「ドキュメンタリー・環境と生命」2002年度受講生の記録
ここには、記念すべき第9回から第12回までを掲載しています(2003年02月09日)。
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【公開授業をやりました(2002.12.19)】
その後も、授業の方は順調に進行しています。今日ですでに11回目の授業ですが、その間の辞退者はわずか3人で、現在も75人の学生が熱心に受講を続けています。
ところで、今日は学内で授業改善のために行われている「公開授業」に協力し、関心のある先生方に参観してもらい、その後で意見交換も行ってもらいました。参観者は15人に上り、ディスカッションにも9人の先生が参加されました。
授業のやり方には皆さんから大きな関心が寄せられ、この種の授業開発の意義を評価されたようで、やった甲斐があったと喜んでいます。
授業に関する意見で最も多かったのはディスカッションについてでした。
まず、「MLではいろんな意見が書かれていたのに、発言となると思ったほど出てこなかったのは時間制限のためなのか。それなら、ディスカッションだけの日を設けるのも一案ではないか。」 これは来年一度くらいやってみようかと思います。
また、「手を挙げて教壇まで行ってマイクで話すというのは誰でもなかなか難しい。しかも、みんなが前を向く固定式の教室ではなおさらである。」 これには私も参加者一同、全く同感で、移動式の机・椅子で丸く囲んで座ることができれば、きっと話しやすくなると思います。さらに、30人ぐらいならマイクもいらないからもっと話しやすいし、たとえ人数が多くともワイアレスマイクがいくつもあればだいぶん話しやすくなることでしょう。
先生方からの受講生への注文としては、MLで意見を言いっ放しで発言しない人、他の人からコメントされてもやり過ごす人が目立つことでした。いつも授業中に私や山中さんが注意していることと重なりますが、次善の策として教室で発言できなかった人にはMLに投稿するよう勧めています。
先生方からは注文ばかりでなく、エールも送っていただきました。「学生が様々な意見を言うのに驚き、うれしく思った。女子学生の意見がそれぞれ頼もしい。出生前診断の是非と中絶という問題は正答が出るはずのない問題だという認識も必要だろうと思ったが、木野先生がまとめの部分でそれに言及されたので一安心だった。」
第9回(2002.12.5)NHKスペシャル「誕生の風景」(NHK総合,2001.3.24,49分)
アメリカで行われている「凍結受精卵の養子縁組」、中絶が禁止されているフィリピンでの避妊
への取り組み、核実験場の近隣に位置していて障害児が多いカザフスタンの村。三つの命の誕
生の風景を追う。同じ誕生に、かくもさまざまな種類があるものかと。
<参考図書>
生命操作を考える会編『生と死の先端医療―いのちが破壊される時代』解放出版社、1998年
生命操作事典編集委員会編『生命操作事典』緑風出版、1998年
ロジャー・ローゼンブラット(くぼたのぞみ訳)『中絶―生命をどう考えるか』晶文社、1996年
グループ・人権と性『ア・ブ・ナ・イ生殖革命』有斐閣、1989年
御輿久美子他『人クローン技術は許されるか』緑風出版、2001年
J.W.ゴフマン(伊藤昭好他訳)『人間と放射線―医療用X線から原発まで』社会思想社、1991年
原田正純『胎児からのメッセージ―水俣・ヒロシマ・ベトナムから』実教出版、1996年
今中哲二編『チェルノブイリ事故による放射能災害・国際共同研究報告書』技術と人間、1998年
<当日資料>
図:妊娠のしくみ(『人クローン技術は許されるか』より)
図:体外受精のしくみ(『生命操作事典』より)
斎藤朋子「現代の生殖医療」(『「人間と科学・演習」ゼミ論集(3)』1999より)
芦野由利子「産まない選択・いま世界では」(『ア・ブ・ナ・イ生殖革命』より)
原田正純「放射線と胎児」(『胎児からのメッセージ』より)
<受講生による内容要約>
# 出産、それは生物として人間にとって普遍的な営みである。その普遍的な営みを通して、現代世界のありようが浮き彫り
にされる。
アメリカでは子を求める一組の夫婦が、養子を仲介する非営利団体を通じて凍結受精卵の養子縁組を利用する。夫は遺伝
的な繋がりのない出産への関わり方に葛藤し、凍結受精卵を提供した夫婦もまた自分の子供だという意識から葛藤する。
フィリピンのスラムで生活する夫婦は、経済的負担を考えて避妊を試みるものの、うまくゆかず四人目の出産に至る。卵管
を縛る不妊手術は術後二週間の安静を必要とするが、幼子をかかえる身では二週間家を空けることさえままならない。
旧ソ核実験場ちかくの村では、被曝の影響で先天的障害をもって生まれる可能性や流産の可能性が高い。きょうだいにも
被曝障害を認定された姉をもち、五歳になっても未だに意味のある言葉を話せないままの長男をもつ母は、悩みながらも決
意して、超音波検査の設備もない村の病院で慎重に検診をうけながら、次女を出産した。
三者三様の誕生風景は、現代社会のありようを深く問いかける。(理学部・2回生 櫻田和也)
「誕生の風景」を観て… 受講生が選んだベスト意見
文学部・1回生 原谷朋子[kino-doc:633]
私は、今回のドキュメンタリーを観て、本当の意味で『いのちを大切にする』ということはどういうことなのだろう、と感じた。
凍結受精卵を廃棄処分にしてしまうことや、望まない子供を身ごもって中絶することが『いのちを粗末にすること』で、凍結
受精卵を養子縁組することや、子供を中絶せずに産んで育てることが『いのちを大切にすること』なのだろうか。私は違うと
思う。
この番組に出ていた、さまざまな状況下にある夫婦たちが、『いのちを大切にした』と感じているのかどうかは分からない
が、問題は、その子供たちが成長して、どう感じるかではないか。子供たちがもし、さまざまな苦難を乗り越えたあと、『生ま
れてきて本当に良かった』と思えるなら、親たちは『いのちを大切にした』と胸をはって言えると思う。出生の経緯や状況は関
係なく、全世界のどの家族についても、同じことがいえるのではないだろうか。
(次点)文学部・2回生 祐尾文子[kino-doc:659]
今まで私は漠然と「子供が生まれること」は、もっと単純に喜ばしいものだと思っていた。しかし、画面に登場した三家族は
皆一様に複雑な表情を浮かべていて、それが印象に残った。
最先端の医療技術を誇るアメリカで、貧困にあえぐフィリピンで、そして核実験場のあるカザフスタンで・・・三組の夫婦を深
刻な顔にさせている原因は不妊、不徹底な避妊法、放射能の影響、と全く異なるが、生まれてくる子供のことをとても大切に
考えているという点では共通しているように見えた。だからこそ最善の選択を行うために、何度も葛藤を繰り返しているのだ。
やはりそれは親から子への愛情だろうし、何よりも親の子に対する義務であると思う。
その義務をきちんと果たすことができるように、他の障害はできるだけ取り除かれる必要がある。つまり安全で確実な避妊
法の教育、超音波診断器や帝王切開の設備といった医療面の整備は最低限徹底させなければならない。また生殖医療の
ガイドラインにも問題点は残されている。こうした妊娠・出産に関する各方面の見直しも、「生命の誕生」をもう一度尊重する
きっかけとなるのではないだろうか。
「誕生の風景」を観て… 私の選んだベスト4
文学部・1回生 西川未和[kino-doc:622]
今回のテーマは、自分も同じように生をうけ、また、自分が女であるという点で、決して目をそらせないものだったように思う。
