「ドキュメンタリー・環境と生命」2002年度受講生の記録

 ここには、記念すべき第1回から第4回までを掲載しています(2002年12月20日)
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【開講のご挨拶(2002.10.11)】
 「ドキュメンタリー・環境と生命」を開講した木野です。
 新規開講でどうなることかと案じていましたが、80人もの受講登録があり、うれしい限りです。しかし、初回の授業後からメール・トラブルを起こす人が続出し、MLのお世話をしてくれてる管理人(「公害と科学」の一期生)や山中さん(ボランティアT.A.)にはずいぶん迷惑をかけてしまいました。さいわい受講生の中から、トラブルで困ってる人の手助けを名乗り出てくれた人が2人いて助かりました。
 MLは配信専用に使っていますので、みんなで作る「週刊メルマガ」と言った方がよいかもしれません。多くの人の受講の動機はドキュメンタリーだけでなく、次の意見にもあるように、このMLにもあったようです。
 「何よりメーリングリストを使って人の意見が聞けるというのが魅力的です。自分だけの狭い世界に閉じこもるのではなく、他人の意見を見て視野を広げたいと思っています。」
 このHPでは、授業で上映したドキュメンタリーの紹介(毎回8人に要約の担当を指名し、その中から私が選んだもの)と、ドキュメンタリーを観てMLに投稿された意見メールの中からみんなが投票で選んだベスト1と次点、および私が選んだベストいくつかを掲載します。このHPも山中さんのお世話によるものです。
 受講生の皆さんはこのHPを受講の記録として保存してくれればうれしいです。受講生以外で、このHPをお読みいただいた方は、ご感想やご意見を<>までお寄せいただければ幸いです。


第1回(2002.10.3)「あなたはいま幸せですか 地球家族2001」(NHK総合,2001.8.21,60分)
 「申し訳ありませんが、お宅の家財道具を全て家の前に出して写真を撮らせていただけませんか」と30カ国
を回った写真家のピーター・メンツェルさん。対象は各国の平均的な家族。1994年に写真集として出版したが
、2000年からもう一度、家族のその後を追った。番組では主にブータン、キューバ、ボスニア、日本、モンゴル
の家族、そしてトルコとアメリカの家族を少し、以前と比較しながら紹介。

<参考文献>
『写真集 地球家族〜世界30か国のふつうの暮らし』
 マテリアルワールド・プロジェクト(代表ピーター・メンツェル)著 ; 近藤真理, 杉山良男訳, TOTO出版.
(英文タイトル;Material World),1994.11.
『続・地球家族―世界20か国の女性の暮らし』,TOTO出版,1997.12.もあります)


<当日資料>
『地球家族』から「30か国の統計一覧」の抜粋

<受講生による内容要約>
1992年から8年たった2000年、写真家のピーター・メンツェルが再び世界各国の『平均的な家族』を訪問する。それぞれの家族を
取り巻いている「モノ」、家族一人一人の人生を映し出す「モノ」、そんな「モノ」の存在に関心とカメラをむけることで、『世界』を捉える。
 そして、8年たった今、それぞれの家族と「モノ」の関わりは変化しているのか…。「あなたはいま幸せですか」「人生の成功とはなん
ですか」「あなたの一番大切なモノはなんですか」「あなたの生活は両親の頃よりも良くなってますか」「今の生活に満足してますか」
・・・それぞれの質問に対して、各国によって違う答えが返ってくる。貧富の差、社会体制のあり方などによってその答えは大いに違い、
8年という歳月もまた、その答えを変化させている。
 自分達を知らず知らずにも取り巻く「モノ」の質的・量的変化は、人々の「幸せ」の基準をも、変化させてしまうのではないだろうか。 
(経済学部・3回生 稲谷恵理子)

世界を動かしていくのは、金持ちでもなく貧乏人でもなく普通の人である、そう考えている写真家がいる。彼はそれを実証するため
に世界各国の平均的(家族構成、収入、家の広さなどにおいて)な家庭の写真を撮り歩く。また「あなたが一番ほしいものは何ですか」
、「あなたにとって成功とは何ですか」「あなたは今の生活に満足していますか」とその家庭に問いかける。7,8年前に訪ねたところを、
今もう一度たずねてみる。
 この番組の面白いところは「違い」である。庭に家財道具が入りきらないぐらい、ものにあふれるアメリカ。その一方で村に始めて電気
がやってきたブータン。戦争の砲撃から逃れて暮らすボスニア。おんなじ地球上の人間がこんなにも違った環境で暮らしているのだ。
世界は、まだまだ広い。
 もうひとつ「違い」がある。それは時間の経過である。7年という年月は、それぞれの家庭に大きな変化をもたらしている。一番わかり
やすいのは子供が大きくなっていること。こればかりは世界共通である。父母の離婚、失業、死、引越し、社会の移り変わり・・・。時間
の流れを肌に感じる番組である。
 (経済学部・3回生 影本菜穂子)


「あなたはいま幸せですか 地球家族2001」を観て… 受講生が選んだベスト意見

文学部哲学科・2回生 小島良子[kino-doc:27]
 "一番大切なもの"は、自らの置かれる状況によって変わっていくものです。映像の中でのある家族は、生活の為に"一番大切なもの"
であった仏像を手放していました。私は最終的に人々にとって一番大切なものは自らの命であって、死の可能性が目前に迫れば、誰も
が(本心は)自分のお金や財産をなげうっても、命が助かりたいと願うと思います。つまり、お金、財産、家財道具をたくさん得ることが、
幸せの最大の要素ではないということです。
 平和を何より願っていた少女が、内戦後も不況のため"幸せ"からは程遠かったように、今一番欲しいものを手に入れても生命が脅か
される限り、その心に平安が訪れることはないのです。
 昔、恋人を事故で亡くした後、「何でもない日常が。本当は幸せだったのだ」と気づいた青年の歌がありました。今まで自分のもので
あることが当たり前であったもの、特に大切だったものを失うことは何よりも不幸なことです。しかし人は必ず、一番大切な自らの命を
失う時が来ます。ですから私は、所有するものの量や質に関係なく、死(喪失)を意識せずに、気づかずにいられる状態のことを幸せと
呼ぶのだと思いました。

