2005年の出来事

6月20日(月)、熊本県庁へ♪(美代子さんの手帳返却と恵さんの認定申請) 写真付きの報告は → http://www14.plala.or.jp/wappa/action/act26.html へ♪
9月2日(金)、熊本県庁(認定申請が失効?) 写真付きの報告は → http://www14.plala.or.jp/wappa/action/act30.html へ♪
10月21日(金)、甲南女子高校で語り部活動♪
11月11日(金)、いよいよ環境省へ  (写真付きの報告は → http://www14.plala.or.jp/wappa/action/act32.html へ♪
11月12日(土)、11日の環境省交渉が新聞に載りました♪



2005年6月20日(月)、熊本県庁へ♪(美代子さんの手帳返却と恵さんの認定申請)

2005年6月19日(日)の夜8時、大阪・阿倍野の地下で、小さな待ち合わせがありました。熊本行きの夜行バスが出る時刻の1時間半以上前から「遅れてはいかんから」と集まり、うどんと天ぷらの定食で夕食を済ませたのでした。

 「月1万円と引き換えに、水俣病患者としての認定を諦めるなんて、イヤ」「裁判所でも勝ったんだし、ちゃんと水俣病と認定してヨ」と県知事に言いに行くことにした坂本美代子さん(70歳)。
 「裁判に勝っても、亡くなった原告には何もない。なんとかしたい。同じ食事をした自分が認定されれば、両親も患者だと証明できる」からと、水俣病の認定申請をすることにした小笹恵さん(51歳)。

 往路は、2階建てバスの1階。バスの入り口にもトイレにも近いということで選んだのですが、お尻の下からエンジン音がけっこう響き、美代子さんも恵さんも「一睡もしていない」とのこと。緊張感のせいもあったとは思いますが、1階は止めた方が良いようです(教訓)。帰路は1階建てのバスでした。疲れもあって寝はしましたが、やはり「夜行バスより夜行電車の方が良い」ようです。
(バスは電車よりも安価で乗り換えがないので、今回、利用しました)

 熊本着は朝7時過ぎ。県庁前のホテルにすぐにチェック・イン。朝ご飯を食べてから、シャワーを浴びてご就寝。ベットは快適です。体を伸ばせるし、動かないし…。

 昼からは、秋津レークタウン・クリニックに移動。恵さんが認定申請書に付ける診断書を書いてもらうため、診察を受けました。恵さんは、自分が水俣病かどうかという観点から、診察を受けたのは初体験。「今日の検査で、違うと言われたら、うれしいけど、わざわざ熊本まで来て違うだなんて恥ずかしいわ。でも、同じものを家族で食べて、親しか水俣病にならないということはないし…」。

 パート先のスーパーで、天ぷらを作る際、油の中に手を突っ込んでも熱いと感じず、帰宅してから「あ、やけどしている、いつの間に~」と思うような人が、正常なワケありません。水俣病でなければ、絶対に別の病気で、治療が必要です。

 原田正純先生の診察結果は「水俣病の疑いがあるので、精査の必要を認める」。昭和28年生まれの恵さんは、子供の時から汚染魚を食べて育った小児性水俣病の世代です。大人になってから汚染魚を食べた場合とは、症状が違い、研究もまだまだ。今までは若かったから誤魔化せたでしょうが、50歳代になるとそうも言ってられません。今後、どんどんと申請者が増えることでしょう。

 なお、原田先生は診断書をすぐに書いてくださったので、翌日、熊本県庁に提出しに行くことになりました。
 秋津レークタウン・クリニックは、初めて行きましたが、閑静な住宅街の一角にあり、職員の皆さんも穏やかで親切で、ホッとしました。診察の前後は、和室で休憩させてくださり、ありがとうございました。助かりました。

 余力があれば、熊本の名所見物や温泉巡りをしたかったのですが、残念ながら無理でした。坂本さんは大阪に来てから出身を聞かれると「水前寺公園の近く」と言いながら、いまだに行ったことがないのです。恵さんも小学校の修学旅行で、熊本城に行ったり、路面電車に乗ったくらい。今回もお楽しみは食事だけ。新鮮なお寿司や馬刺しをいただくことで、ささやかに熊本気分を満喫しました。

 翌日は、午前中は家族や職場・ご近所への土産物の調達のため、水前寺公園へ。朝早かったのですが、土産物屋さんは空いていました。土産を買わないと落ち着かないらしく、水前寺公園には行かずじまい。すぐに引き返し、土産物屋さんでもらった段ボール箱に荷物を詰めるのにワイワイ騒いで、ホテルのフロントで宅急便を頼んで一安心。ホテルの隣にある、お寿司屋さんが経営しているという回転寿司で、早めの昼食。朝ご飯から3時間弱しかたっていないので、そんなに空腹ではないのですが、さすがはお寿司屋さんの回転寿司で美味。最後はウニでしめました。