子供が欲しいという人がいれば、いらないという人もいる。それはその夫婦の家族計画によってさまざまだろう。しかし、子供が
欲しいという個人的な欲求だけで、凍結受精卵を用いるのには疑問が残る。
まず、夫は本当にその子の父親になれるのか、ということだ。本来、遺伝的につながっていなくても子が欲しいのなら、誰か
が産んだ子を養子にすればいい話である。それを、わざわざ受精卵の状態でもらい受けようというのだから、そこには、少な
くとも「出産」という行為を果たすことで母性をより確実なものにし、より「我が子」に近い存在にしたいという望みがあるのでは
ないか。
それなら、夫にとっては前者でも後者でも、その差はあまりないように思う。それどころか、本来血がつながっている、という
事実から夫は父親であることを自覚するはずなのに、それができないのだから、夫にとってはむしろ逆効果なのではないか。
また、もし生まれた子供が人一倍出来の悪い子だったり、障害児だったりした場合も問題だ。家族というのは、心のつながり
よりも先に血のつながりによって、他人なら許せないところも許せてしまうところがある。それなのに、凍結受精卵によってそう
いった子供が生まれてしまったら、この遺伝子を提供したやつのせいだ、私たちの子供ではない、という議論になりかねない。
そうなると、子供は非常に不幸である。
子供を作れない夫婦が、そういった方法で子供を持つことによって、必ずしも幸せになれるとは思えないのだ。もし子供が健
康でなかったら、もし犯罪をおかしたら、それでも我が子として育てていけるのか。長い目で見て考えなければ、結果的に、自
分たちも子供も不幸になるだけだと思う。
工学部・1回生 中村菜美香[kino-doc:627] (約束破りの長文ですが、熱がこもっているので選びました。)
子供。どんな子供であっても親にとっては最高の宝物。今回、三つの違った生命について語られていた。
「凍結受精卵」について聞いたとき、私は正直、恐いと思った。人間は出産という自然のサイクルに手を加え、今まで考えられ
なかったことを可能にしている。それは遺伝子組み換えについてもいえるが、絶対にしてはならないと言われてきた人間のクロ
ーンまでがでてきているくらいである。そのことに関していうと、そのクローンも、統計的に寿命は短いというが、一人の人間であ
り、必ず人権は与えられるものだということを忘れてはならないと思う。しかし忘れられてしまう危険性はおおいにあるような気が
する。はたしてその親や、社会は心から受け入れていけるのか。状況は違うが、事故で亡くした子供をかたどって作られた鉄腕
アトムの苦悩を思い出す。子供ができない夫婦にとって、「凍結受精卵」は希望の光なのかもしれない。私が同じ状況なら、同
様にどうにかして子供を授かる方法を探すだろう。もしかしたら「凍結受精卵」に行き着くのかもしれない。しかし、一番考えなけ
ればならないのは、生まれてくる子供の気持ちであると思う。
フィリピンのスラムに住む家族は、経済的に苦しい状況であった。子供の数がこれ以上増えては生活が成り立たない。中絶が
禁止される中、避妊は女性が負担するものであり、コンドームの使用率は1%しかないという。家事が忙しい母親は避妊手術に
至る決心をつけることはできなかった。私が印象的だったのは、まだ小さな長男が路上で花飾りを売って母親の手伝いもしてい
るが勉強もがんばっているということだ。「中学校まではいかせてあげたい」と母は言う。私は自分に問いかけてみる。いきたくて
も経済的にいけない人がいる中、私は何不自由なく大学まで進学してくることができた。世界の人口を100とすれば大学にいっ
てる人は1人であるという。私はある意味恵まれた環境に育ったといえる。私に何ができるのか。それはせっかく大学に入ること
ができたのだから思う存分がんばることであると思う。そして何かそういった募金とかにも、私たちの少しのお金で助かる人がい
るのなら、やってみようと思う。
そして、カザフスタン共和国のカイナール村。ソビエトの核実験場から近く、当時は爆風などで家がつぶれそうなほどであった
。脳に障害をもつ長男をもつ母親。たとえ障害はあったとしても、その子は自分の大切な子供。核実験によって人生をかえられ、
障害をもつこと自体は腹立たしいことだが、その結果生まれてきた障害を持った赤ちゃんは、「かわいそう」というのではなく、1人
の人間として認められて生きるべきであり、それがは当然のことであるが、忘れがちなことと思う。(私も「公害と科学」をうけるま
で、あまり考えたことのなかったことだけど。)
この三つの生命は、出産されるまでに、親たちのためらいや葛藤があったわけだが、この世に生を受けて成立した親子の出会
い。仲良く暮らしていってほしいと思う。
文学部・3回生 山本崇正[kino-doc:650]
今回はアメリカにおける先端医療の例について取り上げます。
最初に断っておくと、僕はこの問題が簡単に答えの出る問題ではないと思っています。ひょっとしたら答えの出ない問題なのか
もしれないとも思います。自分はどうしたいのか/したくないのかというレベルでしか語れないと思います。
今回のドキュメンタリのケースで問題になっていたのはまさに先端医療技術の進歩によって引き起こされた問題です。「凍結受
精卵の養子縁組」が取り上げられていましたが、そこまで行く前にそもそも人工授精を認めるのか否か、他人の受精卵を用いて
の出産を認めるか否かといった問題が解決してからでないと議論できないと思います。僕は生殖医療そのものに対して懐疑的な
ので、それを用いての養子縁組などとてもありえないと思ってしまいます。
僕がそのように思うのは、生殖医療というものに対して人間が人間の命を「操作している」という感覚があり、これをとても容認で
きないからです。生殖医療の問題は倫理的問題として取り上げられることが多いと思います。しかしそこには倫理外の問題も多く
あります。例えば、人工授精のための卵を確保するには女性の排卵の誘発剤を用いますが、これが身体に深刻な影響を与え、
場合によっては死に至ることもあります。そこまで行かなくとも、体のリズムを狂わせるわけですから、身体的な負担はかなり大き
なものがあります。これはこれで重要な問題ではありますが、もっと根源的な問題として、先にあげた人間による命の「操作」とい
う問題があります。この議論は人間以外のもの―クローン問題の議論ともつながってきます。
確実にいえるのは、「僕はいやだ」ということだけです。なぜ嫌なのかと問われれば、それは人間が生命を操作すべきではないと
「感じるから」としか、今のところ答えようがありません。仮にも倫理学を専攻している学生の意見としては情けないと思いますが、
残念ながら今の僕はまだそこまで行っていません。今後考えていきたいと思いますし、ディスカッションやMLで皆さんの意見を聞
いてみたいと思います。
経済学部・3回生 稲谷 恵理子[kino-doc:668]
最先端技術、貧困、核実験、それぞれの状況で「命」の見方が違った。生まれてくる「命」は同じなのに、何か全く違うもののよう
に感じた。ただ、切望されて人工的に生まれてくる子、無計画に生まれてくる子、人工的な「核」による障害を心配されて生まれて
くる子、その子達を女性が「生む」ということが共通していた。私はどの子にもなりたくないなぁと正直思った。
神様がいるっていいなぁと思った。道義から外れそうになったら、「神様」にすがればいい。人の科学の最先端技術において体外
で作られた受精卵、遺伝的には違う人の子供だけど、「生む」という過程により親となる。この子は神様からの授かりもの…。無理