(次点)文学部日本史学・2回生 西岡晋平[kino-doc:78](注:票は同数でしたが、投稿が遅れたことと、投票日の授業を欠席したので、次点にしました/木野)
 「日本は物質的には豊かだが、精神的に貧しい」とか、「物質的に貧しい国々の方が精神的に豊かだ」といった意見が出るかと思う
が、僕はそうは思わない。
 「幸か不幸か」ということは、結局、自分次第で変わるものである。
 もちろん、あまりにも「物不足」なために、「幸か不幸か」を論ずる権利すらないような人々もいるだろう。そういう人々には、先進国に
住む我々日本人が率先して協力、支援をしてゆかねばならないと思う。
 しかし、いわゆる「不幸な人」を見ていると、「幸せになる努力」を何もせずに、「不幸な自分」を呪う人が多すぎるように思う。かつての
僕もそうであった。
 極論すれば、「幸福」とは「幸福になる努力をすること」ではないだろうか。
 どんなに物質的に貧しい環境であっても、ささやかな「幸福」を見つけることは可能であるし、僕は日本に住んでいるが、自分が精神
的に貧しい人だとは思わない。
 そういう意味で、ビデオの中の「幸せの形は、世界共通ではない」という言葉には共感させられました。



「あなたはいま幸せですか 地球家族2001」を観て… 私(木野)の選んだベスト3

文学部・3回生 矢野 悟[kino-doc:3]
 山奥でも戦火の中でも、カメラを向けられた時に微笑む家族。それが心の底から出た笑みなのか、それとも気丈なふるまいなのか、
あるいは笑うしかなかったのか。最後までうかがい知ることはできなかった。
 様々な国と比べた時に思ったこと、やはり日本は豊かであった。ものがあふれている。自分に明日があるかどうか分からないような
戦争の影におびえることもない。「子供は受験戦争に追われ、大人は毎日満員電車に揺られながら、家庭も顧みずに働かなければな
らない社会のどこが豊かなのか」という意見もあろう。しかし、それに諸手を挙げて賛成することはできない。
 事実精神的な豊かさはこの国にはないだろう。しかし、それは物質的に「豊かな」国の理論でしかない。電気のない村、科学の力が
まだ踏み込んでない世界を見て、「都会での生活は疲れる、私もあのようなのんびりした環境で暮らしたいものだ」などというのは、他
国のあるいはそこに住む人々の現状をまったく理解しない、無知で傲慢な意見であるという他ない。
 写真家が撮っているのは、もはやただの家具ではない。家具と共にある家族、「幸せですか」、「大切なものは」という質問に答える
人々の表情、それがすべてであると思う。

工学部・1回生 横手康輔[kino-doc:20]
 「自分は現在豊かであるかどうか」ということを認識するのは大変困難を要する作業である。なぜなら、「豊かさ」という概念は、手に
とって感ずることのできない、言わば不可視的対象であるからだ。だが、"日々の生活が向上しているという実感を持てたら"という思
いは誰しもが抱く欲求である、と私は思う。
 そんな我々の思いを一つの形にして表現なさったピーター氏の行動は評価に値する。つまり「不可視」を「可視」にしたのだ。この業
績は確かに大きいが、では氏が行った行動は果たして「彼らの豊かさの度合い」を決定したのだろうか。
 答えは「否」である。日常生活の中で豊かさを感じることができなくても、確かにそこにはそれが存在しているはずなのだ。もっとい
えば、その「感ずることのできない豊かさ」というものは、自分の中ーーーとどのつまりじぶんがゆたかだとおもえばゆたかなのだー
ーーにある。
 そういう意味で、家財道具一式を軒に連ねてハイこれがあなたの豊かさです、とはいかない場合が多いのである。確かに「モノ」に
目をつけてピーター氏の発想は私も気に入ってはいるが、どうあがいても人間には形に表せない「豊かさ」や「幸せ」の方が、現実に
は多いのではないか。事実そうであったではないか。
 こうして考えてみると極端にモノが満ち溢れている此処日本もまんざらではなさそうである。
 いっそ「豊かさを見つけにいきま教」なんて創ってみようか。流行りそうで怖い。

文学部地理学・2回生  川崎那恵[kino-doc:61]
 このドキュメンタリーが捉えたものは、登場した人たちがそれぞれの瞬間、瞬間を生きていることの証だと思う。
 「過去の方が幸せだった」とか「今の方が幸せだ」とか「8年前は貧しかったが、心は豊かだった」とかいうようなことは、今生きていて
初めて感じることができる。そして、ある家族の暮しをかいま見て、「貧乏は不幸で、裕福な暮しを送ることは幸せだ」あるいは「物欲に
まみれた生活は醜く、貧乏だが笑いが絶えない家族が幸せだ」というようにして人の幸・不幸を定義することは、私にはできない。それ
は、その人生を歩む人だけが、過去を過去として振り返るとき初めて分かることなのだと思う。
 喜びや悲しみ、またはその両方を含む、小さなあるいは大きな変化がそれぞれの家族に訪れる。そのたびに、価値観や大切なもの
も変化する。何かを失うこともある。それでも家族は続いていく。それでも人は死ぬ理由がない限り、生き続けなければならない。私が
このドキュメンタリーから得たものは、人はそのようにして生きていくしかないという事に尽きる。



第2回(2002.10.10)「水俣春寒〜40年目の岐路」(MBS,映像90,96.6.16,50分)
 水俣病公式発見から40年目の1996年、最大の訴訟団体が、政府解決策に沿ってチッソと和解した。
これにより多くの被害者団体も和解策を受け入れることとなった。唯一、和解を拒否したのは水俣病
関西訴訟だけだ。今回の和解を機に40年に及ぶ心の傷を浮き彫りにする。

<参考文献>
『新・水俣まんだら―チッソ水俣病関西訴訟の患者たち』木野茂・山中由紀著,緑風出版,2001.12. 本のHPはここからヨ! 

