2004年の出来事
7月5日(月) 最高裁判所で意見陳述!
10月15日(金) 最高裁判所の判決 悔し泣きをしています!!
12月12日(月)、環境省が岩本家の仏壇にやって来た♪
最高裁判所で原告の出番があるなんて珍しい! 高等裁判所での判決のどの部分に変更があるのかは謎ですが、せっかくですので、思いっきり発言してきました。
2004年7月5日(月)、みんなの思いを背負って…。
裁判所で陳述するときは、事前に原稿を提出する慣習があります。それをそのまんま読み上げるわけでもなく、実際、読み上げるというよりは「新作」を語りました。ただ、話の中身自体は似たようなものですので、ここに発表させていただきま~す。
【友の会会長・坂本美代子の意見陳述】
私は昭和57年に提訴したチッソ水俣病関西訴訟の原告番号17番の坂本美代子です。提訴以来すでに22年経ちましたが、国や県がいまだに私達原告を水俣病とは認めないのは、本当におかしいです。
裁判官の皆さん、よ~く聞いてください。
たとえば、私の姉の清子は、昭和29年頃から足がもつれて、よくこけるようになって、血が出ても知らん顔しているのです。そして、足が立たなくなって、頭が痛いと言い出して、昭和31年には寝たきりになってしまいました。
病院の先生は、「栄養失調」と言われたので、栄養のあるものを食べさせましたが、よくならず、次の先生は「小児麻痺」と言われました。その当時、姉は二十歳を過ぎていたのにです。しまいには奇病ということで、私達家族は村八分にあいました。
私のとこは井戸がなかったのです。近くにある共同井戸では汲ましてもらえなかったので、30分くらいかかるところまで貰い水に通いました。カラで行く時は何もしないのですが、水を汲んで帰る時に、坂道を登りきったところで、石や棒が飛んでくるのです。大人が投げるのです。頭に当たったり、足に当たったりして、どうしても水がこぼれる。だから、また汲みなおしに行く。その繰り返しなんです。水がなかったら、生活が出来ないから、水汲みは朝4時頃に行ったり、夜中に行ったりしました。
弟や妹は、学校にも行けませんでした。学校の門までは行っても、けがして泣いて帰ってくるのです。先生たちは「けがしたらいかんから」と言うだけで、守ってはくれませんでした。昼間も雨戸を閉め切ったまま、電気もお金がないからつけられない。真っ暗です。雨戸一枚開けたら、そこから石が飛んできます。そういう生活が一年半続きました。「父さん。清子姉さん殺して私らももう死のうよ」と言ったこともあります。父は「我慢してくれ。自分に負けるな。自分に勝て」と言いました。その言葉に鍛えられて、私らきょうだいは耐え抜きました。
私は、姉にお粥でも良いからおコメを食べさせたいと思って、大阪に出てきました。お風呂代と女にいるもの、それだけを残して、あとは全部、家に仕送りしたんです。でも、半年後に、姉は亡くなりました。熊本大学で解剖されました。姉は、解剖で水俣病と認定された最初の患者だそうです。私は結婚して二人の子供に恵まれましたけど、姉は、女の喜びも悲しみも何も知らずに、いちばんの苦しみだけを背負って死んでいったんです。
私は、大阪に来てからは、「水俣」とは絶対に口にだしませんでした。夫にも言いませんでした。熊本の水前寺公園のそばということで通してきました。大阪では美容院で働きながら美容師の免許を取ったのですが、指に力がはいらなかったり、頭が痛かったりして、鎮痛剤は今でも離したことがありません。
娘や息子にも「お母さんはおかしい」と言われました。私の妹や弟が水俣病の申請をするとき、父にお前もしてはと言われましたが、近所の目が気になったし、子供達の結婚や就職に差し支えたらと思って、断りました。