がある。もうすでに、世界の最先端技術は神様の神秘的な力を超えている。
第10回(2002.12.12)ETV特集・シリーズ1998・閉そくの時代を超えて
C「生命誕生の現場が問うもの〜出生前診断と胎児細胞利用〜」(NHK教育,1998.12.24,45分)
医療技術の発展のおかげで、胎児に関する出生前診断が広がり始めている。
しかし、母体血清マーカーテストに対しては、ダウン症の子を持つ母親たちから反対の声が上がって
いる。障害児の出生を予防するための検査は是か否か。さらに、中絶胎児細胞を利用した移植手術
の動きに対しても様々な意見がある。イギリス、アメリカ、日本の現場からのレポートと玉井真理子・
市野川容孝の解説。
<参考図書>
坂井律子『ルポルタージュ出生前診断』NHK出版,1999年
佐藤孝道『出生前診断』有斐閣選書,1999年
生命操作を考える会編『生と死の先端医療―いのちが破壊される時代』解放出版社、1998年
カレン・ローゼンバーグ/エリザベス・トムソン編(堀内成子/飯沼和三監訳)『女性と出生前検査―安心という名の幻想』日本アクセル・シュプリンガー出版,1996年
ロバート・F・ワイヤー『障害新生児の生命倫理〜選択的治療停止をめぐって』学苑社,1991年
加藤尚武・飯田亘之編『バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論』東海大学出版会,1988年
<当日資料>
表:「現在行われている出生前診断」(『生と死の先端医療』より)
杉山あずさ「母体血清マーカーテストによる命の選別」(『「人間と科学・演習」ゼミ論集(3)』2002年より)
「遺伝医療 幅広い論議を」1997.12.3.朝日新聞記事
<受講生による内容要約>
# 今、女性の妊娠において、新たな倫理問題が生まれてきている。出生前診断と中絶された胎児利用である。
現在、羊水診断などの検査方法によって胎児の染色体異常の可能性が判定できるようになっており、日本でもこの方法が
一般化しつつある方向にある。最初にこの方法が導入されたイギリスでは、病院に「出生前クリニック」がおかれており、妊娠
女性に積極的に血液検査などをすすめて胎児の異常を早期に発見するよう努めている。この検査料は無料であり、国が負
担している。障害者にかかる費用と検査にかかる費用を秤にかけたコストベネフィットの考えに立って行われている政策であ
る。しかし、出生前診断は優生思想につながるものだとする声も決して少なくない。
アメリカでは女性の人権運動に合わせて、中絶胎児の利用が押し進められた。胎児の体はパーキンソン病のような難病に
効果があると言われている。日本でも、高齢者の関節治療に利用されている。「有用であれば使ってもよいのではないか。」「
人間の尊厳に対する冒涜である。」意見は様々である。
女性の自己決定権も重要である。女性だけがその責任を負うのか。いかに社会が女性をサポートするのか。新しい医療の提
起する問題は人間の生命に深く関わってくる。その問題にどう向き合うのか。(医学部・1回生 岡崎栄一郎)
「生命誕生の現場が問うもの〜出生前診断と胎児細胞利用〜」を観て… 受講生が選んだベスト意見
法学部・1回生 倉本晴日[kino-doc:682]
このドキュメンタリー全体を通して、はっきりとはわからないが何か違和感を覚えた。出生前診断も胎児細胞の利用も、不必要
とは断言できないが、どちらも胎児の人権というものを全く無視しているような気がする。
確かに障害を持って生まれてくるというのは親にとってもその子自身にとっても大きなリスクとなりかねない。経済的にも精神的
にも。だが、障害を持っているからこの子は産まない、健康だからこの子は産む。仮にも自分と血を分けた、自分の中で確かに生
きている一つの命をなぜそんな風に選別できるのか。
障害の有無に関わらず産むが、単なる心構えのために検査を受ける、というのならまだ理解できるが。不妊治療の発達により
本来生まれてくることの無かった子供が生を受ける。その裏で、出産前検査技術の発達により本来生まれてくるはずだった子供
が殺される。これは生命を弄んでいることにはならないのだろうか。
あともう一つ気になったのは、作中に父親が出てこなかったことだ。妊娠や出産、中絶に至るまで、やはり女性の負担がかなり
大きいように思われた。
(次点)法学部・1回生 大川由輝[kino-doc:684]
母体血清マーカーテストの一つの問題点として、それが障害が発見された場合には、胎児は中絶されることが前提として行われ
ていることではないだろうか。前提とまでは言わなくても、診断を告げられた妊婦は不安・医師や周囲の考え・
障害に対する認識
不足等によって、中絶を選択してしまうことが大半である。
この診断がマス・スクリーニング的に用いられることには絶対反対である。個々のカップルの希望によってのみ行う場合にも、
情報提供・カウンセリング・自己決定が適確に行われるような環境を整備することが大切だと思う。ただ自己決定といっても、それ
は胎児本人の決定では決してあり得ないのであり、本来決定するべき立場の者はいないということを忘れてはならない。
個人的には、これが障害を持つ胎児を中絶することを前提にするのではなく、発見した場合には親は心理的・知識的な準備をし
、家族や周囲はこれから生活を共にしていく障害者を受け入れる備えをするために行い、またそのための機関やカウンセリングの
制度が整備されてほしいと思う。
「生命誕生の現場が問うもの〜出生前診断と胎児細胞利用〜」を観て… 私の選んだベスト4
法学部・1回生 岩井 彩[kino-doc:679]
”出生前診断”この問題はすごく難しいと思う。社会の利益を目的として、産む選択を考えない診断には当然反対だが、診断を
して、親に知らせることは、全く悪いことではないとおもう。自分の子供の状態を前もって知っていれば、ショックも少ないし、準備
もできると思う。
尊厳のある生き方ができないのなら、生かすべきではないと言う医者がいたが、いったい尊厳のある生き方とは何か?障害者
=尊厳がない・不幸と考えること自体が間違いであり、差別である。障害を持っていても、生きていることに感謝している人がいる
限りは、そのいのちの芽を摘むべきではないとおもう。
しかし、私はこれを理想論ではなく、少々自分勝手であっても、自分の問題として考えたいと思う。私は、自分の子供が障害者
であるとわかったら、産むかどうかわからない。生まれた後のことを考えると、自信がないからである。わかっても産むと言う人は
、たとえ自分の子がどんな子であっても大切に育てられるという愛情があるのであり、そういう親なら、産まれてくる子も幸せにな
れる。でも、知っていたなら産まなかったというような親の元に生まれた子は、はたして幸せだろうか・・この診断を、障害者排除で
はなく、障害を持つ子でも産むこと=愛情の証・として親たちも誇りを持ち、また周りもそういう風に見るようにしていけばいいので
はないかと思う。
理学部・2回生 山野陽子[kino-doc:693]
今回のドキュメンタリーは本当に難しかった。
驚いたのは、イギリスが、障害者を減らした方が、中絶を無料で行うよりも費用がかからないという理由から、出生前診断を受け
させていたことだった。この事実を知ったら障害を持つ人はどう思うだろう。自分は生まれなければよかったのにと思うに違いない。
いらない生命なんてないと思う。例え、障害があったとしても、本人が幸せだとしたら周りは何もいえないのではないだろうか?