<当日資料>

「水俣病救済 全面解決へ」1995.9.29.毎日新聞記事
「『命あるうちに』苦渋の選択」1995.10.29.日本経済新聞記事
「水俣病問題の『解決』とは何か」:木野茂、1995.7.20.朝日新聞論壇
「水俣病は終わらない―医学をゆがめた補償問題」:原田正純、1995.9.30.朝日新聞
「通じた18年半の祈り―水俣病関西訴訟」2001.4.27.日本経済新聞(夕刊)記事


<受講生による内容要約>
# 水俣病患者のいつまでも癒されない苦しみ。水俣病から40年がたち、政府が未認定患者に関する救済案を出した。
被害者に260万を払うことで、その口をとざし、解決をはかろうとした。認定を求めてきた患者たちは、これが本当の解決
ではないこと、けっして思いが癒されることはないことを知りながら、泣く泣く和解に応じた。
 しかし、そんな中に、政府の和解案を拒否し、自分たちの耐え難い苦しみを主張し、行政の責任を問い続けた、関西の
水俣病患者の戦いがあった。
 訴訟を続けても、認められないかも知れない不安・・でも今までの苦悩を思うと、ここで許すわけにはいかないという気
持ち・・亡くなった人々の無念をはらすために戦い続ける。これらの人々の心はいつになったら癒されるのだろうか。
法学部・1回生 岩井 彩、一部加筆/木野)

# 水俣病が初めて発見されてからすでに40年あまりの月日が経った。当時は原因不明の奇病として隔離・阻害されて
いた水俣病患者たちが、国・そしてチッソを相手取り、謝罪と補償金を求めて頑張った長い長い闘いが一応の完結を迎え
ようとしている。
 だが、中には、全員の紛争取り下げを補償金給付の条件として提示されたためにやむなく和解に賛成した者もいる。ま
た、長年水俣病特有の症状に悩まされながらも、やむを得ない事情で水俣病患者として申請していない者も数多くいる。
 本当の救済とは一体なんなのか、金銭に焦点をあててきた今までの争いは果たして正しかったのか、補償金の給付が
患者を全面的に救ったことになるのか。半世紀近い時を経てなお多くの人々を苦しめ続けている水俣病をめぐる、闘い、
葛藤を、患者の生の声を通して見つめ直す。  
(法学部・1回生 倉本晴日)


「水俣春寒〜40年目の岐路」を観て… 受講生が選んだベスト意見

文学部・一回生 西川未和[kino-doc:97]

 国の水俣病問題の終結宣言を受け入れた者、受け入れなかった者。そのどちらが正しいということではない。彼らの病状の
重軽も問題ではない。どちらの患者も、同じように苦しみに耐えて国と闘ってきたのだ。「国」という大きな存在が、なぜその責
任をとって国民を救済しないのか。私は不思議でならない。彼らの受けた苦痛は、身体的なものばかりではない。周囲から
「奇病」と蔑まれ、まるで人間扱いされない。その病気の原因と責任を国が明確にしないせいで、彼らがどれほどの差別を受
けたか、国は全く考えていない。考えるのはただ、「病人と認めれば損をする」というお金のことばかりに思われる。「彼らは
『水俣病』という病人で、その責任は国にある」と国が認めるだけで、補償金の獲得より何より、彼らは人権を保障されるの
だ。彼らが一番望んでいたのは、そういった、水俣病が正しく理解されること、水俣病患者が差別を受けることなく暮らせる
社会の獲得、なのではないだろうか。

(次点)理学部・二回生 櫻田和也[kino-doc:132]
(票数ではトップでしたが、字数が870字もあり、400字程度という約束をはるかにオーバーしていますので、残念ながら次点とします/木野)

 このドキュメンタリーには、これまで木野先生を通じて実際に会ったことのある方々もたくさん出演されており、心穏やかでは
いられません。この短い番組でも、数々の問題が浮き彫りにされていました。
 国や県は行政責任を認めようとせず、むしろ問題を引き延ばして、五月蝿い患者たちが死んでしまうのを待っているかのよう
にさえみえます。この姿勢は「全面解決」でも追訴しないことを条件としている点に、端的にあらわれています。また、医学的診
断の問題だったはずの認定問題がいつのまにか金銭的解決へとすりかえられてしまい、そのために認定されない患者はニセ
患者よばわりされ、初期に奇病扱いされた疎外に加えて、さらに差別や怨みが蓄積されています。また、チッソ従業員が発病
していた事実もあり、水俣病が労災問題でもあることがわかります。
 全面的かつ最終的解決がうたわれ、もやいなおしの空気が醸成されつつありますが、原田先生も仰るように、この問題は終
わってもいないし、解決もしていないことを改めて認識しました。
 原田先生は、その著書(『水俣が映す世界』、『裁かれるのは誰か』)において「水俣病は鏡である」といいました。医師として長
年関わってきた水俣病に、社会の縮図をみるのです。この番組で浮き彫りにされた問題をみても、そこに現代社会のありとあら
ゆる歪みがあらわれていることが分かります。水俣病を忘れてはならないだけでなく、水俣病から学ばねばならないのです。
 安易に片付けるのでもなく、悲観的になるのでもなく、もっとたくさんのことを学びたい。
 なお、チッソは経常利益40億円の優良企業であるが、賠償金の大半を負担しているために赤字が続き、経営危機に陥ったの
で、熊本県が県債を発行する救済措置をとった。チッソは償還し続けねばならない。
 現在、チッソ負担分は2,446億円にのぼる。実質的には、国が熊本県を経由してチッソに融資した形である。
 ちなみに日本の国家予算は80兆円規模。数千億円なら、1%に満たない。国は、なにを認めたくないのだろうか?