 午後1時には、県庁に向かいました。初めての県庁訪問。銀杏並木をエンエンと歩いた先に、県庁の建物が、本館と新館にありました。水俣病関係は新館にあるということなので、まっすぐ新館へ。大きなカメラを抱えたマスコミさんが何やら10人以上も集まっていて、公害対策課に連れて行ってくれました。

 特にアポイントも入れていなかったのですが、公害対策課の課長さんは在席中。恵さんは、驚く課長さんの前に立ち、
「認定申請書を持ってきました。それと、お話があるので、知事さんに会わせてほしい」
「申請書は分りました。知事は今、県議会中なので…」
「10分か20分でも構いませんが」
「議会を抜けることは出来ないので…」
「では、知事さんに代わる人に会わせて下さい」
「私で良ければ…。今、空いている会議室を探させますので、まずはあちらで…」と
課長自ら、応接ゾーンにご案内。
 待っている間に、「書類に不備がありました」とのことで、署名と押印を忘れていたところに追加。恵さんいわく「宅急便でハンコを送り返さなくてよかった~」。

 結局、会議室はふさがっていたそうで、職員研修室という広~い部屋に案内されました。窓際に机を並べて、向かい合って着席。課長が「構わないのですか?」とマスコミの存在を気にしましたが、二人は「ハイ」と一蹴。そして、美代子さんが、「これ、お返しします」と、保険証のようなモノを課長に差し出しました。
 それは、今年の5月末に、勝訴原告だけに渡されたオレンジ色の手帳。医療費の自己負担分のほかに、条件を満たせば月額最高1万円が介添費という名目で支給されます。

 「私は水俣病と認定してもらうために、裁判を22年もやってきた。こんなことで誤魔化されない。あくまで認定を求めているから、お返しします」

 差し出された課長が「受け取れない」と言い出したら、「返す」「受け取れない」「受け取って」「受け取れません」の言い合いになって、途中で美代子さんの血圧が上って引っくり返るかもしれないなと心配していましたが、実際は「お預かりして、環境省に届けます」という応対だったので、一安心(ご本人も拍子抜けしたそうです)。

 その後は、美代子さんの語り部コーナー状態。劇症型だったお姉さんの話、村八分に遭いながら家族で介護したこと、姉におかゆをたべさせる資金を稼ぐために大阪に出たこと、美容師になったけれど手先の感覚が鈍くて失業したこと、40歳過ぎには働けない体になったこと、自分の体が弱いことで娘や息子に心配を掛けつづけていること、もし自分に万が一のことがあったら娘や息子が来るだろうこと。その時は「私のように、穏やかにはいきませんよ…」。

 鬼気迫る美代子さんの語りに、室内はシーン(バッテリーやテープを入れ替える音がするくらい)。その合間を縫って、恵さんも話しました。

 「医療費なんて、国や県の人は大層な言い方をしていますけど、当たり前ですよ。人間は1日24時間、病院に行っているワケではありません。普通の生活があるのです。家賃も要ります、食費も要ります。電気代、水道代、ガス代、いろいろいるんです。でも、水俣病の人はあまり働けなかったから、生活が苦しいのです。だから、認定がいるのですよ。医療費なんて、当たり前の最低限ですよ。」

 「本来なら、不知火海沿岸の魚を主食にしてきた人全員に、医療費は渡して当然ですよ。私の両親のように、関西に出た人も対象です。探してでも、助けてください。」

 「私の両親は、裁判でもちゃんと認められています。早く亡くなったのは、それだけ病気が重かったからでしょ。それなのに、なんにもなしなんて、そんな死に損、私は納得できません。親が死んで裁判で850万円なんて、少なすぎると思いませんか? あなた方なら、納得できますか?」

 「私も今日から認定申請をしました。父は保留のまま亡くなって、そのままです。母は棄却されて不服申し立てをして、そのままです。今頃は、書類がホコリにまみれているのではありませんか? 私は自分が認定されたら、両親も認定されたと同じになると思うので、思い切って申請することにしました。でも、昨日、診察をしてもらって水俣病の疑いがあると言われた時はショックでした。私は泣き寝入りはしませんよ。あなた方も、もっと真剣に向かい合ってくださいよ。また、来ますからね」

 フと時計を見ると、午後2時半。県庁に行ってから1時間半ほどたっています。エンドレスな話し合いで、課長さんたちも大変。ですが、美代子さんと恵さんも大丈夫かなと思い始めたところ、美代子さんが頭痛に耐えかね、薬を飲むことに…。
 美代子さんは常に耳鳴りがし、頭痛に悩まされているのですが、薬を飲まずにはいられないほどの激痛に襲われ、県職員は課長以下、体調の急変に、おおわらわ!