姉の清子の21回忌で田舎に帰ったとき、私は痙攣を起こして倒れたんです。担ぎ込まれた病院で「あんたとこは父親も母親も姉も弟も妹も、家族全員が認定患者やのに、なんで今まで放っておいたんや」と怒られました。子供達に相談したら「どんな差別にも耐えるから」と言ってくれたので、水俣病の申請をしました。今から25年前のことです。
一番の苦痛は頭痛です。普段はズキンズキンという痛みですが、ひどくなると頭が割れるのではないか、目玉が飛び出るのではないかと思うほどです。目も二重に見えるし、けいれんが起きることもあります。我慢できるだけ我慢するのですけど、出来ないときは救急車で阪南中央病院に行きます。阪南の先生は他の医者のように「水俣病はわからんから、水俣に帰れ」などと言わず、熱心に勉強しながら治療してくれています。私の体をいちばん良く理解してくれているのは、阪南の先生です。阪南を悪く言う国や県は、おかしいです。
料理では、お味噌汁がいちぱん難しいです。体が悪いときは、舌の感覚がないのです。だから、子供達に言わせると、辛い時や、みずくさい時があるらしいです。包丁は、包丁の柄のとこを持てないので、包丁の刃のとこを持って、包丁の柄を支えて切るんです。子供はそれ見て、恐いって言うのですが、私は慣れているし、手を切っても痛いという感覚がないもんだから、どうっていうことありません。
毎朝、目が覚めたときに、手足が動くかどうかが一番心配です。ゆっくりと動かしてみて、「あっ、今日も動いた」。その時は、言葉に表現できない喜びがあります。それが毎日、続いています。
現在、夫は出て行き、息子と二人で暮らしています。息子は「もし、お母さんに何かあれば、僕は絶対に許さん。殺してやりたいほど憎い」と、私より怒っています。激怒しています。子供たちは、小さい頃から私の体調が良くないもので、遊びに行く約束もうかつにはできず、看病するために遅刻や早退も多くて、勉強
する時間もありませんでした。私は、二人の子供たちを生き甲斐にして、生きてきました。
この裁判の原告の人たちは、私の大切な友達です。お互いに支えあって、励ましあって、20年間、裁判を続けてきました。原告はみな、私と同じような状態です。私同様に苦しみと辛さを毎日かみしめながら過ごしているのです。もう一度言いますが、国や県が私達を水俣病と認めないのは絶対におかしいです。
水俣病と認定された人も認定されてない人も、みんな同じように水俣の魚や貝を食べて生活してきました。他に食べるものはなかったんです。みんな、同じような症状に苦しんでいます。なぜこのような苦しい辛い思いをして生きていかなければならないのか、頭が痛くなるたびに国と熊本県が憎くてたまらなくなります。原告の中には、大阪高裁の判決で棄却になったり減額されたりした人もたくさんいます。最高裁がそれを認められたので、その人たちはチッソにお金を返さねばなりません。みんな、私同様、水俣や不知火海で生まれ育ち、魚介が主食でした。ほかに食べるものはなかったんです。感覚障害も認められています。それなのにどうしてこのような扱いをされなければならないのか、不安と憤りの毎日です。
私達が水俣病でないのなら、私達は認定された家族と違って水銀に強い体をしているのでしょうか? この頭痛は、水俣病ではない原因不明の奇病なのでしょうか?
最高裁の裁判官の皆さん、私達を水俣病の患者と認め、奇病ではないと言ってください。そして、何十年も待たせて悪かったと、国や県に謝らせてください。
最後の水俣病裁判で患者の声を聞き届けてください。これが亡くなった原告も含めて、私たちみんなの思いです。お願いします。
2004年10月15日(金)最高裁判所の判決! 悔し泣きをしています!!