 (参考:http://www.d4.dion.ne.jp/~aoisora/sub84.htm


「水俣春寒〜40年目の岐路」を観て… 私(木野)の選んだベスト4

法学部・1回生 山田寛子[kino-doc:129]
 「自分の体だから分かる。水俣病であることは間違いない。」
 「外見から見ても分からないので、もう体を開いてもらうしかないのです。」
 認定さえしてもらえない被害者の方々の心からの叫びが耳に突き刺さりました。いつまでも責任を認めようとしない国・企業の
態度に本当に理不尽なものを感じます。被害者の中には元チッソの従業員の方や漁業関係の方もいらっしゃいました。昔 水
俣病の母親と一緒に歩くのが嫌だったと語った男性の言葉――「差別していたのは他人ではなくまず自分だった。」――自分が
被害者であるとともに加害者でもあったと知った人々の思いはどんなものであるか…想像もし難いものです。それとも、もうそん
なことも考えられないほど心は疲れ切っているかもしれません。怒り、後悔、悲しみ…「もやいなおし」にかかる時間は半端なも
のではないでしょう。
 チッソが水銀を流していた川に被害者の方が投げた花は、弱々しく水にもまれて漂っていました。その花は世の中に翻弄され、
心も体もずたずたにされた被害者の方々そのものに見えました。

経済学部・3回生 影本菜穂子[kino-doc:136]
 個人の力はすごく弱い。悔しいくらいに弱い。
 この番組は、完全に水俣病患者の立場に立って作られている。だからかもしれないけど、こんなに不合理なことがあるのかと
ずっと思っていた。
 患者に認定されることは難しい。途中で出てきた医者がいってたように、最低基準を作って認定すべきなのに。
 個人の力は弱いから団結するんだと思う。
 国は意外にもここでは市民の味方ではない。
 彼らのもっとも確実な後押しは世論の盛り上がりにしかない気もする。

工学部・4回生 太田 勇[kino-doc:144](一部省略)
 事件発生から40年、和解が成立したがそれも不満が残るものでした。そして昨年、行政責任を認める関西訴訟の高裁判決が
言い渡されたが、あまりに遅すぎたと思う。
 昨年の判決では勝訴したように見えるが、私にはとっくの昔に敗訴していたと思う。文字通り過ぎたことだからだ。責任を問うべ
き者達は時間というものを盾に逃げ勝ちしたのだ。
 そして1995年の和解に関しても、原田氏が「病気の程度、病気であるか否かを争っていたのが、時と共にお金の有無を争うよう
になった」と言っていたが、その辺りもこの訴訟が敗訴に終わったと思うところです。
 昨年の判決は勝訴ではなく、ようやく一矢報いた、のであると私は思う。

文学部・3回生 矢野 悟[kino-doc:151](一部省略)
 ドキュメント中、「何が何でも闘う」と言う女性がいた。彼女はどんな気持ちでこの言葉を言ったのだろう。彼女が求めているのは
金だろうか、謝罪だろうか。彼女が闘う相手、それはもはや国やチッソではないのではないか。自分達の生きた時代、水俣病が発
生してしまったという現実との闘いなのではないか。
 彼女達が「闘う」ことをやめてしまった時、水俣病は歴史的事実の一つに過ぎなくなる。やがては日本史の教科書に登場するだ
け、受験生がキーワードとして覚えるだけのものになってしまう。
 「こんな目にあうのは自分達だけで十分だ」というようなことを言っていた女性もいた。彼女のこの言葉を聞くと、「これを教訓にし
て、公害のない社会を作りましょう」といった一般的な意見があまりに安っぽく思えてしまう。そして、外野で勝手なことを言うだけ
の自分がいる。果たして、自分達にできることは何だろうか。



第3回(2002.10.17)「30年目のグレーゾーン〜環境汚染とこの国のかたち」(富山放送,1999.1.11,55分)
 裁判やWHO(世界保健機関)など国際機関や国際的な学会でも、"イタイイタイ病"の原因は
神岡鉱山が神通川にタレ流していた有害重金属カドミウムであることが、公式に結論づけられ
ている。ところが日本国内では、なんと"政官財学"の鉄のピラミッドが形成され"イタイイタイ病"
の原因はカドミウムではない"とする説が世界に向け発信されていた。
 第7回FNSドキュメンタリー大賞受賞番組(フジテレビ系列の地方局対抗番組コンクール大会で優勝)。

<当日資料>
「進む風化 苦悩今も―イタイイタイ病公害認定30年」1998.5.8.毎日新聞
『環境と人体―公害論―』(原田正純著,世界書院,2002.8)よりp.85〜90(イタイイタイ病)

<受講生による内容要約>
# 三井金属鉱業の神岡鉱山から流れ出たカドミウムを含む工業排水が原因で生じた公害病、イタイイタイ病。萩野昇
医師と小林純教授の懸命な努力により、アメリカがこの病例に注目し、研究資金を提供。アメリカや世論の動きに押され
て、ようやく日本政府も重い腰を上げ、認定や企業との和解交渉も進み、イタイイタイ病は一見無事に認められたかに見
えた。
 しかし企業と自民党を中心とする政府は秘密裏に実験を繰り返し、カドミウムとイタイイタイ病との関連性を否定するベく、
不十分かつ不当な証拠を盾に、患者、学者・医師、そして世界を相手に対立する。経済至上主義、金至上主義の醜さをこ
れでもかと曝すこの日本の動きは、日本がその経済力で強い発言力を得ているがゆえに、世界を論争に巻き込む。
 強硬な否定の姿勢を崩さない日本に対する世界の批判は強まる。そしてついに、富山で開かれた国際シンポジウムで
一人の外国の学者が立ち上がり、世界の研究者の前でこの議論に終止符を打つ。世界で正式に承認された公害病、イ
タイイタイ病。しかし未だ問題は山積みであり、小細工に無駄な時間を浪費した政府の責任は重い。イタイイタイ病は人
災であり、今もなお解決してはいないのである。  (
法学部・1回生 中鋪美希、一部加筆/木野)