生まれてくる子供が苦労するといけないからという理由で中絶を選択する人もいるかもしれないが、まだ生まれてもいない子供の
気持ちが分かるのだろうか。確かに、障害があると、本人も周りの人も苦労するかもしれないけど、生まれてきたことを後悔する人
ばかりではないと思う。周りの人の支えや理解があれば、幸せになれると思う。生まれてからの、事故や病気などで、障害をもつよ
うになる人もいるのに、その人たちはどうなるのだろう。障害を持つ人がどんどん追いやられていくのではないだろうか。そんなこと
にはなって欲しくないと思う。
医療や技術の進歩を、障害者を減らすということよりも、障害者の人がより生活しやすいように使うべきではないだろうかと思った。
医学部・1回生 岡崎栄一郎[kino-doc:715]
私は出生前診断には反対です。その行為が一体何の為にされるのかを考えた時、出生前診断は医療行為ではないと思える
からです。出生前診断をすることによって、障害を持った胎児は救われるでしょうか。彼らは、母親の選択によって殺される可能
性こそあれ、その診断からは何の利益も受けていないのです。
親に焦点を当てた場合、障害を持つ子供を産むことは本当に不幸なことなのでしょうか。確かに障害を持った子供を育てるの
は大変です。しかし、そのことが不幸につながるとは私には思えません。出生前診断は生まれてくるはずの生命を握りつぶして
しまう行為なのだと私には思えました。
中絶胎児の利用に関してですが、私は感情的には中絶が好きではありません。ですから、私の中では中絶胎児はそもそも存
在しないはずなのですが。実際に存在する中絶胎児については、理論的には利用が許されるはずです。中絶が生命の線引き
によって定められているのですから、中絶胎児は、その線引きによって生命であったとは認められないはずですから。しかし、
これも感情を交えて言うと、私はそもそも受精卵の段階から生命であると認められるべきだと考えているので、胎児利用につい
てもやはり反対です。
生命倫理の問題は、論理的な考え方が通用しないところにあると思います。個人の感情をどこまで重要視するのかが大切な
ことだと思います。
生活科学部・1回生 鵜飼和紗[kino-doc:722]
私はダウン症の男の子と、小学校・中学校と一緒でした。今日のビデオを見て、その子の事を思い出しました。
今日のビデオを見て思ったことは、やはり今の世の中は障害者をお荷物だと考えているのだなということです。「障害者を減ら
すことが目的」といっていたけれど、今生きている障害者はそんな事を言われてどうやって生きていったらいいんでしょうか。自
分の存在を否定されているも同然だと思います。
だけど、もし私が検査を受けて自分の子どもが障害を持っているとわかったら、勇気を持って産んで育てることができるのかわ
からないと思います。障害を持っているからといって簡単に命を奪っていいのか、産まれてくる子どもは本当に幸せなのだろうか
、ちゃんと育てることができるのだろうかと、すごく悩むと思います。多くの人は同じようにそうやって悩んで、結局中絶してしまうの
でしょう。それがいいことなのか悪いことなのか、私には決められません。
ただひとつ思うことは、時代が進み技術が進んでいくにつれて、命の尊さが失われつつあるような気がします。人の誕生も死も
簡単に操ることができて、なんだか怖いです。ついには人のクローンまでできてしまったし、そのうち誰でも簡単にクローンをつく
ることが出来るようになるかもしれません。生命というのは何なのか、技術が先へ先へと進む前に、改めて考えてみるべきだと思
います。
第11回(2002.12.19)ウイークエンドスペシャル「揺れる京都議定書〜問われる日本の選択」
(NHK衛星第一,01.7.14,50分)
2001年3月、アメリカのブッシュ大統領は、京都議定書からの離脱を宣言し、批准を拒否した。
議定書の2002年発効をめぐり、賛成派のEU・ロシア・東欧と、反対派のアメリカ・カナダ・オー
ストラリアは対立、日本がついた方が成立するというキャスティング・ボードを握ってしまった。
海面上昇では国土が水没するオランダは、住民投票でライフスタイルの変更を決め、石油会
社も消費者に再生可能なクリーンなエネルギーを買わせるようにし向けることで株主に利益を
もたらすエネルギー会社になる道を選択した。しかし、アメリカは、懸命に働いて手にした生活
を手放せなどと他人に言われたくない、自分のやり方で協力すると言う。
さて、私たち日本人は、ライフスタイルを変えられるか。
<参考図書>
佐和隆光『地球温暖化を防ぐ : 20世紀型経済システムの転換』岩波新書,1997年
さがら邦夫『新・南北問題 : 地球温暖化からみた21世紀の構図』藤原書店,2000年
<当日資料>
「京都議定書批准―CO2削減、重い十字架」2002.6.5.朝日新聞
藤谷篤志「Sustainable Developmentの確立をめざして〜京都議定書問題からの考察〜」(『「人間と科学・演習」ゼミ論集(3)』2002年より)
<受講生による内容要約>
# 1997年に採択された京都議定書は、先進国に温暖化効果ガスの排出の削減を義務付け、地球温暖化を防止しよう
とする国際的な合意文書である。この京都議定書を前に、自国内の企業活動を優先しようとするアメリカと、温暖化防止は
国際的な枠組みの中でしか解決できないとの立場を採るオランダの現状を紹介する。
温室効果ガスの36%を排出するアメリカは2001年3月京都議定書からの離脱を宣言。ブッシュ政権は産業界との歩調
を揃え、エネルギー大量消費を前提とした豊かな暮らしと経済成長を目指す。国民も今の暮らしは自分が働いて得たもの
でライフスタイルは変える気がないと、ブッシュの決断を支持している。5月には新エネルギー政策を打ち出し、国際協調か
ら外れ、独自の道を歩むことを表明した。 一方、オランダは国土の4分の1が海抜0m以下という地理もあり、温暖化防止
の為の取り組みを既に始めている。国民はエネルギー消費を抑えるため、ライフスタイルを変えることを選択。実際に国民