原告が水俣病患者かどうか、という点では、大阪高裁で認められた原告については、そのまま患者と認められました。賠償金もそのまんま。つまり、大阪高裁で否定された原告は、救われませんでした。チッソに返還せよと言われた分は、返さなくてはなりません。年五分の利子がつきますから、そろそろ総額7000万円には達したはず。弁護士さん、頑張って交渉してくださいね。
国と熊本県に責任があるかどうか、という点では、基本的に大阪高裁の判決通り、チッソの工場排水を規制する義務があったとして認められました。じゃあ、なんのために7月に弁論を再開したのやら(行政責任がゼロにされるという見方が大半でした)と思いきや、少しだけ変更がありました。国と熊本県の責任が発生するのは「1960年1月から」という区切りが厳格に適用され、その前に水俣・不知火海から引っ越した原告8人については、責任がないとされてしまいました。
そのため、会長の坂本美代子が「チッソだけの責任の水俣病」にされました。奇病が出たと村八分され、寝たきりの清子姉さんにおコメのお粥を食べさせようと、稼ぐために大阪に出たことが、仇となりました。水俣病のせいで生活に困った人ほど、早く水俣を離れて関西に出ていることが多いのですが、最高裁判決は無情でした(大阪高裁が厳格に適用しなかったのは、それだと不公平だと考えたからかな?)
そもそも、どんなに海が汚れていようと、どんなに工場排水が汚かろうと、汚染された貝や魚を食べなければ、水俣病にはなりません。見た目は普通で分からないのですから、国や熊本県が「危ないですから、食べるな」と言ってくれれば、誰も食べません。言ってくれないと、食べてしまいます。魚や貝を主食にしているのですから、早く言ってくれないと困ります。
熊本県は1957年の夏に食品衛生法を適用して、「販売用に釣ってはいけない」と言おうとしました。販売用に釣っている漁業組合に補償する準備もしていました。「食べてはいけない」と言うための法律がなかったらしく、せめてもの対策として「販売用に釣ってはいけない」で、被害の拡大を防ごうとしたのです。 しかし、厚生省が待ったをかけ、「水俣湾内の魚が一匹残らず有毒だという明らかな証拠がない限り、ダメ」とを止めました。
大阪高裁の判決では「原告らは自家用に釣っていたのであって、販売用に釣るのを禁止しても、関係がない」からと、国と熊本県が食品衛生法を使わなかったことを免罪しました。理屈はそうかもしれませんが、販売用に釣ってはいけないのなら、自家用に釣るのも控えますって…。
そして、食品衛生法を使わなかった責任が認められたら、坂本会長の行政責任も大丈夫だった…(会長の来阪は1958年。なお、大阪に引っ越してからも里帰りはしょっちゅうで、汚染魚との縁は切れてない…)。
会長を慰めようとしてか、多くの人が「賠償金は減らなかったのだし、水俣病であることに変わりはないのだし…」と言ってくれます。しかし、初代原告団長の岩本夏義さんが言っていたように、「お金の問題ではない」のです。国と熊本県に責任を認めさせたかったのです。この思い、なかなか分かってもらえませんが、会長は悔し泣きをしています。
NHKスペシャル「不信の連鎖 水俣病は終わらない」が放映された翌日、環境省の部長さんと室長さんが、初代原告団長・岩本夏義&愛子夫妻の仏壇前に登場しました。
「もっと早く来てほしかった…」「本来なら、こちらが提案しなくても、そちらから自発的に来るのが筋」とは言え、11月24日の環境省と交渉の終わり際に思い切って小笹恵さん(岩本さんの長女)が主張したことで実現した、官僚による焼香。恵さんだけでなく、坂本美代子さんはもちろん、普段はおとなしい森ミスカさん(岩本さんと同郷、78歳)や杉山多美子さん(岩本さんの姪)まで、泣きながら口々に
「もっと早く来てほしかった…」
「本来なら、こちらが提案しなくても、そちらから自発的に来るのが筋」
「夏義さんが、一番苦労した」
「本来なら、ここに一番先に焼香に来るべき」
「(亡くなった時から)ずっとお待ちしていました」