「30年目のグレーゾーン〜環境汚染とこの国のかたち」を観て… 受講生が選んだベスト意見

経済学部・3回生 小野哲郎[kino-doc:180]
 日本という国はなんと「スバラシイ」んだ。今回のビデオを見てつくづくそう思った。
 世界がイタイイタイ病はカドミウムによるものだと認めているのにもかかわらず、日本は政府が訴訟の際などに行政責任を
回避するために?多額の国費を投じて、研究を行い、それを覆そうとしている。
 政府の「メンツ」ってのはそこまで守りたいものなのか?国民の命よりも?しかも、外交や経済はメンツも何もなし、外国の
なすがまま・言われるまま。私たちが一番心がけていることは「責任を負わないことです」ってか?行政が一番心がければな
らないことは「国民・市民の立場にたって考え・行動すること」ではないのか?それとも、国民よりも上の立場にいましたっけ?
 ああ、だから被害者に何か言われても目も合わさずに「知りません・関係ないですから」とか言えるんだ。イタイイタイ病に限
らず、他の公害や薬害でも同じことの繰り返し。行政の対応は後手後手。一人一人の失われた・奪われた人生に補償するこ
とよりも、国としてのメンツを守るために責任回避。
 ああ、ホントに日本はなんて「スバラシイ」行政制度を持っているんだろうか?
 このような話を聞くたびに怒りを禁じえない。

(次点)法学部・1回生 比江島槙[kino-doc:223]
 日本という国は、本当に責任をとらずに済まそうとする国なんだと、なんだか恥ずかしくなりました。一度はカドミウムとイタイ
イタイ病との関連性を認めておきながら、世界の意見に反発してまでも否定を繰り返していました。鉱毒の疑いがあると考えた
人が、真実を求めようと研究した人が、圧力をかけられたり買収工作にあったりするなんて、何かが間違っていると思いました
。様々な機関と国家・企業の癒着など、攻めるべき点は多くあると思います。どうして、患者さんのことを第一に考えられないの
でしょうか・・・。
 萩野医師は「政府の圧力は、一開業医にはどうすることもできない。しかし、命ある限り、呼吸している限り、血液の最後の一
滴を燃やし尽くしても真実を語り続けよう。それが真実だから。」とおっしゃっていました。前回の水俣病患者の方々の姿と重な
る感じがしました。真実を突き詰めて、その責任のあるところに謝罪を求める・・お金ではないということを念頭に置いておきたい
です。こんなにも患者さんたちの思いは強いのだからそれが国に届けばいいのに、と思いました。



「30年目のグレーゾーン〜環境汚染とこの国のかたち」を観て… 私の選んだベスト4

法学部・1回生 山田寛子[kino-doc:197]
 いいかげんにして下さい――そう言いたいです。国や企業のことです。裏で行われる数々の汚いやり口。そこまでして国や企業
が守りたいものは何なのか。‘お金’だとしたらやりきれません。
 イタイイタイ病における被害者は人間だけにとどまりません。カドミウムと病気の関連性をやっきになって否定しようとする国は、
何体もの動物を使って実験を繰り返してきました。逆にその関連性をなんとしても認めさせたい研究者の方々も、その証拠を裏付
ける動物実験を続けてきました。その闘いは国が真実を認めるまでは終わりません。責任を認めたくないという、そんな人間のつ
まらないエゴのために実験台に送り続けられる、もの言わぬ“犠牲者”たち…彼らは「イタイイタイ」と言うことさえもできません。で
も、彼らが一番言いたいことだろうと思います。「早く責任を認めてくれ」と。
 国・企業にもう一言、言いたいことがあります。
 「そこまでイタイイタイ病とカドミウムは関係がないと言うのであれば、自分の体で実験して下さい。」

法学部・1 回生 秋田昌紀[kino-doc:217]
 今日のドキュメンタリーを見ていて、なぜ政府は一度カドミウムが原因の公害病としてイタイイタイ病を認めておきながら、いまさら
もう一度イタイイタイ病はカドミウムが原因の公害病ではないと言い出すのか?っと腹立たしく思った人は多かったのではないか?
 この場合、イタイイタイ病の原因がなんであったのかをもう一度調べなおすことはなんら問題はない。真実を調べることは重要な
ことである。もし、本当にイタイイタイ病の原因がカドミウムでないなら「イタイイタイ病はカドミウムが原因の公害病ではない」と主張
するのも当然のことである、それが真実なのだから。
 だが!今回の場合は話しがちがう。政府はわざと発病の可能性が非常に低くなる頑強な猿を実験にもちいるなど明らかにカドミウ
ムが原因であることを自覚しながら政府の責任を逃れたいがために嘘の真実を作り上げようとしているのは明白である。これは許さ
れることではない。
 水俣病に続きイタイイタイ病でも、とにかく政府はいつも責任逃れをするためには患者の気持ちなどはまったくの無視である。政府
はこんな無駄なことに研究費などをつぎこむぐらいならば、もっと患者のためになにかしようとは思わないのだろうか?