 飲み終えた後、美代子さんは課長さんに挨拶をしようと、頭を下げられたのですが、よ~く見ると、前方にいたのはマスコミさんのカメラ。後ろにいた私に「あれ、課長さんは?」とのこと。課長さんは、美代子さんのすぐ斜め横に付き添ってくださっていたのでした…。見えない? 視野狭窄を実感したひとこまでした。

 なお、恵さんも同時に頭痛が酷くなったそうですが、人前で薬を飲むのがイヤなので、廊下に行ったそうです。二人で飲むと「わざとらしい」と思われたらイヤということだそうです(そんなの、考えすぎだと思いますが…)。

 県庁をおいとました後は、和室を提供してくれるというくまもと県民テレビさんに直行。マスコミさんは、課長さんへの取材に殺到。
 コーヒーをいただきながら和室で一休み。なんとか体調も回復したので、美代子さんはスカート姿に変身して、県民テレビの夕方のニュースに生出演。
 「緊張した」「何を言ったか覚えてない」とのことでしたが、しっかりと「私は認定をもらうために、裁判を続けてきた。認定してほしい」としっかり喋っておられました。恵さんと私は、スタジオセットの脇で見物していました。恵さんは「坂本さんはスゴイわ~。私は絶対に出来ない」と感心しきり。

 出演中は雨が降っていたのか、道路が濡れていましたが、外に出たときにはキレイな虹が出ていました。美代子さんと恵さんの二人の生あるうちに認定通知が届きますように、願わずにはいられませんでした。

 
参照:熊本日日新聞(05.6.22)

*「関西訴訟の勝訴原告1人 医療費支給手帳を返上 新対策「納得できず」」
*「解説:医療費支給手帳を返上 方針変えぬ国に憤り」

熊本日日新聞(05.6.22)
*「小池環境相 勝訴原告の医療費受給拒否「やむを得ない」 」




2005年9月2日(金)、熊本県庁(認定申請が失効?)

2005年6月に水俣病の認定申請しにわざわざ熊本県庁を訪れた小笹恵さんですが、7月下旬、無事に受理された旨、書類が届いたそうです。
 「遺族」という単語が目に付いたので、「なになに…」と、その書類をよーく見たところ「亡くなった場合は半年以内に手続きしないと失効します(要約)」とあったとのこと。

 翌日、熊本県の水俣病対策課に「こんなん知らなかった。ウチの親はどうなってます?」と問い合わせたところ、調べてくれ、翌日のお返事が、「失効してます。この規定、ご存じなかったのですか…」。

 「両親の後を継いで、13年間、頑張って来た。父が亡くなった4ヶ月目から私は原告団の会議にも参加している。その2ヵ月後に失効してたなんて…。そんな決まりはおかしい! 泣き寝入りはしない!!」と、激怒中。

 という話は前にお伝えしたとおりです。そして、先々週の金曜日(9月2日)、熊本県知事に会いに行ってきました。今回も夜行バス!(経費節減と乗り換えのラクさを考えると…)。直接の当事者である小笹恵さん、「夏義さんが一番苦労しているのに…。私も一言」と仰る坂本美代子さん、「留守番する方が、心臓に悪いから、一緒に行くね~」の私。女三代の珍道中、第2回目です。

 バスの出る100分も前に阿倍野の地下で待ち合わせして、うどんやウナギの定食を食べて、喫茶店で一服して、いざ乗車。二階建てバスの二階の二列目。ほぼ満席。前回は二階建てバスの一階席で、エンジン音が響いてましたが、今度は揺れる揺れる! 高速道路に乗ってからは落ち着きましたが、恵さんは「吐くかと思った」とのこと。私も参りました…(汗)。

 朝7時半頃に無事に下車しましたが、恵さんも美代子さんも口をそろえて「前回より寝てない」。
 「美代子さんは睡眠薬を飲んだのでは?」「きかへん」「いつ効くの?」「さぁ」「睡眠薬のメンツ丸つぶれやね~」「寒かったしね…」「毛布が小さかったよね~」「バスタオルを持ってくれば良かった…」。

 それでも食欲は旺盛で、喫茶店でモーニングを食べた後、ホテルにチェックイン。朝からデイユースが可能で、そのまま泊まって、3人で14500円のお値打ち価格。熊本交通センターホテル。改装したばかりで、まぁきれいなトリプルルームでした。

