要だし、軽い気持ちで出来ることではない。ドキュメンタリーで描かれていたように、医師としての強い信念、人間に対する思いやりが彼を支えていただろうことも確かだろう。
 だが、今ドキュメンタリーを思い返して感じるのは、一人の人間を「ドラマ」に変えてしまうドキュメンタリーという形式の危うさだ。授業でも言ったことだが、ウルバニ医師のベトナム出国は、それまでの捨て身ともいえる彼の行動とは性質の違うものであると思う。施設を独占することも確かに良くないが、飛行機のような密閉空間に原因不明の感染症を患った自分が乗り込む(他の乗客が感染しない保証はない)、あるいは出国によって感染の範囲を拡大してしまう、これらの危険と独占とを天秤にかけたとき、独占の方が重みを持つだろうか。ましてや彼は、以前の患者がタイに出国したことを非常に危惧していた。自分より患者を優先するウルバニ医師が、医師として出国を選ぶだろうか。出国は、やはり彼が個人としての自分のため決断した行動だったのではないだろうか。
 私が恐ろしいと思ったのは、ドキュメンタリーが彼の出国に焦点を当てなかったところだった。仮にウルバニ医師が自分の為に出国したのだとしても、彼がそれまで行った献身の価値は少しも薄れないはずだ。それなのに英雄のイメージにそぐわないものを省き、勇敢な代表者として祭り上げてしまう。これでは何の進歩もないような気がする。私は、個人としての彼をもう少し知りたかった。







第5回(2004.11.11)
「あなたはいま幸せですか 地球家族2001」(NHK総合,01.8.21,60分)
 「申し訳ありませんが、お宅の家財道具を全て家の前に出して写真を撮らせていただけませんか」と30カ国を回った写真家のピーター・メンツェルさん。対象は各国の平均的な家族。1994年に写真集として出版したが、2000年からもう一度、家族のその後を追った。番組では主にブータン、キューバ、ボスニア、日本、モンゴルの家族、そしてトルコとアメリカの家族を少し、以前と比較しながら紹介。
参考文献
地球家族 : 世界30か国のふつうの暮らし』マテリアルワールド・プロジェクト(代表ピーター・メンツェル)著 ; 近藤真理, 杉山良男訳, TOTO出版.(英文タイトル;Material World),1994.11
世界20か国の女性の暮らし(地球家族 ; 続)』フェイス・ダルージオ, ピーター・メンツェル著 ; 金子寛子訳,TOTO出版,1997.12



【要約ベスト】
 写真家ピーター・メンツェルは世界30カ国をまわり、各国の家族構成、収入などからみて平均的な家族の写真を撮った。家財道具を全部家の外に出して、その前で写真を撮る。彼の信念は「世界の変化は平均的な層から始まる」。彼は家族たちに幸せですか、今何が一番大切ですかと問い掛ける。その結果はまちまちであった。「平和が欲しい」「家族が一番大事」「もっと豊かになりたい」・・・
 その後、彼は8年経った家族たちを再び訪れた。ブータンの村には電気が通り、父親は子供のために成功したいと語った。失業中であったキューバの家族は両親が離婚し、母親が新たに理髪店を開業していた。ボスニアの家族は祖母を失い、夫と離婚しており、内戦中の方が幸せだったと語った。先祖伝来の財産を売って起業したモンゴルの家族は大きな借金を背負っていた。日本の家族は家財道具がほぼ新しいものに入れ替わり、大切なものはそれぞれが家、携帯電話、特に無いと語った。
(文学部2回生 黒川博美)


【投票ベスト [kino-doc:214] 文学部2回生 野田はるか
 面白い企画だなと思った。国によって、家族によって、環境によって、幸福のかたちも大切なものも異なっている様子に、私は新しい真実を見た気分になった。家財道具の量も、大切なものも、みんな違う。私には理解できない幸せがあったし、想像を超えるような生活もあった。そして、それらは時を経て、また私には理解できない幸福、宝物、理想へと変化していった。
 「JUNEC/こども国連環境会議」(http://www.junec.gr.jp/report/2002/ispeech1_1.html)というホームページによると、当時最も経済的に豊かだったアメリカ合衆国の平均的な家族は5200もの商品に囲まれた生活を送っており、逆にインドの平均的な家族は22品目で事足りていたようである。ちなみに日本は最多の8000品目。同じくそこに掲載されていた、20世紀の日本の暮らしを変えたものアンケートの統計によると、1位コンビニ・2位携帯電話類・3位インターネット、以下家電製品やファーストフードなどが挙がっていた。また、買い換えたい商品ランキングにはそのような家電製品がずらりと並んでいた。
 ものの多い少ないが精神的な豊かさと同義になるかは個人の価値観によるところがある。だから、ものが多すぎることが貧しいとか、少ないもので生活するのが豊かだとは一概に言い切れない。また誰かにとっては幸せそうな生活も、その当事者らにはまだ不幸だったりする。満ち足りていると思っていても、失われゆくものはあるのだ。
 しかし、なぜインドの家族は22品目で生活しているのだろう。モンゴルの家族は9年の間に1台のテレビしか増えなかったのだろう。
 私たちは幸せじゃないかもしれない。誰かの幸せを奪っているかもしれない。他人の幸せなんて簡単に理解できるものではないかもしれない。自分は世界一不幸かもしれない。それでも、気づかなければならない「幸せ」、守らなければならない「幸せ」はあるのではないか。そんな気がした。