文学部・2回生 祐尾文子[kino-doc:222]
 国が考える公害病患者への救済とは何なのだろうか。イタイイタイ病が公害病として認定されて患者側が企業に全面勝訴したにも
かかわらず、手のひらを反すかのように急に態度を豹変させた政府からは、不信感しか受け取れない。
 前回の水俣病もそうであったが、問題がいつのまにかすり替えられていると思う。本来第一に考慮されるべきなのは、当然被害者
である。全身を襲う激痛に顔を歪める患者一人一人に充分な補償をするためには、科学的・医学的見地からのみならず、その心情
までも理解した上で判断を下さなければならない。しかし、政府はこの視点を持たず、また持とうともしないのではないか。ただ機械
的に、自身に有利なデータを挙げて正当性を主張するのにやっきになっている。
 先生が先週紹介された水俣病被害者(緒方正人さん)の「チッソよ、人となれ。」という叫びは、現在の国に対しても言えることであ
る。人間対人間の関係を築くまでは、真の救済は終わらないと思う。


理学部・2回生 櫻田和也[kino-doc:227]
(本文だけで1300字を超えており、ルール違反も確信犯というべきですが、内容は一読に値しますので、敢えて選びました。/木野)

 個人攻撃に終始するつもりはないけれど、しかし重松逸造というひとは、まるで漫画みたいな御用学者である。
 少し調べてみたところ、90年には国際原子力機関(IAEA)の国際諮問委員会の委員長として調査を主導し、翌年5月には「放射線
被ばくに直接起因するとみられる健康影響はない」「白血病またはがんの発生については、はっきりした増加は認められない」など
と報告(*1)。もちろん現在は、被害が広範に及ぶことが既に報告されており、甲状腺以外の癌や白血病も増加しているという事実
がある(*2)。
 また、おなじく91年に環境庁が発表した「水俣病に関する総合的調査手法の開発に関する研究」の研究班長も重松氏であるが、
ここでも長期微量汚染による人体への影響を否定したという。よほど因果関係を否定するのがお好きなようで、他にも、スモン病や
土呂久鉱毒事件、森永砒素ミルク中毒事件などの調査を仕切り、立証不可能を理由に無罪を報告した過去が各方面から指摘さ
れている。
 公害病患者にとって、原因不明論はやっかいなものである。原因がはっきりしないことには、責任の所在もはっきりしないという
理屈で逃げられてしまい、補償も得られないばかりか、訴える相手すら分からないことになる。また激症の場合とくにその見かけ
の異変よって、感染の可能性も排除されない状況ではしばしば隔離や差別の対象にされてしまう。イタイイタイ病も「業病」と呼ば
れたほどの差別があったことを忘れてはならない(*3)。
 そのような場合に、合理的かつ適切な対処をとる一助となるのが疫学調査である。水俣病でも、原田正純先生が自身の疫学調
査に基づいて、裁判で患者たち原告側の証人として発言されてきた功績が大きい。96年のO-157中毒(*4)でも犯人(食材)探しが
騒動となったが、小学校の給食が原因であることは状況から明らかなのであるから、まず厚生省は学校給食の体勢を見直すべ
きであったと思う。
 ところが、なんとこの重松氏、その疫学の分野で分厚い専門書をいくつも書いている権威だとか。被ばくによる被害の調査などを
みていると、どうやら疫学まで援用して因果関係を否定しているらしい。本来因果関係が明確でないから疫学が有用なのであって、
疫学によって因果関係が認められないとか立証不可能だとかいうことは、ほとんどナンセンスな統計マジックである。なんでも原因
不明といってしまうのは、反駁不能なヘ理屈にすぎない。 立証不可能をたてに責任逃れを認める判決では、その立証責任が原告
側に押しつけられてしまうという理不尽な前例が積み重ねられている。それが合理的な判断を妨げ、加害者側の利権を温存させて
きたことは明白である。そもそも、大量にカドミウムが蓄積された人体に酷い異変が起こっているという現実があるのだ。頑強な若い
雄猿をつかった実験結果と合致しないというならば、その実験と現実の条件の違いに注目するのが科学者ではないか。恣意的な実
験と理屈を優先させて、現実をみない。これを科学者の堕落といわずしてなんといえよう?それが毎度まいど、利権の温存に加胆し
ているとなれば、もはや腐敗以外のなにものでもない。
 科学がこのようなかたちで濫用され続けるのであれば、悲劇もまた止むことはなかろう。

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*1: 原子力安全白書 平成三年版 付録 Q&A 問5 答5 など
  http://nsc.jst.go.jp/hakusyo/hakusho03/huroku.htm
 現在原子力安全委員会が公開している資料(*5)の文中では、国際諮問委員会は「健康・環境影響のアセスメント
と防護対策の評価」報告書を発表しており、その中で「今後何十年にもわたって放射線による甲状腺がん症例の過
剰発生が起こると予想される」と明記したとおりそのような報告が多く出てきていると、まるで予言済みだったかのよ
うに記述されているが、当の報告書(*6)をみると、第4章「健康影響」《一般的結論》において「報告された小児の甲状
腺吸収線量の推定値は,将来,統計的に検出可能な甲状腺腫瘍の発生率の増加をもたらすかもしれない程度である」
とあり、詳細を読んでも「たいしたことはない」と思わせたい様子である。資料(*5)では、広範な被害の実情に応じて、
ニュアンスをかえたものと思われる。
*2: チェルノブイリ事故とその医学的影響
  http://www.ask.ne.jp/~hankaku/html/berarus.html
*3: 熊本日日新聞「ルポ 神通川を歩く」
  http://www.kumanichi.co.jp/minamata/kankyo/kankyo05.html
*4: 広瀬隆『地球の落とし穴』(NHK出版) によると、96年9月に厚生省が発表した「カイワレダイコン説」も重松氏に
よるものだったそうだ。今日の番組中では「企業だって弱者なんですよ」などとおっしゃっていたけれど、カイワレ農
家をまったく根拠薄弱な説によって廃業においやった張本人こそ重松氏なのである。カイワレダイコンを犯人にした
てあげる一方で、なにを隠そうとしていたのか、残念ながら知る由はない。
*5: チェルノブイリ事故健康影響研究の現状
  http://sta-atm.jst.go.jp/pesco/KAISETU/setumei.htm
*6: 健康・環境影響のアセスメントと防護対策の評価(抜粋)
  http://aec.jst.go.jp/jicst/NC/hakusho/wp1991/ss1010408.htm