 午前中は寝たり起きたりでノンビリした後、美代子さんを何年か前に取材したという元・記者さんと子連れで昼食して、美代子さんは再会を喜んではりました。
 ご機嫌斜めのお子さんの相手をしたのが美代子さんで、「孫の面倒、みてきたもん」。「孫が出来たら毎日でも、会いに行くねん」と張り切っている恵さんの出番は無し(今のとこ、孫の目処も立っていないそうですけど…)。

 恵さんは昼1時と言ってましたが、そんな予定通り移動できるわけもなく、1時半までには辿り着くつもりでいましたが、やはり1時からは約十分の遅刻…(汗)。見ると、課員の若い人が玄関口まで迎えに来ておられました。前回、美代子さんの頭痛騒ぎの時にもおられた丸顔の男性です。

 「時間になっても来られないので心配しまして…。マスコミさんがおられるので、来られるとは思っていたのですが」ということで、丸顔さんの案内で、マスコミさんともども水俣病対策室へ一直線!(特に美代子さんはスタスタとは歩けないので、壁や手すりにつかまりながらですが…、熊本県庁の廊下には意外に手すりがあるのですね~)

 知事は福岡に行って不在とのことで、前回と同じく水俣病対策課の谷崎課長に訴えてきました。一週間前に恵さんが「抗議文」をFAXし、当日にも電話を入れた成果か、課長の手許には夏義さん関係のファイルがあり、応接用に会議室も用意されていました。

 恵さんが出した「抗議文」ですが、、、

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熊本県知事 潮谷義子様

 いつもお世話になっております。
 この度、父・岩本夏義、母・岩本愛子の水俣病認定申請が、亡くなってから半年で効力を失っていることを知り、大変ショックを受けるとともに、大変怒りを覚えています。
 そちらの方から、効力を失う前に遺族に何らかの連絡があって、こちらが放っておいたのならわかりますが。
 だいたい、患者に責任を押しつけるのは筋違いです。
 水俣病を長い間、何の対策も取らず、ほったらかしにしといて、その結果、父と母は申請してからもう31年も経っています。申請受理書の後ろに、小さな字で、亡くなってから半年放っておいたら効力を失うと書いてあっても、31年も前に出したんですから、覚えておく方が無理です。まして、遺族はもっとわかりません。
 それを亡くなったら半年で効力を失うなんて、いつも患者が言っているように、死ぬのを待っていると言われても仕方ないですね。
 父母がどんな思いで申請したか、わかりますか。それを死んだら終わりなんて、あまりにも非人道的です。患者は被害者です。国、県、チッソに殺されたんです。
 私は絶対に引き下がりません。あまりにも、父、母、亡くなった人々が惨めです。貴女達は加害者です。せめて患者の人権を守ってください。
 近いうちに、お話を伺いに参りますので、よろしくお願いします。
*****

 室内は会議室に良くある3人掛けの机が3つ引っ付いて並べてあって、椅子が二脚ずつ。机が2つだと、向かい合って座ればお互いに袖触れ合う近さになるのですが…。新聞1社、テレビ2社が見守る中、恵さんが思いをぶつけます。最初の20分は一人で喋っていたような気がします…。要旨としては…

 両親が認定申請をしたのは今から31年も前。それから18年後に亡くなったけど、遺族は何も聞いていない。解剖してでも認定されることを望んでいたから死後半年以内に遺族が県に届けないと失効すると本人が知っていたら、私らに教えたはず。
 申請した本人が知らないことを、遺族は知りようが無い。その規定を知ってから届ければ良いことにして欲しい。理屈はなんでもいいから、なんとか、審査会に掛けて欲しい。
 申請者が亡くなったかどうかは、調べにくいかもしれないけれど、父の葬儀の時は、原告団長だったせいか全国紙に記事が載ったし、県や水俣市からも弔電をいただいている。父の死を知ったのなら、ひとこと失効について教えて欲しかった。
 私は失効について、自分が認定申請して初めて知った。私は好奇心が旺盛だし、「遺族」という言葉に今は敏感だから、認定申請の受理通知の何枚目かにあった「遺族」という言葉に反応できた。気付かない人も多いと思う。もっと目立つように書くべきでしょう。
 「国や県は患者が死ぬのを待っている」という言葉をよく聞きますが、今回私は本当にそうかもしれないと思いました。これでは死に損です。法律は法律も知れませんが、どうにかしてください。私は泣き寝入りはしませんから…。