【投票次点】 [kino-doc:212] 商学部2回生 梅田雅彰
 「はい、幸せです」僕はこう答えたいと思いました。僕はさんまさんの「生きてるだけで丸儲け」という言葉が大好きです。普通の暮らしが出来ている環境にいる自分は幸せです。もちろん、ひとを妬んだりうらやんだりしますが、それは人間として当たり前な感情だと思います。他人と比べて自分の置かれた環境が劣っていたとしても、自分が幸せだと感じられたらそれは幸せなのでは?
 幸せを感じれる瞬間というのは人それぞれ違うと思います。物が豊かになって幸せを感じれる人もいれば、物がなくても幸せを感じれる人もいると思います。幸せの尺度はみんな違う。でも、それでいいんじゃないでしょうか。僕はこれからも「幸せだ」と答えられる人生を歩んでいきたいです。



【私(木野)の選んだベスト4】
[kino-doc:229] 文学部1回生 杉本緑
 幸せって何だろうか。私は中学3年生の頃から日記をつけている。その日にあった出来事を書くと言うよりも、その日に思った心情を書いている。だから「今日は○○に行って楽しかった」等等のかわいらしいものではなく、生きるって何だろうとか、受験勉強の意味って何だろう、とか時には死ぬってどう言うことかから書き初めて、収拾の付かなくなったページもある。当然幸せについて書かれているページもたくさんあり、何せ5年分くらいあるので、そのたび毎に私にとっての幸せの基準も変わっていて、読み返してみるとおもしろい。
 ビデオを見てひとくくりに平均的家族と言っても、たくさんの家庭の形があるのだなあと思った。ピーターさんは「普通の営みこそが世界を動かす」と言う。確かにいつも表舞台に出てくるのは有名人だが、歴史を動かしてきたのはいつも名もない平民たちだった。ビデオの中にはたくさんの幸せの形があった。一番心に残ったのは、ボスニアの家族だった。戦争は終わったのに、家族みんなの心の中ではまだ銃弾が飛び交っているようだった。いくら周りの生活が整っても、心が満たされなければ幸せは訪れない。言い換えるとどんなに絶望の淵に立っていても、未来を描き続ける希望を持ち続けることが幸せなのかなと思った。 後8年後、私の未来の日記ではどれだけ幸せの基準が塗り替えられているのか、今から楽しみである。

[kino-doc:211] 生活科学部2回生 谷口真依子(既習生)
 「幸せですか?」と聞かれて、即答できない自分がいる。多分、客観的には幸せなんだろうと思うし、今現在不幸で不幸で仕方がないと言う事も無い。住む家があり、家族が共に元気に暮らしていて、最高学府である大学という場で学ぶ機会を与えられている。不足に思うことは何一つ無い。
 (実は見るのは二回目なのだけど)今日のドキュメンタリーで印象的だったのは、ブータンでの電気の開通式である。皆が新たな文明の到来を喜び、さらなる豊かさを求めていた。8年前は「成功は求めない」と言っていたナムゲさんも例に漏れず。私はその光景を見て何か淋しい気がした。以前の生活で何も足りないものはなかったんじゃないのか、電気は本当に必要だったのか、と。そうしてふと、当然のように電気の恩恵を享受しているくせにそんな事を考えてしまう自分の中の身勝手さに気がついた。
 折しも今日の産経新聞で曽野綾子氏が「世界の騒乱の元は、貧困ではなく、貧困を意識させた事であり、意識させた人達だ。交通の発達や電気の普及はかつて見た事も無い世界の存在を人々に教え、その結果人々は自分が貧しい事を悟り、不満を抱いた。先進国が人道主義の名の元に荒々しく途上国の価値観に割り込んで、その欠点を暴き、不安を増幅させた」と書いていた。
 悪気は無くても、他人の幸せを掻き乱しているのかもしれない。知らないほうが幸せだったのかもしれない。だが知ってしまった以上、無かった事には出来ない。必ずしも文明化=幸せにならないことくらい、私たちはとうに分かっているはずである。しかしそのような負の側面は、いわゆる発展途上国に伝えられる事は稀だろうし、伝えられたとしても目の前の便利さ・豊かさに目を奪われていれば気付く事は出来ないだろう。私だって、今の便利さを手放すのは躊躇われる。ただ分かっているのは、幸せを感じたければ決して他人と比べてはいけない、ということだ。