の3割が通勤に自転車を使うなど、生活を変えている。石油会社も環境保護と株主の利益の両立を目指し、再生可能エネ
ルギーを扱うことを決めた。
京都議定書は問う。「豊かな生活とエネルギー消費は比例するだろうか」 この問いに日本も答えねばならない。
なお、日本は2002年6月、京都議定書を批准した。(学外 林 久子)
「揺れる京都議定書〜問われる日本の選択」を観て… 受講生が選んだベスト意見
文学部・1回生 有村昌子[kino-doc:784]
「環境問題」とは、近くて遠い問題だと感じる。重大な話なのにいつも距離を感じてしまうのは何故なのだろう。きっと環境の
ことを私が考えても、何も変わりはしないという無力感みたいなものがあるからだと思う。だからって、このまま環境が悪化し
て良いなんて思ったことはない。私は私なりに自分の生活の中で、省エネやゴミをできるだけ出さない努力などは実践してい
る。けれど、アメリカの二酸化炭素の排出量や、日本の家庭からの二酸化炭素排出量の割合を見ると、自分のやってること
にどれだけ意味があるのかと、気が滅入ってしまうのも事実だ。
私はアメリカの議定書離脱に賛同したくない。議定書のことを非現実的だと言っていた。しかし代替エネルギーとは、いつ
利用可能になるエネルギーなのか。その間にも二酸化炭素は耐えず排出される。議定書の問題になると、話が国家レベル
になって全然身近に感じない。アメリカに離脱しないで欲しいと思っても、私の力ではどうこうできない。でもアメリカの人だっ
て環境について深刻に考えている企業、人はいっぱい居ると思う。やはり、一人一人の意識の問題なのだ。意識を変えるた
めに、ライフスタイルを改善するというのも有りだと思う。EU程差し迫った問題じゃないと改善に足を踏み出さないようでは
手遅れになってしまう。これは誰かの問題ではなく、自分たちの問題なのだから。
(次点)工学部・1回生 林 暁恵[kino-doc:756] (同数票の人が他に2人いましたが、まだ選ばれたことのない人を次点としました。誤字脱字等は訂正しました。)
このドキュメンタリーでは国として温暖化に対する違った方針を打ち出しているアメリカとオランダについて取り上げられて
いた。自国の経済の発展を願っているアメリカと、自国の存亡の危機にあるオランダ。一見この二つの国の目指しているも
のは全く違っているように思えるが、ある意味では共通しているように思える。両国ともに自国の国益を目指しているのだ。
アメリカのやり方を容認するわけではないのだが、アメリカとオランダでは温暖化に対する危機意識の違いがまず大きい
と思う。気温が上がるといろいろ悪影響があるという知識はあるものの、漠然としか危機意識のないアメリカに対しオランダ
は国がなくなるという明白な危険が迫っているのだ。だからこそ国民も動く。その国民の意識の違いが両国の石油会社の
やり方の違いにそのことは大きく出ているように思われる。オランダのシェルも初めはやり方を変えようとしなかったが、い
まではクリーンなイメージをアピールしている。それは何といっても周りのプレッシャーからなのだ。コストを気にしてやり方
を変えなければ、かえって消費者から目の敵にされ、方向転換以上に業績を落とす。そう考えたからシェルは方向転換をし
たのではないだろうか。
今度は日本に目を向けてみよう
私自身の温暖化に対する危機意識はどうだろう。今までなかった病気が日本で流行する可能性がある・・・まぁ怖いわね、
異常気象で雨が増える・・・まぁうっとうしいわね。知識としては知っていても、結局その程度のような気がする。そう考えると、
私がアメリカのやり方を批判するのはいかがのものかというふうに思えてきた。
まとまらない文章ですがこの辺で・・・。
「揺れる京都議定書〜問われる日本の選択」を観て… 私の選んだベスト4
学外 林 久子[kino-doc:787]
京都議定書に反対の立場を採るアメリカ、カナダ、オーストラリアとは、どんな国だろうか。自国内でエネルギーを産し、食糧
自給率が高く、そして移民の国である。自らが国を築いた記憶が新しく、それに対する自負がある。他国の助けを借りずとも自
国だけでやって行く事の出来る国である。国民は自らが勝ち取った現在の生活を楽しむ当然の権利があると考えている。
温暖化防止条約では「共通だが差異のある責任」を言う。先進国により重い責任があるとする考えだ。この考え方には発展
途上国のことが視野に入っているが、「他の浪費している国のためにライフスタイルを変えたくない」と言う人々には発展途上
国のことが見えているだろうか。
日本は京都議定書を批准はしたが、国民には温室効果ガスの排出削減は産業界が取り組めばよいという、どこか他人事の
感がある。まだオランダのように自分のこととして捉えられないように見える。民生用の排出の伸びが大きいことを考えれば、
生活の豊かさにはエネルギー消費が必要か、自らのこととして問い直さねばならない時が来ていると思う。
文学部・1回生 田中和也[kino-doc:791]
今回のドキュメンタリーを見て改めて思ったことは、我々のライフスタイルと環境との相関関係です。環境問題に対しては
エクソン・モービルのような水素電池をはじめとする新技術の開発で対抗すべきという意見と、今存在している環境を守るこ
とを念頭に置く意見との二つが存在しています。しかし、どちらの手段をとろうとも、結局は個人個人が環境に配慮した生活
をとることが肝要であることは同じと思います。ただ、「如何にして個人個人が環境問題に対して危機感をもてるようになるの
か」は極めて難しいとも思うのです。これは、ドキュメンタリーの中のアメリカとオランダの対比でなおさら思いました。
アメリカは、「さすが」と言うべきか、やはり自国の経済をタテに京都議定書に批准していません。片や、オランダは「ネーデ
ルランド」、つまり「低い土地」の国名が示すようにライン川などのために地球温暖化で直接的に被害を受ける地域です。つま
り、温暖化に対して必然的に強い危機感を持たざるを得ないわけです。この「危機感」の有無が最大の問題と思います。
以前MLで「エネルギー問題で世界が大変だから、というものの、いかほどの人が節電を心がけるだろうか」とお書きになっ