 美代子さんも、「私もそんな決まりは知らなかった。恵さんに言われて、二日がかりで古い書類を捜したら、平成4年に来た通知に載っているのを見つけたけど、そんなの覚えていない。認定申請の受理通知は、ハガキ一枚だけで、別にそんなことは書いてないですよ」

 この二人、ホントによく喋ります。感心します。日頃から体全体で考えて、考えて、その思いをぶつけています。約90分も話し続けるなんて、たいしたものです。一見の価値、あります。機会があれば是非ご同席くださいませ。

 で、二人の思いをぶつけられている課長さんのお返事ですが、

 亡くなった当時の係員に尋ねたが、経緯は覚えていないとのことだった。
 お気持ちは分かります。
 法律的にはどうしようもありません。
 来週、環境省に行くので、必ず伝えます。
 失効について、もっと見やすいように工夫するようにします。
 今まで、このことで苦情に来られた方はいません。小笹さんが初めてです。
 今日のことはマスコミさんも来ておられることですし、報道していただけると、気が付く方もおられるかもしれません。

 恵さんは、環境省に行った結果は必ず連絡してくださいねと突っ込み、「はい」と返事をもらってました。

 3時前に美代子さんが頭痛を起こしたかどうかというあたりで閉会。そのままマスコミさんが課長さんに取材しているので、興味津々。いろいろ口出ししていたような気がする…。その後、県庁1階の喫茶室の前で、課長さん達とお別れ。我々は静かにお茶、と思いきや、取材でバタバタしながらのお茶。

 この日は、熊本に小泉首相や亀井静香さんが選挙の応援演説に来ていた上、熊本城の大広間の上棟式があったり、じん肺の裁判で和解とか、天草で船が沈むとかの事件があったのですが、県民テレビと朝日放送では、しっかりと夕方のニュースになっていました(ホテルで見ましたよ~。深謝♪)。

 その後は、ゆっくりとご飯を食べて、翌朝は帰りのバスの防寒用のタオルを探し回ったり、熊本城の天守閣に登ったり、シダックスでカラオケしたりして、楽しんで、夜行バスで帰阪しました。
 帰りのバスは一階建ての産交バスでしたが、行きと比べて毛布も大きく、冷房が効きすぎることもなく、なんとなく椅子も立派な気が…。
 朝6時54分の到着予定なのに6時20分くらいに着くので、30分ほどボーっとして、7時開店のモスバーガーで朝食して、帰途に着きました。

 熊本城に行ったのは、美代子さんは両親の裁判(第一次訴訟)の時以来、恵さんは小学校の修学旅行以来とか…。ちなみに私は初めてでした。


 おかげさまで、とりあえず無事に済んで良かったです(ホッ)。ありがとうございました。


→ 後日談。10月25日(月)、恵さんの妹さんが新たに認定申請をして受理通知書が届いたのですが、失効の規定は別紙に独立していて、枠囲いまでついて、目立つようになっていました。
 お役所の書式を変えさせたなんて、恵さんの訴えには説得力があったのでしょう!
 それはそれで快挙ですが、このままでは夏義さんと愛子さんが浮かばれませんから、遺族が規定に気が付いてから半年以内に届ければ復活できるようにしてくださいね~♪

2005年10月21日(金)、甲南女子高校で語り部活動♪

澄みわたる晴天の中、神戸で語り部活動をしてきました。お世話になった先生方、校長先生、生徒の皆さん、記者の皆さん、ありがとうございました。
 地元の新聞に載っただけでなく、そのメールマガジン版(週刊)にも載ったので、記念に載せておきま~す。

◇◆◇ この記事読んだ? ◇◆◇

<ひょうご面>   水俣病患者の体験に涙 甲南女子高特別授業 11月、現地で研修

 昨年10月の最高裁判決で被害拡大を招いた行政責任を認めた「水俣病関西訴訟」の女性原告2人が21日、神戸市東灘区の甲南女子高校で特別授業を行った。水俣病で家族を失い、自らも未認定患者として痛みや差別に耐えて戦ってきた壮絶な体験談に、生徒らは涙を流して聞き入った。

 大阪市平野区の坂本美代子さん(70)と大阪府松原市の小笹恵さん(52)。2人は熊本、鹿児島県から移住した。水俣病の行政認定を求め、関西の学校などで語り部をしている。

 同校は2002年から、総合学習で「水俣病」を研究してきた。2年生が11月の研修旅行で熊本県水俣市を訪れるのを前に、関西に住む未認定患者の現状を知ろうと特別授業を企画した。