[kino-doc:223] 文学部1回生 木下 衆
 R・ブラウンは、食料輸出国が経済発展し、輸入国になったとしても責められない。問題は今までの利益享受者(ex.日本)が、世界を支えるエネルギー体系を再構築できるかだ、と主張した。曽野綾子は正反対の主張をした。氏は10人子どもを生んだら2,3人死んだり、病気が治らなかったりするのは十分な医療機関が無く、貧しいからだ、と「途上国」が知る事は彼らの「価値観の破壊」だと言う。(産経、11.11)
 暗い中で食事するのは嫌だった、という趣旨の事をブータンのナムゲさんは仰っていた。私もそんな生活は嫌だ。7年後、氏も成功を求めていたが、年をとれば生活が不安になるのは万国共通だろう。子どもが病に倒れると、お母様は「元気なら」と、涙した。しかし曽野にとってナムゲ一家の恐怖、生活の不便さ、死への悲しみは、彼らの「価値観」なのだ。彼らの「改善したい」という切なる欲求は「価値観の破壊」なのだ。
 それは違うだろう。
 「物が無いと生きていけない。」もちろんそうだ。しかし大切なものとして「物」を答えた方々の言葉を、額面通り受け取って良いのか。客をもてなす
「豚」、と答えた家は物欲を満たす段階にあり、大事なのは豚なのか。もてなす相手との関係ではないのか。「物に溢れた」日本で、それさえあれば職を探すだけでいい「家」、と答えた人は物質主義者か。では彼は何のために働くのか。家族のためではないのか。ナムゲさんの価値観は破壊されたのか。彼の価値観は今も昔も「家族」ではないのか。
 何もかも失っても、モンゴルの一家はにこやかだった。だから私にとっての「幸せですか」は、「誰のため、何のために努力していますか」。
 参考文献:だれが中国を養うのか? (レスター・R・ブラウン,1995, ダイヤモンド社)


[kino-doc:250] 文学部4回生 西川裕美子
 幸せの形は一人一人違う。これは自明の事実だろう。人間が違う上にその人間が置かれた環境まで違うのだから、幸せの基準が違うのは当たり前だ。
 また体験談めいてしまって申し訳ないのだが、私は腎臓に病気を抱えているため、健康な人にはない苦労をすることも多い。高校生くらいまで、自分はきっと一生不幸だ、と思っていた(なんせ治らない病気だ)。なんで私がこんな目に遭わなきゃならない?どうしてアイツでもソイツでもなく私が病気なのか?と随分恨んだ。正直、今でもたまに思う。腎臓に負担をかけてはいけないので、小6から体育は全部見学。クラブもダメ、お稽古事もダメ、とにかく運動量を減らせと言われ続け、随分体力のない人間に育ってしまった。就職は体力のいらないものじゃないといけない(総合職なんてもっての外)ので、就活どうこう以前の問題。本当に厄介だ、自分の身体ながら。健康って大事ですよ、皆さん!
 大学生になってあまりそう思わなくなったのは友人の一言が原因だった。当然ながら私は自分の病気を心底嫌っていた。そのことを漏らした時に、それは違う、と強い口調で言われた。「今キミがここに立って私と話ができるのは、キミがその病気やったからや。もし健康な身体なら、違う人生送ってて私らかすりもせえへんかったかもしれんねんで?過去の自分を否定するのは今の自分も否定することや。」そういって励ましてくれた。もうぼろぼろに泣いた。この病気もひっくるめて自分、というのも悪くないと思えた。『五体不満足』で有名な乙武洋匡氏は、「障害は不便だが、不幸ではない」と言う。その意味が少しわかった。幸せかはわからないけれど、少なくとも、自分を不幸だとは思わなくなった。だって私は健康な人間からは見えない世界と思考回路を持っている。それってすごくない?
 同じ人間でもこれだけ考え方は変わる。たぶん、幸せは誰でも最低ひとつは持っているんだろう。問題は、それが幸せだということに自分で気付くかどうかだ。いや、むしろ、幸せだと思えるかどうかだ。ひとつの事実は何通りもの解釈ができる。自分がそれを幸せだと解釈すれば幸せで、不幸だと解釈すれば不幸なのだ。
※ところで病気病気と言っていますが少しだけ説明を。私の病気はIgA腎症というもので、尿に血液やタンパクが混じるものです。これらは本来身体に必要な成分なので腎臓で濾しとられ、外に出ません。自覚症状はありませんが(他人より多少疲れやすいくらい)、悪化すると腎不全となり、人工透析が必要になります。治療法は薬で悪化を止める(それを治療というのなら)程度。







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