ている方がいらっしゃいました。これも、「危機感」の有無がかかわっている問題と思います。私自身、「温暖化」といっても
なまじ手で触れるわけでも直接目で見られるわけでもない問題を「対岸の火事」として見てしまっているところがあります。
木野先生がおっしゃっていた「他人事と聞き流さずに、もしその問題の当事者となったらどうするのかを考えてみる」という
ことの難しさを感じました。
工学部・1回生 堤 卓也[kino-doc:800]
日本がとった選択は間違いでは無かっただろう。少なくとも私はそう思いたい。
しかし、それは同時に日本が二酸化炭素排出量6%削減という、とんでもなく重い負荷を背負ったということを決して忘れては
ならないと思う。2000年現在、日本の二酸化炭素排出量は年間約12億トン。この6%は何と約7200万トンにあたる。1kwhの電
力量を発生させる際にも炭素換算比で89gの二酸化炭素が発生するのだから、全国民で年間約1兆kwhを消費している我が
国において、この7200万トンの二酸化炭素排出量を節電(エネルギーの節約)だけで抑えようとするには、個人個人、かなり
の努力を必要とするだろう。その為二酸化炭素排出量削減の為のほかのプログラムは、海外植林や、燃料電池システム、
太陽光発電装置、プラントからの二酸化炭素液化処理技術なども現在研究されているが、これが即ち節電を怠っていいとい
う理由とはならない。節電が最も効率的に、かつ合理的に環境負荷の低減を図れると考えているからである。だからもっと広
い範囲の人々に、この「6%のハードルの高さ」を意識させることが必要ではなかろうか。
ところで、アメリカを別に攻めるつもりではないが、アメリカの選択が正しいものであるとはどうしても考えられない。国益に
そぐわないから、独自の考えで国益を侵害しない程度に二酸化炭素排出量を下げようとする。この考えに私は、排出量を「下
げようとする」のと、「下げる」のは違うのではないかと思った。
だから私はアメリカも京都議定書を批准すべきだったと思うし、国民一人が、年20トンの二酸化炭素を排出している国だとい
うことを反省した上で、先進国が団結してこのハードルを乗り越えるべきだったと思う。しかし、こんな事は今更いっても遅い事
なので、先ずは日本が更に環境に優しい国となって、他の国を牽引する立場になることが先決だと思う。
理学部・2回生 櫻田和也[kino-doc:807]
地球規模の環境問題については、百年単位で対処するよう考えねばならない。少なくとも50年ほど経たなければ、目に見え
るほどの変化は現われないだろう。このように世代を越えた方針を立てる試みの第一歩として、京都議定書は評価されるべき
ものである(*1,*2)。
米国は離脱表明の後独自の代替案を発表し、2012年までの10年間でGDP当たりの排出量を18%削減するという目標をた
てたが、米政府は今後のGDP成長率を年3%と想定している。これでは2010年には90年比で実質30%以上増える計算になる。
ただし、米国でGDP成長率が3%と比較的高く見積もられることには理由がある。米国は日本や欧州よりもずっと人口増加
が大きいのだ。90年代の好況期の経済成長も、国民一人あたりの国内総生産でみれば欧州や日本と大差ない。それどころ
か貧富の差は拡大し続け、就労時間も増え続け、賃金水準も20年前とほとんどかわらない。ごく一部の富裕層が好況の恩恵
をうけていただけだ。 生活指数をみると、乳児死亡率は日本が3.7/1000人だったのに対し米国は7.8人(1998年)であるし、最
近の統計でも4500人以上の人が健康保険を持っておらず、その人数は増え続けている。年間労働時間はついに日本を抜き、
有給休暇も法的に義務づけられていない。
実は米国は巨大な発展途上国なのではないか。
これを顕著に示すのが資源エネルギー効率(GDP/エネルギー消費量比)である。日本のおよそ1/3、EU諸国平均に比べて
も1/2程度の効率でしかない(*3)。めざましい経済発展を遂げる中国やインドとともに、是非とも近代化を遂げ、十数年後には
あらためて地球規模の環境問題に取り組んでいただきたい。
*1 全国地球温暖化防止活動推進センター http://www.jccca.org/
*2 田辺有輝 京都議定書ガイド http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2686/gg01.html
*3 市民のための環境学ガイド http://plaza13.mbn.or.jp/~yasui_it/ より、表 Energy Productivity (GDP/Energy Consumption)
http://plaza13.mbn.or.jp/~yasui_it/EnergyProduc.htm
第12回(2003.1.9)こころの時代〜宗教・人生「長き戦いの地で〜医師・中村哲」(NHK教育,01.11.25,60分)
18年前、内戦のさなかのアフガニスタンやパキスタンのハンセン病治療に出かける。以来、
内戦や旱魃で困窮した人が難民になって行き倒れて凍死か餓死する前に救うべく、村に井戸
を掘ったり、診療所を建てたり、巡回診療をしたり、小麦や食用油を運んだりしている。誰もが
納得できるアクションならば、宗教や政治の違いを越えて協力できるというのが彼の信条。
現地スタッフを雇用する、撤退しないことで、地元に溶け込み、その信頼関係はとてもとても
強固。活動資金は日本からの会費やカンパで調達している。
<中村哲さんの著書>
『ペシャワールからの報告―現地医療現場で考える』河合ブックレット,1990年 ←505円で読めるよ!
『ペシャワールにて―癩(らい)そしてアフガン難民 』[増補版]石風社,1992年
『ダラエ・ヌールへの道―アフガン難民とともに 』石風社,1993年
『アフガニスタンの診療所から』筑摩書房,1993年
『医は国境を越えて』石風社,1999.12.
『医者井戸を掘る―アフガン旱魃との闘い 』石風社,2001.10.
『ほんとうのアフガニスタン』光文社,2002.3.