 授業には生徒ら42人が参加。コーディネーターとして大阪人間科学大学講師の山中由紀さん(35)が付き添った。

 「つらかった時、支えになったのは」との生徒らの質問に、坂本さんは「激痛に苦しむ姿を、子や孫に見せるのが一番つらい。水俣病で死んだ父の『自分に負けるな』という言葉が支え」と答えた。また、くしで腕を突いてみせ、病気のため「感覚がほとんどない」と説明。料理中に自分の指先を切り落としたこともあると明かした。

 小笹さんは「水俣病を隠さないと就職も結婚もできなかった。なぜ自分の生まれた土地を隠さないといけないのかと思った」と語った。

 最後に生徒たちが「故郷」を斉唱。活動資金に、と集めたカンパを手渡すと、2人は目に涙をためた。

 2年の八塚友梨さん(16)は「何も知らずに傍観してきた自分は、なんてひどいことをしてきたのかと思った。体験を話す姿がとてもつらそうだった」と泣いた。
[Kobe Shimbun Gラフ 2005/10/25]





2005年11月11日(金)、いよいよ環境省へ

先週の金曜日、ついに環境省に行ってきました。新聞っぽく書くと、こんな↓感じでしょうか。
*****
 水俣病の患者救済は、熊本県(ほかに鹿児島県、新潟県)が認めた人に対して加害企業のチッソや昭和電工が補償金と年金(国民年金程度の生活費)と医療費を支払うことで実行される。患者としての認定を求めて裁判を起こし、最高裁で昨秋に勝訴確定した坂本美代子さん(70歳)と遺族原告の小笹恵さん(52歳)が、2005年11月11日、環境省環境保健部を訪ね、水俣病患者としての救済を求めた。

 坂本さんは「私の姉はちょうど結婚話が出た頃に劇症患者になり、村八分の中、やせ衰えて亡くなった。両親もきょうだいも認定患者」「いつも頭痛と耳鳴りがしている。朝起きたときに体が動くのを確認した時の喜びが分かりますか」「薬の研究を進めて欲しい」「ボケてから認定されても遅い」「私には明日がない」「子供や孫に迷惑をかけたくない」「勝訴原告向けの保健手帳(勝訴し、かつ生存している原告向けの国・県の「配慮」。医療費が出る)は要らないから熊本県に返した。ごまかさないで、水俣病患者として認めて欲しい」と訴えた。

 小笹さんは「母は地裁判決の前に、父は地裁判決の直後に亡くなった。早く亡くなったのは、それだけ症状が重いからでは?」「それなのに、亡くなった原告には何にもないのは納得できない」「私も頭痛がひどくなり、正座したら足がしびれるような感じの症状が右手にずっと出るようになった」「私が認定申請して初めて、両親の申請が失効していることを知った。これはわたしのせいか?」「熊本県に訴えに行ったら、最近、失効の規定が目立つような書式に変わっていた」「審査会に掛けてほしい」「私は諦めませんよ」「法律違反になるなら、私を逮捕してくださって結構です」と訴えた。

 約3時間にわたって応対した環境保健部の部長と課長と室長は、「ご両親の失効は、小笹さんが悪いのではありません」「要するに、名誉回復ということですよねぇ」と言い、小笹さんは「今までのふんぞり返っているだけの役人とは違うと思っている。ニセ患者の疑いを晴らせるよう、早く認定して欲しい」と、坂本さんは「認定してください」と応じた。
*****

 9月2日(金)に熊本県庁に行った甲斐があり、申請者が亡くなった場合の失効についての注意書きが、独立した一枚の紙になりました。恵さんの妹さんが認定申請をして、その受理通知がきたので、変更されていることが、10月24日(月)に判明しました。成果です♪


 今回、環境省に面会予約を取り付けたのは、小笹さん。「県庁から返事が来ない。環境省に行かな。県庁は市役所みたいなもんやから大したことないけれど、環境省は敷居が高い~」と言いつつ、去年の12月に小笹家の仏壇にお参りしに来た環境保健部長の名刺を探し出し、「FAX番号が載ってたから、ここに送るわ~。でも、何て書いたら良いんやろ~。私、字が下手やし~」と電話で大騒ぎ。

 結局、10月15日(日)の晩あたりに「11月上旬の金曜日に伺いたいのですが」とFAXした模様。18日には「頑張って書いて送ったのに、返事が来ない」とブツブツ。その時、私は伊丹空港から熊本に向かう飛行機に搭乗する直前。
「明日、熊本学園大の水俣学で木野先生が講義しはるから、モグリに行くとこなんです。ま、そんなスグには反応がないと思いますよ~。それより、反応が全然ない時、それでも押しかけるかどうか、どうするかの方が問題でしょう」
「そんなもんかな~。わざわざお金を使って行くんやから、それなりの人に会いたいしね~。あ、原田先生に宜しくね」
「は~い。じゃ、行って来ま~す♪」。