第4回(2002.10.24) 海外ドキュメンタリー「サリドマイド・製造再開の背景と問題点」
(NHK教育,1999.6.25,45分)
 1960年代に発売禁止となっていたサリドマイドの販売が前年に米国で認可された。かっての忌まわしい
記憶とともに、再び脚光を浴びつつあるサリドマイドの研究最前線と薬害の歴史、使用をめぐる倫理的な
問題点などをリポート。

<当日資料>
*MERS(ネットワーク<医療と人権>)Newsletter No.4より、2001.3.16に行われたシンポジウム『薬害被害者が医療を問う』での
 増山ゆかりさん(サリドマイド被害者、財団法人いしずえ理事)のお話。
*全国薬害被害者団体連絡協議会編『薬害が消される!』(2000.10,さいろ社)より、サリドマイドの統計表(3つ)
*2002.10.10.朝日新聞記事「がん患者にサリドマイド」


<受講生による内容要約>
# 1954年、高ヒスタミン剤の開発中に偶然できたサリドマイドは、妊婦のつわりを和らげたり精神安定剤にもなる、害のない睡眠
薬として、数百万の妊婦により服用された。しかし、それは胎児の手足や耳の発育を妨げてしまい、その結果数千人ものサリドマイ
ド児を生み出すことになった。
 サリドマイドは使用禁止から三年後、ハンセン病の治療薬として再び使われはじめ、様々な免疫障害の病気や、ガンの患者に対し
てまで投与され始めたが、その作用のメカニズム、また胎児の発育阻害のそれでさえ、いまだ解明されていない。また、ブラジルで
は副作用の説明が怠られたため、新たな被害者を生むことになった。
 米ではサリドマイドを裏市場に大量に流通させることより、徹底した管理のもと認可する道を選び、97年に認可に踏み切った。英で
はこの二面性を持つ薬に対しどう向き合っていくか、岐路に立たされている。
(法学部・1回生 宮崎佳代)


「サリドマイド・製造再開の背景と問題点」を観て… 受講生が選んだベスト意見

工学部・1回生 阪上浩基[kino-doc:276]
 私は基本的にはサリドマイドの使用に賛成である。というよりいずれ賛成せざるを得ない状況になると思う。
 サリドマイドがどういうメカニズムで妊娠初期の胎児や様々な免疫病に対して影響を及ぼしているのか未だ解明されていないという。
確かに、そのような状況でサリドマイドの使用を認可することは問題であろう。他にも我々の知らない効果をサリドマイドは秘めている
かもしれない。それによって新たな薬害事件が起こるかもしれない。しかし今、ハンセン病やべーチェット病など免疫病の治療に劇的
な効果がある事が分かってしまったのだ。大人には直接悪影響を及ぼした事例がないということもあって、免疫病に苦しんでいる人々
からの需要はこれからも高まっていくだろう。サリドマイドの使用を認可しないことはそのような人々を救うことを放棄するのと同じこと
であり、倫理的に考えても、サリドマイドの将来における有用性を考慮すると、功利主義により認可することは正しい。もっともサリドマ
イド児を産むことは不正ではあるが・・・
 結局のところ、サリドマイドの使用を認可しないとしても、需要があるため闇取引などで流通するのだからいっそのこと認可した方が
よいと思う。そして管理システムによりできるだけ薬害被害を小さくするしか現状では打つ手がないように思う。認可しようがしまいが
サリドマイド児はこのままでは産まれ続けるのだから、一刻も早くサリドマイドの正体を突き止めてほしいと願う。この問題の根本的
な解決はそこから始まるような気がする。


(次点)法学部・1回生 久野真優子[kino-doc:]
 難病と言われてきた病気が嘘のように治った時の気持ちはどんなものだったのだろう。安全といわれて来た薬で障害を持った子供が
生まれると知った時の気持ちはどうだったのだろうか。私なら、サリドマイドについての考えは、目の前にどちらの患者がいるかで決まっ
てしまいそうな気がする。目の前に苦しんでいる人がいて、助けられる可能性があるなら助けたい。障害を見れば、悲劇を繰り返しては
ならない、と思うだろう。どちらも間違っていないと思う。そしてどちらも満たすためには、そのメカニズムを知らなければならない。使う人
のすべてが。そして、それは不可能だ、といってもいい。
 そんな効能があると知らなければ、考えなくてもいい問題だったのに、といっても後の祭りだ。知ってしまった以上、出来る限りの努力
で、安全さを確保しながら使うしかないのだろう。



「サリドマイド・製造再開の背景と問題点」を観て… 私の選んだベスト5

法学部・1回生 山田寛子[kino-doc:259]
 母親の健康を回復し、妊娠を可能にしたのはサリドマイド。しかし皮肉にも、妊娠してから脅威となるのもまたサリドマイドである――
サラさんの例で示された事実に、サリドマイドの問題の重要性を強く感じます。
 しかし、私はサラさんの考えにどうも納得できません。危険だということは承知しているが、サリドマイドの効用も捨てられない、として
サラさんは医師の承諾が降りるとすぐに服用しました。私にはそれが安易な行為に思えてなりません。私ならいくら死にそうでも出産
までは絶対飲みません。自分の命も大事ですが、少々子供の命・権利を軽く見すぎている気がします。子供は単なる自分の所有物で
はないのです。子供が長い人生の全てを障害を持って暮らさなければならないことを思うと、今の自分の痛みのために飲むことなどと
てもできません。
 サラさん一人を責める形になってしまいましたが、これは彼女だけの問題ではなく、それだけサリドマイドが妊婦たちの「心を病む」薬
だということでしょう。妊婦にとってサリドマイドは天使の顔をした悪魔の誘惑にすぎません。妊娠何ヶ月、という問題ではなく、妊婦の服
用を全面的に禁止するべきだと思います。