「ペシャワール会」のHPは → http://www1m.mesh.ne.jp/~peshawar/
<当日資料>
「中村哲医師とペシャワール会」(「ペシャワール会」のHPより)
ザ・インタビュー「戦争への加担は難民を作り出す」中村哲医師(2001.10.2.「毎日の視点」)
「ペシャワール会」(「ペシャワール会」のHPより)
<受講生による内容要約>
# 18年にもわたる、アフガニスタンでの医療活動と水源確保事業。現地に溶け込んだ彼の活躍は、多くのアフガニスタン人
の信頼を得た。銃を担いだ現地スタッフを引き連れ、山々を越えて診療に出かける。彼の巡回を待ち望んでいた人々。彼が建
設を目指す新しい診療所。一人の人間がこんなにも力強く、こんなにも多くの人を救えるのか。彼は常に長期的な支援を心が
ける。そして地元の習慣を大切にする。「本当のボランティアとは何か」と考えさせられた。
中村医師は話す。「望郷の念で一日一日を生き延びる人がいる」。
青白くそびえたつ連峰と、緑の草原。埃ばかりのアフガニスタンの映像を見ていた私は驚いた。そして、こんなにも美しい故郷
を捨てた難民の悲しさを感じた。それどことか、難民となることさえできない人が多い。当たり前のことが当たり前にできない国
アフガニスタン。この国を見捨てなかった中村医師のパワーの源に注目する番組である。(経済学部・3回生 影本菜穂子)
「長き戦いの地で〜医師・中村哲」を観て… 受講生が選んだベスト意見
文学部・2回生 川崎那恵[kino-doc:872]
私が一番印象に残っているのは、人間は良い面と悪い面の両方を持ち合わせている、と中村さんが述べられたことだ。私には、
ある人の一面だけを見て「あの人はこんな人だ」と決めつけることがよくある。決めつけてしまっては、そこから先、相手のことを
理解しようとしない。中村さんはそうではない。良い面も悪い面も含めて相手を信じる。それは中村さん曰く「誰が聞いてもあたた
かくなれるような人間らしさ」が全ての人々の中に確かに存在することを、信じているからなのだ。
これまで、ドキュメンタリーを見てきて、世の中に問題が多すぎて気が滅入ってしまうことがしばしばあった。しかし、今回の中村
さんのドキュメンタリーで締めくくれたことを本当によかったと思う。これまでのドキュメンタリーの中で考えたことをもう一度考える
ことができた。そして、“希望”があることを強く感じたのだ。これからも私は中村さんの活動から多くのことを学びたいと思う。中村
さんみたいにはなれなくても、中村さんの乗り越えて来た苦難のうち少しでも味わい、「あたたかな人間らしさ」を信じることのでき
る人間になりたいと思った。
(次点)文学部・1回生 田中和也[kino-doc:851]
今回のドキュメンタリーで最も感じたのは、「生」というものの尊さ・重さです。中村医師は、アフガン戦争時代でこころに傷を
負った人々に同情して一緒に沈み込んでも仕方がないとおっしゃっていました。そして、後悔にとらわれているよりも,「生を大
切にする仕事」へ目を向けることが大切だと。また、アフガニスタンでしばしば起こっていたという「復讐の連鎖」を止めるのは
難しかったと。
私の身の回りには,私自身を含め、様々な要因で「後悔」にとらわれている人が多いです。そして、「生」から目を背け、私た
ちの前から姿を消したり、自ら命を絶った人もいました。私は、友人が命を絶ったときは本当に悲しかったし、無念でした。友人
の「居場所」を失わせた周囲の人々を恨み、私自身も責めました。今も、悔恨の念から完全には抜けきれていません。また、祖
父がガンで亡くなったときも、「ひょっとして病院は手を抜いて祖父を死に至らしめたのではないか」と、恨んだこともありました。
しかし、結局、「死」に目を向けても仕方が無いのですね。南アフリカ共和国でアパルトヘイトが終りを告げた時は、白人達は
有色人種からの報復を仕掛けてこないかと懸念したそうです。しかし、報復は起こらなかった。人と人との関係は、各々の起こ
した行動の責任追及をおこなうのも大切ですけど、最後は「どこまで許しあえるか」「どうやって新しい関係を結び共に生きてい
くか」が大切ではないでしょうか。今の米国の武力を傘に着た「悪の枢軸国」への戦争は、のちの米国社会では「歴史上最も恥
ずべきことの一つ」となるのではないか。そして、米国の「提灯持ち」である日本も、いつか今回の戦争に関する行動で「しっぺ
返し」を喰らうことになるのではないか。そして、我々は、自己の中にある「復讐」の種にもう一度目を向けるべきではないか。
中村医師のおっしゃった、「誰が見ても、心が温かくなるもの」に皆で目を向ける大切さを改めて考えさせられました。
「長き戦いの地で〜医師・中村哲」を観て… 私の選んだベスト6
文学部・2回生 小島良子[kino-doc:846]
「人間の心には同じ灯がともっている。」
今回のドキュメンタリーから、私はこのような素敵なメッセージを受け取りました。自分の敵である人、憎むべきである人も、
家庭の中ではよい父であったり、母であったり、子であったりする・・。すべての人間は、もしかしたら分かり合える存在なのか
もしれない。そしてそれを信じ、人間を信頼し続ける中村さんの生き方は、私に強い驚きと快い衝撃を与えました。
他人のために命をも投げ出せる程の中村さんの覚悟に、私は正直戸惑いました。私は誰でも、何よりもまずは自分の命を最
優先に守るものだと信じていたからです。でも、子供に覆いかぶさって凍死していた母親の話などからも、自分のことよりも大切
なものというものがあるのかとショックを受けました。他人との障壁を作って、ガチガチに自分の殻に閉じこもっていた私の心の
一部が少し崩れて、そこから何かの暖かい感情が流れ込んでくるような気がしました。
今回の文章は、映像の感想というよりものすごく個人的な傾きを持ってしまってすみません。でも今回のドキュメンタリーは、私
にとってはとても重要な意味を持つものになりそうです。
文学部・3回生 山本崇正[kino-doc:858]
「難民を出す前に手を打たないといけない」―こう語る中村医師の言葉は、僕にとって衝撃的でした。少し考えてみれば当然の
ことだと思います。しかし日本で生活してニュースなどでしかアフガニスタンの現状を見ていなかった僕はそこまで気がついてい
ませんでした。
実際に現地に行き、現状を目の当たりにすれば、誰しも「何とかしなければ」と本心から考えると思います。しかしアフガニスタン
から遠く離れた日本で、どれほどアフガニスタンの現状を親身に考えることが出来るのでしょうか。それは個人の想像力にかかっ
ていると思います。想像力を働かせ、アフガニスタンの人々にどれだけ同情を感じることが出来るか。
同情、といってしまうとなんだか偉そうな気もします。平和な日本に住んでいる僕の、勝手な感情ではないか、と。しかし自分以
外の人が困難な状況下にある時、それを救いたいと思うのは同情ではないでしょうか。他人の気持ちになって考える、という意味
での同情です。
そして何かをしたい、何か力になりたいという気持ちを行動に変えるとき、必要になってくるのは情報であり、その情報に背景を
肉付けしていく想像力でしょう。マスメディアやインターネットなどにより、現地の映像など視覚的な情報はかなり手に入れること
が出来るようになっています。しかしそのような視覚的な情報に頼りすぎて、現地の人がどのように感じているのか、何を求めて