 で、22日(土)、「環境省から返事が来た。11日(金)やって。あとは時間の調整なんやけど…」「前日から行っておくのと、金曜の朝に出るのと、どっちが良いですかね~」「坂本さんは木曜日が通院日だし…」「フムフム」。
 大阪を当日の朝に出るのが望ましいということになり、「午後2時以降で」と23日(日)深夜に環境省にFAXをした模様。すると今度はスンナリと「“受け取りました。調整しますので、お待ちを”というFAXが来た~」とのことで、恵さん、ご機嫌。

 結局、11月1日(火)の夕方、恵さんから私の留守録にメッセージが…。恵さんが録音するのは極めて珍しいことで、今のところ、この一回だけ。まさに事件です!
 内容は「あ、もしもし、小笹です~。環境省から電話ありました。11日の2時から、1時間ほど予定をとってもらいましたのでお伝えしておきます。それでは~」。
 普段の口調とは一変していて、標準語調のイントネーション…(笑)。要・保存ですね~。その後の電話ではアポを取れたことに対して、恵さん「私にも出来たやん~」と大威張り♪

 翌日、私は閉店時間間際のJR東海ツア~ズに駆け込んで「赤坂泊、3人1室、朝食つき、新幹線ひかり指定席。変更ダメ、乗り遅れもダメ」だけど、一人24300円の格安パックをゲット! 何も変更沙汰が起きないことを願い続けたのでした。

 11日は、9時に阿倍野に集合し、地下鉄で新大阪駅へ。車内で食べる昼食用の弁当を選んだ後、40分くらい余裕があったので喫茶店でモーニング。が、注文がバラバラだったせいか、出てくるのに時間がかかり、いっぱい喋れたのは良いですが、急いで食べて改札口まで早歩き!
 
車内での会話その1
私「環境省に入る時に必要という身分証明書ですが」
恵さん「持ってきたよ~。これ、健康保険証」
美代子さん「私、忘れたで」
私「…(写真のない保険証で良いの? え゛、忘れた? ったく…)」
→ 結局、証明書が必要なのは、環境省の受付ではなく、門のところでした。しかもテロ対策の割に1団体につき1人の証明書で良いらしく、私の小型自動二輪の免許証で通ったのでした。

車内での会話その2
私「環境省の何階に行くんでしたっけ? 県民テレビさんから問い合わせメールが来てるんですけど」
恵さん「あ~、環境省からの紙、持ってくるの忘れたわ~」
私「え゛~、そんな大事なもん、置いてきたんですか!」
恵さん「7階とかちゃうかったっけ」
私「前の電話では23階とかいう話と違いましたっけ」
恵さん「そうやっけ? なんとかなるって~。私が責任とるから」
私「…」
→ 結局、受付さんに恵さんが颯爽と尋ね、環境保健部は25階と判明。10分ほど時間があったので、1階のロビーで休憩。美代子さんは県民テレビさんからの取材対応。そのうちに、保健部の方が迎えに現れてくださり、保健部長室へ直行。
 部長と書記の人だけでなく、見たことのある課長と室長も登場し、ビックリ。

車内での会話その3
恵さん「どうしよ~。何も言うこと思いつかへん。今まではそんなことなかったのに…」
私「大丈夫大丈夫。今、トイレとタバコに行っている人(美代子さん)がいはるから、割り込む余地がないかもしれないし」
恵さん「それもそうやね~。最初に県庁に行ったと時は、スキマを見つけるのが大変やったし」
→ 面会は1時間ほどという約束でしたが、両親の失効問題で口火を切った恵さんが喋り続け、最初の約40分間は独断場。美代子さんの出番はほとんどなく、美代子さんは手持ち無沙汰。美代子さんの追っかけで来ている熊本県民テレビさんは困ってるやろうな~と心配しちゃいました。

 結局、1時間経っても2時間経っても、「時間ですので」という言葉はなく、美代子さんも割って入り、途中で頭痛薬を飲んだ後からも「私には、明日という言葉はないんです」「棄却や保留という言葉は要りません」と熱弁!