法学部・1回生 巽 宏朱[kino-doc:287]
 サリドマイドという薬品を製造再開するという問題は,とても複雑な問題だと感じました。過去の悲惨な薬害事件を考えると,どう考え
てもサリドマイドを復活させることは間違っています。しかし,サリドマイドが様々な効能を持っているのも事実です。母に聞いたのです
が,母の年代で,サリドマイドというものを知らない人はいないそうです。それほど身近に起こりうるものであり,また大きな薬害事件だっ
たといえるのでしょう。
 私は今回の授業で初めてサリドマイドというものを知りました。また,周囲でも細かに知っている人はほとんどいませんでした。だから,
昔に比べてサリドマイドの害がどんなものかをきちんと理解できている人は少ないのではないのでしょうか。このような認識不足の中で
のサリドマイドの使用の再開は,ものすごく危険性を帯びているように感じます。悲惨な薬害事件を回避するには,これからも研究を続
け,何が危険なのかを究明していくことが重要だと思います。また,医者や学者だけでなく,使用する可能性を持った私たちもこの薬品
について,きちんと理解し,過去の悲惨さを認識しなければならないと思います。


法学部・1回生 秋田昌紀[kino-doc:308] (投稿期限遅れですが、ユニークな意見なのであえて選びました。/木野)
 実際に薬害サリドマイド事件の被害にあった方にとってはサリドマイドの製造の再開は受け入れがたいものであるだろう。しかし、どうし
てもサリドマイドを必要とする人々は世界に数多くいるのも事実である。ハンセン病の患者は世界に何万、何十万といる。しかもハンセン
病は今、現在おこっている病気であり毎年約70万人の患者が新しく発生しているのである。それに比べればサリドマイド事件の患者数は
確実に少ない。しかも注意しさえすればもう患者はでない。・・・・いや、患者がでないことはないだろう。サリドマイドの使用を認めればまた
サリドマイドの被害者は必ず生まれるだろう。だが被害者がでたとしてもそれはほんとにごく少数となるだろう・・・被害者を0にすることなど
無理な話である。
 少しでも危険があるから使わない!それでは人はなにもできなくなってしまう。どの薬も危険のない薬なんてない、とドキュメンタリーの
中で医者が言っていた。しょちゅう使われる麻酔でも使い方を誤れば死をまねくのである。ようはその使い方だ。法学部なら誰もが知って
いる言葉にこんな言葉がある「利益の存するところに危険も帰する」。つまり、利益をえようとするとき必ず危険はつきまとうということだ。
 問題はサリドマイドの復活を許すかどうかではなく、今後サリドマイドをどのように扱っていくのかである。サリドマイドの管理体制を万全
にし、できる限り被害者がでないようにする。それでも被害者はでるだろうがリスクと利益を考えればそこは目をつぶらざるをえない。利益
のために少数の被害者を切り捨てるのか!なんてキレイごとは言ってられない。危険なしですべてを救うなんてことは不可能なんだから・・・・


文学部・3回生 山本崇正[kino-doc:290]
 サリドマイドを使用するかどうかの判断を倫理的な問題だと考えてしまうと、ただの感情論になってしまう危険性があります。むしろ、
効能と副作用というリスク・ベネフィットをきちんと分析し、判断することが大切です。「過去に薬害を引き起こしているから使うべきでは
ない」「必要悪だからしかたがない」というのはただの感情論です。副作用のない薬はありえません。ゼロリスクなどというのはただの
幻想です。サリドマイドが使用禁止であるなら、タバコなどとうに撲滅されていなければおかしいでしょう。これは挑発ではなく、議論す
るときの基本姿勢として絶対に認識しておかなければいけないことです。昨今の狂牛病騒動も、この基本姿勢を忘れた人たちが騒ぎ
立てているために、被害が拡大しているのですから。
(私の意見のフルバージョンは下記HPにありますので、読んでみてください。)

HP URL http://homepage3.nifty.com/takadon

理学部・2回生 櫻田和也[kino-doc:302]
 アレルギー性鼻炎でさえ、鼻を切除したくなることもある。食事や排泄にかかわる粘膜の炎症やただれは、きっと酷く耐えがたい苦痛
だろう。そのような苦痛をもたらす症状を、劇的に緩和することができるというのだから、サリドマイドの効能はとても有益だ。
 その副作用は、胎内で細胞が分化する発生の過程への影響にほぼ限られるといえそうだ。このように副作用が十分に限定されてお
り、上のような効用があることを考えれば、配布された資料中で増山さんも仰るように「復活も構わない」と判断できる。
 ただし、胎児への影響は甚大なので、徹底した管理と啓蒙が義務とされるべきである。副作用は限定されていても、リスクは大きいの
だ。他の、よりリスクの小さな薬で事足りることには使用すべきではない。
 啓蒙について、妊婦の絵柄に赤斜線を引いた「妊婦服用禁止」記号が付けられていることは番組でも紹介されていたが、これが胎児
を中絶する薬と誤解され胎児障害が増えたという報告もある(*)。
 ブラジルにおいて貧困層にハンセン病が多く、また中絶の需要が高い状況を考えずにはいられない。
*「財団法人いしずえ」より「サリドマイド事件とは」
 http://www02.so-net.ne.jp/~ishizue/



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