いるのか、何が原因なのか、を突き詰めて考える想像力が少し鈍くなっているのではないか、と僕は感じました。どれほどメディ
アが映像を届けようと、そこに写されているのは現地の風景であり、その風景を現状の文脈に位置付け、映し出されている人々
の気持ちを推し量るのは想像力しかないように思います。
法学部・1回生 西田美和[kino-doc:874]
昔、誰かから聞いた言葉に「他人から見て矛盾しているように見える行動も、その人の中では矛盾していない」というのがあった。
このドキュメンタリーを見ながら、もう一度、その言葉が頭の中を回った。ドキュメンタリーの中で中村先生がおっしゃっていたハン
セン病患者の例のように、人間は否定しながらもどこかで認めているのだ。私にもそのような感情は多々ある。利己的で自己中心
な考えや行動と同時に、他人を慈しむ考えや行動が発せられることもある。その他人を捨てきれない、捨てる事の出来ない行動が
ドキュメンタリーにも出てきた「誰もが100%納得できるアクション」というものなのだろう。
私はそのアクションが欲しい。現実的に考えて、今すぐ中村先生についてアフガンにいこう・・というわけにはいかない。正直な話、
私にはそれをなせるほどの勇気も金もパスポートもないから。そして私には私のなすべき他の「アクション」(学ぶ事、知ることなど)
があると思うからだ。いろいろ手を出してみたけれど、まだそこに腰をすえて生きてやろうと思うほどの「アクション」に出会っていな
い。それが見つかり、それにたずさわって仕事が出来たらどんなにやりがいがあるだろう、幸せだろうと思う。それがみつかるまで、
「逃げない」、そのことが一番大事なのかもしれない。継続は力なりとはよく言ったもので、どんなことも自分の目でみて、考えて、
知り続けなければならないのだと思った。
文学部・2回生 祐尾文子[kino-doc:878]
ふるさとの住み慣れた家で家族そろって食事をする、これが人間の望む最低限のことではないだろうか。また、地球上の全世界
の人々が共通に持っている権利だと思う。しかし、アフガニスタン国民は、長年にわたる内戦によって、さらには先ごろ襲った干ば
つによってそれさえもままならない状況に追いやられている。彼らは生きるために故郷を捨てて難民になるしか方法はない。
その一方で、私は同時多発テロ以降、毎日のように報道されるアフガニスタン情勢も「対岸の火事」と無関心だった。この講義を
通して、どんな問題であっても他人事とはとらえない姿勢を学んだにもかかわらず。
「自分だったらどうするか。」この問いかけを常に心に留めておくことが、中村医師が語る「人間らしさ」につながると思う。アフガ
ニスタン問題は、違う国・違う民族・違う宗教の問題ではなく、同じ人間の問題であるという考えの方向転換が必要だ。私も、まず
はここからはじめよう。
学外 林 久子[kino-doc:875]
第1回目の「あなたはいま幸せですか 地球家族2001」では、物を所有することで幸せを求める姿が描かれた。最終回の
今回は他者に“もの”を分け与える中村医師の姿が描かれていた。「多くの人を助けるため」と言う言葉が空虚に映らないのは、
アフガニスタンの人々のために医療活動をし、井戸を掘り、物資を援助することが、自らの喜びに繋がることを自覚しておられ
るからだろう。語られる言葉もアナウンサーの「人間への信頼」といった抽象語ではなく、身体に添うたものであったことも好ま
しく思った。
宗教のため、政治のため、たとえ正義のためであっても、人を殺せば、その罪は当人が引き受けなければならないと中村医
師は言う。現代の戦争は科学技術の介入で殺した事を自覚しにくくなっている。戦争も抽象語で語られる対象だ。身体を通した
言葉で戦争を語る時、罪を自覚し、償いへとつながっていく。
どんなに貧しい状況でも人間らしい「いい話」はあるという。私には人間らしさから平和へと辿れるのではないかと思う。ならば、
身体を通した言葉で語れてこそ、道は開かれるように思える。
理学部・2回生 櫻田和也[kino-doc:877]
昨年7月30日付けで、産経新聞朝刊のコラム「産経抄」は、米国の言語学者ノーム・チョムスキーが「米国の軍事作戦で
アフガン人四百万人が虐殺されるなどと予言していた」と書いた。実際には民間人は数千人しか死んでいないと報告されて
いるのに、非現実的な「予言」をした、という趣旨である。チョムスキーは「米国の業績をけなすことで職業歴を築いてきた」と
いう非難を紹介し、このような反国家的な人物は日本にもいるといい、扶桑社の『新しい歴史教科書』が採択されないのはそ
のような「反日家」による「グロテスクな圧力」だろうと勝手に推測するという無茶苦茶な文章である。
9.11の同時多発テロ直後、米国によるアフガン空爆が予想された時期に、国連食糧農業機関(FAO)は、軍事行動が実行に
移されたら数百万人のアフガン人が飢餓に直面すると緊急警告を発していた(*1)。もちろんほかにも、アフガンの実情に詳し
い各種専門家なども同様の見解を示していた。チョムスキーは実際には、こういった警告を引用し、その被害を憂慮していた
のである。直接に爆撃で四百万人が殺されるなどとは言っていない。「虐殺」という言葉も、もともとはサイレント・ジェノサイド
であり、これは血みどろの殺戮でなくとも人は死ぬことを強調して、集団飢餓を意味する言葉である(*2)。
何百万人もの難民は、この冬もまた不安定な飢餓に直面している(*3,4,5)。
爆撃による直接の民間人死者数だけ(それすら数千人にものぼるのであるが)を取り上げる時、数百万人の難民は捨象され
る。またイラクの情勢だけを議論する時、アフガンは既に忘れ去られている。北朝鮮による拉致被害者を哀れむ時、北朝鮮で
飢え凍えているであろう数百万〜千万人の農民たちを忘れてはいないか。相対的な人数が問題なのではない。これは一人ひ
とり苦しむ人の絶対的な悲しみの数である。
中村哲さんの言葉は、一人ひとりの人間の存在をよびおこしてくれる。
*1. FAO(20.Sep.2001) "SPECIAL ALERT No. 318"
http://www.fao.org/giews/english/alertes/2001/SRAFGH31.htm
*2. たとえば、18.Oct.2001 MIT における講演
"The New War Against Terror" より 'Starvation of 3 to 4 Million
People', 'Silent Genocide'
http://www.zmag.org/GlobalWatch/chomskymit.htm
*3 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)「アフガニスタン情報」
ただし、日本語の情報は若干古い。英語の最新情報を参照
http://www.unhcr.or.jp/afghan/index.html
*4 アジアニュース「アフガン難民キャンプの現状」
http://www7.plala.or.jp/asianews/paki1.html
*5 ぺシャワール会「現地の報道から」
UNHCRが、多くの難民を生活手段のないアフガンに帰還させた無計画性への批判を伝える報道もある
http://www1m.mesh.ne.jp/~peshawar/gh.html
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