「ここから近くの病院に行くとき、すぐ近くなのに、あっちフラフラ、こっちフラフラ歩いていたから、時間が掛かる。一緒に行くと怒るから、離れて付いて行った家族の気持ちを考えてみてほしい」
「川本文子さんと荒木多賀雄さんも、ここに来たかったけれど、体がしんどくて今日は来れなかった」
「医療費だけでは生活費に困るから、行政認定してほしい」
「せっかく裁判が終わったのだから、これからは安らかな生活を送らせてほしい」
「死に損にならないように、死んだ人のことも忘れないで」
「今日の謝罪が、これからの第一歩です」
「水俣病患者だと認定してください」
と語り掛けたのでした(ゆっくりだけど、よー、しゃべる、しゃべる…♪)。
認定されれば、医療費と年金(国民年金程度ですが)が出て、少しは安定した生活が過ごせます。それに、認定されると、補償金欲しさのニセ患者というレッテルを剥がせます。行政による患者認定、これだけは譲れないのです。
そして、夏義さんの日記を「読んでみてください」と見せたところ、部長は意外にきちんと読んでくれた感じで、恵さんたちも後で喜んでいました。室長は部長の後ろから覗き込んでいました。提訴4年目の頃の、団長としての赤裸々な心情が述べてある部分を開けて渡したのですが、まぁ良かったかな。夏義さんは字が上手とはいえ書字障害のため読みにくいので、最初はギョッとしたはず。これで少しでも原告に“人間味”を感じてもらえれば良いナ~♪
環境大臣の小池百合子さんは、謝罪下手で、謝罪しても「誠意が感じられない」と水俣病関係ではブーイングを浴び続けているのですが、今回の部長さんは、そういう意味では上手(?)というか、「誠意がない」などと言われてしまう「隙」はありませんでした。ちなみに室長さんは、なかなかハンサムなのに髪が跳ねてました。部長さんの顔は、ブルドッグ!
下手糞な謝罪をされると、原告達の心をかえってかき乱すことになるので、その点だけは本当にホッとしました(涙)。
最初のマスコミが来たのが朝10時で、部長さん達の到着が11時50分。室内にはテレビ局が5つに新聞社が2つ、入りきれなかったところは玄関の外でワイワイ(詳細不明)。
部長さんたちのお帰りが0時40分頃で、そのあとは各社の取材が続き、仏壇の前で恵さんは同じような返事を反復。美代子さんたちも取材され、最後のマスコミさんが帰ったのが午後3時頃。その間、多美子さん差し入れのドーナツも食べましたが、「おなか減ったねぇ」ということで、出前を取って、皆で醤油ラーメンをすすったのでした。
丸秘公開☆ラーメン中の会話
私「掃除したの?」
恵「仏壇だけな」
美代子「あんた、私の足をよう突っついてたけど、なんやったん?」
恵「私、足が痺れたのに、いっぱい喋って、なかなか終わらんから」
美代子「言うべきことは言わなあかんと思ったんやけど」
恵「足がしびれたから、早く帰ってもらいたいのに」
美代子「あんたが喋ることあるから、早く終われと催促してるのかと思った」
恵「ちゃうよ~」
全員爆笑
まぁこんな感じで、なんだかんだと大笑いして過ごしています。
恵さんは、スーパーで天麩羅をあげるパートさんをしてます。週末は朝から晩までパートなので、とても掃除どころではなかったのでした。なお、天麩羅の油を熱く感じないため、普通の人より効率的に作ることができて、大活躍中なのでした!
感覚鈍磨? 後で水ぶくれはできるらしい。普通じゃないですよね~、いくらなんでも…。でも、足は太ももまで痺れたそうで、部長をお見送りするときは、這ってました~)
恵さんからは「恥ずかしいから、来んといて」と言われつつ、木野先生共々10時40分から4時50分頃まで、仏壇の前に居続けた山中由紀でした。
夕方の毎日放送(TBS系)で3分弱ほどのニュースになっていました。今日の光景だけでなく、夏義さんの声や姿も出てきました。朝日系のテレメンタリーでも夏義さんが多発していて、とっても懐かしかったです(涙)。
夏義さんの足の裏をコショコショしたところ、「こそばくないけど、何かしてるのは分かる。やめ~」と言われたものでした(笑)。
写真付き報告は → http://www14.plala.or.jp/wappa/campus/kiko03.html へ♪