 同じように重たい話をするのですが、恨み節系の美代子さんに対し、恵さんは明るい系。私はいつもクスクス笑っているのですが、他の方は神妙にしているのが普通。例えば…
 恵さんはパート先で「肩が痛い」とか「足が痛い」とか言うそうですが、同僚は「今日は、どこが痛いと言うかの当てっこをしている」とのこと。私は本当に辛いのに、分かってもらえない。と訴えた後、

 「そら、私はこんなふうで、暗くはないですから、そーゆーふうには見えないのかもしれませんが」

と付け加えるんですね。すると、なんと滝澤部長まで吹き出して、しかも爆笑。

 この部長が笑った事件については、
美代子さん「笑うなんて、失礼や」
恵さん「笑わせるつもりはなかったんやけど…、面白かったんやろなぁ」
私「タイミングを外さずに笑うなんて、よう聞いてはるということやし、嫌われてはいない感じですね」
恵さん「今までから、訴訟団としての交渉のたびに話してるからね~」

 面会は、環境保健部長室で行われたのですが、本棚に『新・水俣まんだら』がありました。黄色い付箋が二枚ついていたので、読んだ形跡あり♪

 結局、窓の外が暗くなってきたことに気が付いて驚いたた恵さんのおかげで、夕方4時半過ぎに、「私たちは諦めません」「坂本さんを救急車に乗せてでも、引きずって来ますから」と、おいとましてきました。窓がない部屋だったら、それこそ体力の限界まで続いていたかもしれません。

 夕方のニュースにする予定の県民テレビさんは、4時頃からソワソワしておられました(間に合って良かったですね~)。
 熊日さんは2時半頃に来られたので、「あと20分ほどで終る予定なのに、大丈夫かしら」と心配したのですが、エンエンと長引いたので問題なし(遅れてでも行ってみるもんですね~。今後とも宜しくお願いしま~す)。
 
 その後、1階でコーヒーを頂いた後、宿の赤坂エクセルホテル東急に荷物を置いて、水俣フォーラムの事務所で語り部をして1時間弱ずつ喋って、10時前にホテル帰還。
 横長のビルで、廊下がとても長~く、部屋から出たくないということで、1階にあるコンビニへの買出しは私の役。美代子さんが薬を飲む用のお茶(渋いのが良いそうな)、恵さんの缶ビール(無かったので、カップコーヒー5杯セットとポテトチップで代用)、私の飲み物(スタバのアイスコーヒーに決定)をお買い物。
 宿泊客に日本人は少なかったのですが、部屋のお風呂も横長で、長身の人向き。お湯に浸かろうと寝っ転がってみた恵さんは足が届かず、溺れそうになったそうです。悲鳴は聞こえなかったし、そのまま沈んでたら、手遅れになったことでしょう(記事の見出し「水俣病未認定患者、ホテルの浴槽で水死」)。



 とりあえず、おかげさまで無事に環境省に行ってきたご報告でした♪
末筆ですが、寒い季節になりました。お体をおいといくださいますよう…

【水俣病のテレビ番組】
11月26日(土)深夜1:30~2:00(27日深夜,30分)テレビ朝日系
テレメンタリー05「解けない半世紀~水俣病は終わらん」
 2004年10月、最高裁が水俣病の被害拡大を国と熊本県の責任と認めた後、新たな患者認定の申請者は3000人を超え、一部の申請者は集団訴訟に踏み切った。製作:熊本朝日。関西でのGコードは【3903843】
この番組の放映日時はバラバラです。


2005年11月11日の環境省交渉が新聞に載りました♪

【熊本日日新聞2005年11月12日朝刊】
関西訴訟勝訴原告 環境省に早期認定など要請 

水俣病関西訴訟の最高裁判決で勝訴した原告の坂本美代子さん(70)=大阪市=と、遺族原告の小笹恵さん(52)=大阪府松原市=が十一日、環境省を訪れ、公害健康被害補償法(公健法)に基づき早期に水俣病と認定することなどを要請した。

 坂本さんは、一九七八(昭和五十三)年に熊本県に認定申請したが、現在まで結論が出ず処分保留中で、「水俣病と認めてほしくて二十二年間裁判を闘ってきた。認定申請してからも二十八年になるが、ずっとほったらかし。国は私が死ぬのを待っているのか。もう耐えられない」と訴えた。

 小笹さんも、六月に初申請した自身の水俣病認定のほか、死亡した両親の認定を要望した。両親は七四年、県に認定を初申請したが、母親は九三年、父親は九四年に未処分のまま死亡。両親とも最高裁判決でメチル水銀中毒と確定したが、公健法の規定により両親の認定申請は失効した。

 小笹さんは「両親は水俣病だったという名誉回復をしたいだけ。非がある国が勝手につくった法律を盾に、患者をさらに足げにするのは許せない」と迫った。

 これに対し、応対した滝澤秀次郎・環境保健部長らは、小笹さんの両親の認定について「気持ちは分かるが、法に反することはできない」と説明。本人二人の水俣病認定については「熊本県認定審査会の再開に一生懸命努力している」と答えた。(亀井宏二)